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天照大神・卑弥呼・邪馬台国の新説2

前回の説明の通りに解釈すると辻褄が合うものが多いのだ。
2900年前の富士山噴火に天照大神が巻き込まれたのが天岩戸隠れであり、天照大神の御遺体は見つかるはずもなく、だからこそ富士山自体が天照大神の墓となった。だから、天照大神を祀る伊勢神宮は、奈良に近く、西日本で富士山がかろうじて見える場所に建てられた。奈良からは富士山は見えないのだ。伊勢神宮は天照大神の神社であるがゆえに、墓である富士山が見える所に建てる必要があったのだ。
伊勢神宮がなぜ三重県に建てられたかと言う謎も、私の説で説明可能となるのだ。

また、全国に天岩戸の候補は複数あるが、主に東日本では天岩戸の破片が飛んできたという伝説が多い。
千葉県袖ケ浦市坂戸市場 坂戸神社。天岩戸のかけらという伝承の岩がある
長野県長野市戸隠 戸隠神社には、岩戸が落下してきた伝承がある
岐阜県郡上市和良町 戸隠神社。天岩戸のかけらという伝承の岩がある
奈良県奈良市柳生 天石立神社。この地まで飛ばされてきたという岩がある。
WIKIより

岐阜県郡山市の戸隠神社の岩

破片が飛ぶというのは噴火を連想させる。これらの神社にある岩が本当に噴火で飛ばされた岩かどうか不明だし、実際には多くはそうではないだろう。問題は、噴石か否かではなく、珍しい巨石があった時に、「天岩戸の破片が飛んできた物」と発想できることが重要なのだ。つまり古代の人は、天岩戸伝説は噴火であったことを知っていたのだ。知っていたから、そのような発想ができた。

天照大神は太陽神だ。太陽をあがめる集団が目指す地は、当然、太陽に一番近い場所のはずだ。日本列島で太陽に一番近い場所、つまり、一番早く日の出を拝める場所は東日本だ。決して西日本ではない。だから縄文時代は東日本で発達した。アフリカで誕生した人類の一部が太陽を目指し、たどり着いた最終地点が東日本だったのだ。そこで縄文文明を築き太陽神を主神とする神話ができていった。そして、その太陽神をあがめる種族のリーダーだったのが天照大神だ。彼女はどこに住むだろうか?一番、日の出に近い海岸近くか、太陽に近い富士山だったのではないだろうか。
祭祀を取り仕切る天照大神は、太陽に近い富士山を選んだ。そして海岸に近い香取と鹿島には有力豪族の物部氏と藤原氏に与えた。それが香取神宮と鹿島神宮の起こりだ。天照大神が住む富士山や富士山の辺りは高天原と呼ばれた。富士山から見下ろす景色は、まさに高天原という名に相応しいと思う
このように素直に、日本人の心で、古事記や日本書紀を読めば、おのずと答えは見えてくるのである。戦後の教育や思想は日本人から、その心を奪ったのだ。

古事記・日本書紀で隠す富士山
万葉集と古事記・日本書紀は、ほぼ同じ時代、西暦700年代の作品だ。
万葉集には富士山の歌は11首ある。万葉集に記載された同じく関東の山である筑波山の歌は25首もあり、筑波山に比べれな少ないが、一応、11首はある。私はこの差は富士山に対する畏怖の念だと思っている。
また、古事記・日本書紀には富士山の記載はない。
芸術作品である万葉集には富士山の記載があるのに、政治的な目的のある古事記・日本書紀には富士山の記載がない事になる。
つまり、古事記・日本書紀には富士山の記載がない点に政治的な意図を感じるのだ。ならばなぜ古事記・日本書紀から富士山の記載を外したか。
それを語る前に一度、私の説を整理しよう。

1万年前~ 東日本中心に縄文大文明
        ↓
    関東を中心に日高見国が誕生 
    富士山及び麓辺りに高天原が誕生
        ↓
2900年前 富士山噴火 高天原は壊滅
     火山灰は関東を覆い不作の地に
     寒冷化も進行
     徐々に西日本への移住と進出を開始
     九州に地盤を作る
        ↓
2600年前 天照大神の5代後の神武天皇は西日本を制圧

つまり、東日本の支配者層が東日本を出て西日本を制圧したのが弥生時代。
その後、西日本を中心に支配を強固にしていくが、その間、東日本は手薄になっていた。ヤマトタケルが東日本に進出するのは西暦200年頃だ。つまり、600年間程、東日本は放置状態だったことになる。当然、東日本には他の支配者部族がいただろうし、別の国になっていたはずだ。蝦夷などと呼んだのはそのためだ。そして古事記が編纂されたのは西暦700年ごろの事だ。既に大和朝廷は西日本で確固たる支配を確立し、日本で一番栄えた地となっていたが、実は先祖は今は寂れた東日本から西日本に進出してきた者で、天照大神の墓も東日本の富士山にあるが、東日本への支配が及ばず、東日本は他の部族に取られていたなどと言えるはずがない。
だから天照大神の居住地であった高天原の正確な場所には触れない。だから富士山に関しても触れられない。だから神武天皇は、神の国から西日本にやって来たとした。
こう考えると古事記や日本書紀の編纂に数十年も要した事も理解できる

最古の古墳の形
日本最古古墳は円墳でもなく、方墳でもなく前方後円墳の箸墓古墳だ。
最初の古墳から前方後円墳であることに疑問を感じていたが、前方後円墳は天照大神の亡くなった富士山と富士山の噴火による濁流等を模していると考えれば合点がいく。どんな墓を作るべきか考えたときに天照大神の墓を模すのは十分、理解できる。そして何よりも富士山という日本人なら誰でも決して話題にするであろう富士山が古代では存在感が無かったのである。しかし、前方後円墳は富士山を模した物と解釈する事で、その疑問も解消される。富士山を愛し敬い恐れる気持ちは、やはり古代の人も持っていたのである。

ならば、もう1つ疑問がわく。
神武天皇の墓はどこなのか?
箸墓古墳は誰の墓なのか?
その話はまたの機会に。

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