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地においての証言者②


前回の記事において、「Ⅰヨハネ」と表記されるヨハネの手紙第一は、人であるイエスがキリストである、という明確な意図をもって執筆されている、と書いた。

今記事は、その適用。


エクレシアは、イエス・キリストの肢体とされている存在。

TR底本にある「彼の肉であり、また骨である」という記述により、創世記2:23のアダムの言葉が想起され紐付けられるのだが、NA底本では欠落しており、業界聖書(新改訳系、共同訳系、他)には記述されていない残念。

では、エクレシアにおいて、地の証言者「霊・水・血」は、どのように証言者として機能するのか。

この箇所の「霊」は、聖霊であることは、前記事のとおり。
この「聖霊」が、地において証言するのは、キリスト者自身に対して、キリスト者の魂への証言。

キリスト者自身に、ある時に「自分は救いを得ているのか」と不安と混乱を覚える、そういったことが起こりえる。
思いがけない大きな過ち、罪を犯した際。
「人の教え」や、自身の御言葉の読解により、「救い」を疑う際。
神の存在を見失うような、人生の出来事に遭遇した際。

その際、異言で祈ることで、キリスト者自身の魂に対して、キリストの所有とされていることを、聖霊が証言される。

@エペソ1:13ー14 協共訳
エフェ 1:13 あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。
エフェ 1:14 聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです。


補足
聖霊を受けると、原則として「異言」が伴う。
聖書の記述によれば「聖霊のバプテスマ」は、体が熱くなった、恍惚感を得た、涙がとめどなく流れた、感情的に満たされた、という経験ではない。
そうした経験は実際であり、キリスト者には有益、否定するものではない。
ただ、そうした体験を「聖霊のバプテスマ」と呼称することは、聖書に裏付けされるものではない。

異言が現れないままに、聖霊を受けた、と主張することはできるが、証印、として現すことはできないだろう。
異言が現れているのであれば、聖書の記述に照らし合わせて、証印、と主張することができる。
それが、聖書に則しているものか、聖霊によるものか、という考察は、次の段階において検討されるだろう。
少なくとも、自然ではない現象、(それを不自然とするか超自然とするかは別として)、現われをもって主張することができる。

なお「異言がない⇒聖霊がない⇒救われていない」という思考は、聖書に根拠をもたない。一部において、そうした主張があったことは残念至極。

@ローマ8:9ー10 恊共訳
ロマ 8:9 しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
ロマ 8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。

「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していない」
というのが聖書の提示。
聖霊を持たない者は、とは書かれていない。
キリスト者は、「キリストの霊」を受けているゆえに、キリストの肢体とされている。
(筆者の聖霊理解については、最下段に添付した記事をご参照ください)


「水」は、キリスト者とされたことの公の表明である「水のバプテスマ」。

一義的に、人として生まれたイエスを証言する、というあることは前記事に記述してある。

二義的には、キリスト者の共同体であるエクレシア、ヤハウェの家族とされた兄弟姉妹の前で、公にイエス・キリストを主と告白し、エクレシアに受け入れられる。
同時に、見える世界(物質の領域)、見えない世界(霊の領域)の、前被造物に対して、キリストの所属、であることが公にされる。
(筆者のバプテスマ理解については、最下段に添付した記事をご参照ください)


「血」は、御父への証言であり、完全な赦免。

第一義的に、この「血」は、イエス・キリストが十字架において流された血潮である、ということは前記事に述べている。

この血は、イエス・キリストの十字架による贖い、それに根拠を持つ、義、救い、を御父に証言している。

原型は、イスラエル民族の出エジプトに記されている。

@出エジプト12:7 協共訳 
出 12:7 そして、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。

@出エジプト12:13 協共訳 
聖書協会・共同訳 出エジプト記 [12]章
出 12:13 あなたがたがいる家の血は、あなたがたのしるしとなる。私はその血を見て、あなたがたのいる所を過ぎ越す。こうして、エジプトの地を私が打つとき、滅ぼす者の災いはあなたがたには及ばない。』」


その実体は、イエス・キリストである。

@ヨハネ伝1:29 協共訳
ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。



十字架死と復活を経たイエス・キリストの血は、キリスト者に与えられている。


@Ⅰペテロ1:2 協共訳
1ペト 1:2 すなわち、父なる神が予知されたことに従って、霊により聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために選ばれた人たちへ。恵みと平和が、あなたがたに豊かに与えられますように。


@Ⅰペテロ1:17ー19 協共訳
1ペト 1:17 また、あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼んでいるのですから、この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい。
1ペト 1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、
1ペト 1:19 傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。


@ローマ5:9ー10 協共訳
ロマ 5:9 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
ロマ 5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

@ヘブル10:1ー18 協共訳
ヘブ 10:1 律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。ですから、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできないのです。
ヘブ 10:2 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた以上、もはや罪の自覚がなくなるのですから、献げ物をすることは中止されたはずです。
ヘブ 10:3 ところが実際は、いけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。
ヘブ 10:4 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り去ることができないからです。
ヘブ 10:5 それで、キリストは世に来て、次のように言われたのです。/「いけにえも供え物も、あなたは望まず/私のために、体を備えてくださった。
ヘブ 10:6 焼き尽くすいけにえも清めのいけにえも/あなたは喜ばれなかった。
ヘブ 10:7 その時、私は言いました。/『御覧ください。私は来ました。/巻物の書に私について書いてあるとおり/神よ、御心を行うために。』」
ヘブ 10:8 初めに、こう言われました。「いけにえや供え物、焼き尽くすいけにえや清めのいけにえを、あなたは望まず、喜ばれなかった。」これらは、律法に従って献げられるものです。
ヘブ 10:9 次に、こう言われました。「御覧ください。私は来ました。御心を行うために。」第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。
ヘブ 10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。
ヘブ 10:11 すべての祭司は、毎日立って礼拝の務めをなし、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。
ヘブ 10:12 しかし、キリストは、罪のためにただ一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、
ヘブ 10:13 その後は、敵どもがご自分の足台となるときまで、待っておられます。
ヘブ 10:14 実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。
ヘブ 10:15-16 聖霊もまた、/「『それらの日々の後/私が彼らと結ぶ契約はこれである』と/主は言われる」と言った後で、私たちにこう証ししておられます。/「私は、私の律法を彼らの心に授け/彼らの思いに書き記す。」
ヘブ 10:17 さらに、こう言います。/「私はもはや/彼らの罪や不法を思い起こすことはない。」
ヘブ 10:18 これらが赦される以上、罪のための献げ物はもはや無用です。


@ヘブル12:22ー24 協共訳
ヘブ 12:22-23 しかし、あなたがたが到達したのは、シオンの山と生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たち、天に登録 されている長子たちの大集会、すなわち教会、すべての人の審判者である神、完全な者とされた正しい人たちの霊、
ヘブ 12:24 新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血より優れたことを語る注がれた血です。


まとめ

霊と水と血、この三者の証しは一致している。

霊:
イエス・キリストは、キリスト者に聖霊を分配し、キリスト者自身への証言者とされた。

水:
イエス・キリストは、召した者を、ご自身の肢体に植え込まれ、編み込まれ、救いを与えられた。
不可視的に起こったその彼の業を、可視的な「水のバプテスマ」として証言する。

血:
イエス・キリストは、十字架において贖いを成された。
その血は、彼の義を御父に証言する。
キリスト者は、彼の義の中に置かれた存在として、御父に認められる。


参照記事


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