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鬼越えの裏窓

鬼越トマホークといえば、いま、お笑い界の「台風の目」的存在になっているのではないか、そんな風に思うことがあります。このコンビ自身の漫才、コントを見たことはほとんどないのですが、坂井くんと金ちゃんによる動画の企画は、新しい領域を拓きつつあるように感じています。特にお笑いが好きということはないのですが、笑わせつつ、微妙に爪痕が残ります。容貌魁偉の坂井くんと戦国野武士の金ちゃんとの二人が繰り広げる世界は、ちょっとまとめてみようかと思わせてくれます。

喧嘩芸を売りにするコンビのようですが、それは売り出し上の作戦でしかない、と思われます。本人たちも、そこだけを真剣に考えているようではなさそうです。マスコミ媒体を手玉にとるように、といってマスコミに頼り過ぎず、Youtubeを駆使して、一体どのあたりを戦略目標としているのでしょう。

今年、私が見て印象に残っている動画について、気ままに述べてみようかという気になっています。下記四本のサブテーマを置いてみました。それぞれ各二本ずつの動画番組を想定しています。
▶ 私生活①、②
▶ 芸人あるある①、②
▶ 時効公開①、②
▶ 企画一発①、②

私生活① 生々しさが突き抜ける

最初はある女性タレントのエピソードで、サムネのタイトルは「人生で一番エ◼️かった出来事ランキング 風吹ケイ24歳が◼️っちゃった!?」。これは、うら若い彼女の実体験の赤裸々な告白です。「赤裸々な告白」などという言い方が場違いと思わせるぐらいの、極めてナチュラルなトークに過ぎない、むしろそのことに驚きます。

どうしてこういうことが可能になるのでしょうか。自分の具体的性体験を自らの口で淡々と述べられるというのは、つくづく時代が変わったとでもいうしかありません。「女性の口から」と書くことを私が避けるのも時代のせいでしょう。性体験の語りかたに男女差を置くのは差別かもしれませんから。

世の枠組みというか背景としては、放送から通信への変化が考えられます。テレビからネット動画への移行のことです。大放送局からテレビでお茶の間の家族へという構図は、最小限の動画制作室からネットでPCやスマホで
個人的に楽しむという図式に変わっています。今さら言うべきことでもありませんが。
(と言いつつ、インターネットテレビが普及している現象もあるようです。)

このことがもたらしている大変化は、森鴎外などから、いやいや昭和世代からしても、隔世の感があります。いわば風吹ケイ嬢のウィタ・セクスアリスなわけですが、鴎外の「ウィタ・セクスアリス」が当時発禁処分になったなどとは、ちょっと想像しにくいものがあります。どんどんオープンになるというより、原始の時代にもどっているというべきなのでしょうか。われわれは今、かつてなら制作者の犯罪性が問われる部類の鑑賞を、日常的に行なうことができる時代です。浅草のり、ボカシ、モザイク·····そんな言葉は、オヤジたちのセンチメンタルジャーニーの1カットになってしまっているのかもしれません。

大勢から少数へ、家族から個人へ、複数から単独へ、こんな視聴状況の変化が伝達内容の許容度にどう関わるのか、そこが根本かはわかりません。鬼越自身も「テレビでは言えないけど・・・」というセリフが出てきますので、通信の閉鎖性が表現の幅を広げていることは、明らかと思います。

一体、御上は何をしているのでしょうか。別に取締りをしてほしいわけではなく、なぜこうなってしまうのかを知りたいのです。つまり、コンプライアンスも技術革新 ─ この場合はインターネットによる通信技術 ─ によって事実上なしくずしに変更されることがある、ということになっているのではないでしょうか。一気に世界同時多発的に蔓延するものをどうやって取り締まれるのでしょう。取り締まりきれないというあたりなのでしょうか。
(法が現象を容認することは、あること?ないこと?)

確かに、他の例として浮かぶのは、こんにち生成AIによって著作権の問題が、ふわふわし出していませんか。どう捉えたらいいのかわかりませんが、気がついたら著作権が有名無実になっている、そんな足音が聞こえるかのようです。いつの間にか、浅草のりがすっかり剥がれてしまっているようにです。

もうひとつ、通信と放送の違いからくる、出演者側の心理的変化も加担しているように思われます。動画の出演者も個人視聴者宛というイメージを持ちやすいことが、何でも語りやすくさせる面があると想像します。「どうせ私に興味のある若い男が見るんでしょ」といった感じです。しかも、坂井くんと金ちゃんは、なかなかのインタビュアーです。ゲスト出演者を、おだてて、のせて、笑わせて、あっという間にすべて引き出してしまいます。テクと同時に、鬼越という存在が女性の気を許させるキャラを放っているのです。今回の風吹嬢だけではなく、鬼越の前ではあっさりと衣服を脱ぎ捨ててしまうかのようです。これは、シュッとした漫才師や理知的なコント師では、貝がフタを閉じてしまうのとは正反対です。

ここは、鬼越のご両人も心得ていて、バカに振る舞う一方では、女芸人の女性としての魅力だけではなく、お世辞ではない核心をつく人間的美点や、芸人としての才能を、的確にフォローするわけで、番組が終わる頃には、ゲストはスッポンポンと相成ります。

ひとえに私一人の感覚が時代からズレているのではなさそうなのは、インタビュアー金ちゃんが、彼女の発言に対して、飾り気や照れもなく普通に披露してくれるその話しぶりに内心驚きつつも、それを強く出さずにほめそやす微妙なフォローコメントにより、確信に導かれます。覗きや痴漢やレイプやら、性に因んだ話題とは、男にとっては常に「悪」としての抑圧が染み込んでいます。世に男と女がいるからこそ、世界と時代が今あるということなのに、男は性についての素直な発言を女性の側から見聞したことがありません。一時期、宇能鴻一郎の小説や、谷岡ヤスジの漫画がかなり読まれたと思いますが、それは男の作者に依るものです。それでも男は十分に興奮したものです、おそらく日本じゅう。それだけに、女性の側からの生の発言とは、ハッとして、新鮮というわけです。もしかしたら、風吹ケイ嬢はその価値を見抜いている可能性さえ感じます。ここまでゲストを裸にできる鬼越の二人の手腕は、見た目の演出含めてのスキルが感じられます。

「裏窓」は、売ってはいない。

私生活② バイト暮らしのリアル

いま、私たちは、主に支配的プラットホームYouTubeを通じて、今まで知らなかったことが、どんどん明るみに出ています。軽い装備で気軽に表現媒体を持つことができ、世界に発信、また世界から受信できるようになっています。特に発信者側については、それが視聴されるほど制作者のインカムにつながることが、珍しいこと、知らないとされること、触れられなかったこと、などを伝えようとする動機に加担しているのかもしれません。

例えば、私たち一般人には、成功した芸人の高額の収入が、動画の中でさりげなく伝わってきています。一時期テレビにでまくっていた、モノマネ芸人清水アキラの年収は4億8千万あって、10年続いたことは御本人の弁。爆笑問題の太田は、動画の中で100万のお香を買って奥さんに怒られたことをネタにしているし、田中も山口もえとの再婚後、都内に豪邸(8億らしい)を建てたことがネタになって出てきます。
知らなければ知らないで済んでいたことが、
情報として知らされています。そういう時代なのでしょう。

ここで申し上げたいのは、芸人志望者たちが、芸人として成功すれば高額収入が得られるとしてジャパニーズドリームを夢見ているようなのです。もともと芸人を志向する方は、当然そんな算盤をはじいていて、私らは金額の実感を後から知って、さもありなんと追認しているだけですが。

「芸人闇バイト列伝 遺品整理事件簿」では、
大自然ロジャーが鬼越のインタビューに応じて、驚くべき仕事内容を語ってくれます。聞いていて気持ち悪くなるような描写が出てくるのですが、それを逐一書くつもりはありません。それをバイトとして平然とこなすロジャーのメンタルが凄いと言うべきですが、ひるまずインタビューを重ねる金ちゃん、坂井くんにも、脱帽します。ドキュメントを撮影しようとして執拗にカメラをまわし続ける、カメラマンを思わせるのです。

見ている方は、その気持ち悪さに視聴から離れようという気持ちが生じるのですが、同時に目が離せなくなる、ということが起きます。本なら「読後感」ですが、視聴後感として私の脳裏に、似たような感覚として想起されるのは、大江健三郎「死者の奢り」や丹羽文雄「厭がらせの年齢」などです。書かれているシーンだけを聞いたら、けっして読みたいなどとは思わないというより、できれば目を背けたいと思うようなイメージです。

(ここで私はその具体的内容を書きません。書かずとも、「厭な感じ、気持ち悪い感じ」は伝わるし、本文の文脈ではこれで十分と考えます。)

丹羽、大江両人の作は言わずと知れた小説ですが、私のずぼらな認識では、文学的リアリズムがひとつの価値として標榜された頃だったと思います。「遺品整理事件簿」に、私は「リアリズム」を感じるのです。坂井くんも金ちゃんもおもしろがって(笑いになると思って)インタビューを続け、ロジャーも淡々と話し続けるのですが、私は最後まで見てしまっていました。

少し買い被った言い方になるかもしれませんが、鬼越コンビの意図を越えて、リアル世界が現出していたのかもしれません。

坂井くんには、ゲストに対してその人物を掘り起こそうとする視線を感じます。考えや行動がどこからきているのか、過去の体験や、培われた性格などを見据え、その人物像を描き出そうとしているかのようです。あるいは、その人物に対する納得感を求めて追求する感じです。いわゆる「深掘り」するわけですが、この探究心はおもしろいと感じます。
言い換えれば、このしつこさが、ここどういうべきかですが、単なるトーク動画を打破しているかもしれません。
(人間追究視線のすぐ脇には、文学性につながるものがあるのかも知れません。)

それにしても、芸人をめざして、いわゆる「喰える」ようになるまでのバイト稼業の下積みは大変なものがあるようです。その実態をあぶり出して、視聴者にそこを含めて紹介しようとする鬼越の、ゲストへの熱烈なエールが感じられます。

芸人あるある① 蠢く敵対心

「こうしてKAZMAは誕生した」では、私はこれまで見たこともない、知らなかった世界に引き込まれていました。

はじめからKAZMAは饒舌に語るわけではないのですが、鬼越の質問に対し、いちいちよく思い出すようにしいしい、結局きっちり話してくれるのです。お姉さんを持つ兄弟構成のようですが、エピソードを聞いているうちに
この兄弟のヤンキー的キャラが伝わり、微妙なおもしろみを誘います。

この動画で出色だと思ったのは、KAZMAの漫才相方村上純に対する部分です。普通、相方同士は仲のいいコンビと映りますが、逆で、KAZMAは相方のネタ披露に「滑ればいい」なとど思うことを語るのです。相方に対する忌避感のようなものがあり、嫉妬なのか羨望なのかを包み隠さずコメントするのです。漫才最中の、こんな人間の露骨な感情表現に遭遇したことは、初めての体験です。相方がネタを飛ばしてのその収拾談はよく聞きますが、漫才最中のネタの裏で生起している露骨な人間心理の表白は、リアルです。

KAZUMAと村上は「しずる」のコンビですが、二人の関係性は仲が悪いといった表現は的確ではないと見ます。それについては、鬼越の村上をゲストとしての番組もあり、それぞれのキャラを確認するのも、おもしろいものがあります。というか、鬼越のヒヤリングを通じて、KAZMA、村上のそれぞれの人間をさらけ出させるそのプロセスが絶妙です。

KAZUMAは、鬼越という一切取り繕うこともない相手を得て、むき出しの心中をさらします。意に反して、「しずる」が大ウケした時のギャップは、われわれにひねりの効いた笑いをもたらし、芸人のキャラは多様ですが、KAZMAは異色の印象を感じさせます。漫才の裏側での、通常知ることもない演者の心理に、人間臭さが表れて何か珍しいものを見せられたような気分になるのは、意外なことです。

「表窓」も、売っていない。

芸人あるある② 鬱屈がはじけるとき

「お見送り芸人しんいち編」では、そこで語られる内容が破天荒の極みです。しんいち自身のことではなく、彼が語るウエストランドの河本のエピソードです。

ウエストランドと言えば、昨年のM1の覇者で
その後の人気ぶりは、そのサクセス周辺も新たなネタになる活況ぶりです。いわずと知れた井口と河本のコンビですが、その河本には鬱屈があると私には映っています。漫才芸以外の場面でのことですが、井口が10語るとすれば、河本は2程度しかしゃべらないのです。そのこと自体は何でもないのですが、井口が河本のトーク力を腐すだけではなく、コンビとしてのギャラが折半だということも、
笑いになると思ってか表沙汰にしてしまっています。このようなことから、私の河本に対する視線は、いたたまれなさがにじんできます。

その上で、しんいちが河本ら芸人仲間とパブで遊蕩三昧に耽ったようなエピソードが語られます。その時、河本の驚くような弾け方があったと具体的に紹介されます。シャンパンやテキーラを何本も注文したようで、手がつけられない状態であることが伝わってきます。自らの意志で解消を求めてストレスをコントロールしようとするのは十分に理性的ですが、淀んだコールタールようなストレスに押されて爆発してしまうことには、切ないものが漂います。この時の遊興費用は100万円だったことが明かされ、河本の大盤振る舞い的一夜だったようです。

このエピソードは、私の河本に対する見方を裏付けているように感じたものです。どれだけストレスがあったかということです。M1グランプリの結果が思わぬ芸人界の裏模様をあぶりだした、しんいちのトークであり、鬼越の裏窓です。

鬼越は動画を通じて芸をなりわいにしたり、芸をめざす人間たちを、ネットにさらします。芸人として世間に表現している部分からは見えない人間の素を描出します。インタビュアーとしてゲストの情報倉庫をこじあけ、
公開してしまいます。それは、坂井くん金ちゃんと、しんいちとの信頼関係、あるいは共犯関係のようなものとも言えましょう。このように、鬼越は芸人の裏窓になっています。
私たちは鬼越を通じて、芸人の生身の人間としてのリアルに導かれるのです。

結局しんいちは、この遊蕩については半額を負担し、金ちゃんがすかさず「このネタを50万で買ったのですね」とオチをつけます。しんいちの行動は、ある種の潔さを感じさせてくれます。後輩にあたるであろうハチャメチャな河本に対する、しんいちの男気のようなものです。

時効公開① フライデー事件

ここで言う「時効」は、正確な意味で用いているわけではありません。だいぶ時間が経ち
もう語れる状態になったよね、程度の話ですが、渦中にあっては当時者も周囲もモヤモヤしていて、時間とともにさまざまな角度から指摘がなされ、検証・批判・評価され、その濾過を経てこそよくわかる、というそんなことを「時効」に込めています。

「ヤバすぎた芸能界の裏話とたけしさんとの絆」では、その事件自体について検証したいわけではなく、ガダルカナル・タカとつまみ枝豆のトークから、何が見えてくるかということです。事件当時(1986年)私は、特にこのことに関心があったわけではありませんが、おおむねたけし側に気持ちを寄せていた感じです。今回この機会にあらためてウィキペディアを確認しても、私の気持ちに変化はありませんでした。詳細な事情に接しても講談社を批判的に思うところです。

タカと枝豆を引っ張りだしてくるとは、鬼越の二人がいかに動画ネタを物色しているかが
わかるような気がします。すでに取り上げた芸人4人については、どちらかというと話丙のバリューはインタビュー前にはわかっていないという感じですが、今回については、あの事件の舞台裏を引き出そうという企画性が
わかります。今だから聞けるネタ、今聞けるおもしろいこと、今こそきいてやれ、そんな
着眼点が感じられます。

タカと枝豆も、鬼越という聞き役を得て、どんどん語り明かします。私は、当時の事件の実録的なことより、軍団のたけしへのリスペクトの熱さに惹かれます。たけしの芸人というべきか、人間というべきかはともかく、たけしの魅力に引き寄せられた芸人が多くいることに驚きます。

ここまでくると、私はどうしても爆笑問題の太田光が想起されます。彼のたけしへのリスペクトも有名、といっていいと思いますが、
彼の弁によれば欽ちゃんとたけしの笑いの違いを語っていて、たけしのリアルな部分を買っているように思われます。すでにお気づきでしょうが、実は、本論の鬼越の視線は「リアル」に向かっていると考えています。そのリアル志向がついに、北野武のリアルに迫ってきた、というところでしょうか。

タカも枝豆も、当時の事情を忌憚なく語り尽くします。こういういわば、時間を経て骨董品的な価値を持っている当時の情報を、めざとく拾い上げる鬼越の二人には、企画者、プロデューサー魂が懐胎していると言っていいでしょう。

私たちは、当時のあの事件について、当事者の生の声に、立ち合うことになります。

「裏窓」は、「物」としては存在していない。

時効公開② 河本の本心

こちらの河本は次長課長の河本の方です。彼が漫才師として表舞台から遠ざかっていた、とは知りませんでした。私は、今あとから河本に起きた問題を知ったというわけです。そういえば、当時炎上している情報に一瞬接した記憶があるような気がしてきます。

ここでは「次長課長河本激白」の回を取り上げます。要は、人気芸人としての次長課長の活躍の裏で、河本の実家が生活保護を受けていることが問題にされたようなのです。このことについては、多種多様な論点が出てくると思いますが、そこではなく、動画では河本の対応、スタンスに迫ります。

SNSの時代だから炎上が起きるわけですが、だからこそ、YouTubeで問題にされた側の対応、そこはかなり重い決断が伴うわけで、その河本の実態に鬼越が迫ります。公共心やモラリティーを考えさせます。鬼越の河本から引き出す本心は、彼の決心には熟慮があったと感じさせますし、視聴者の自分だったらどうふるまうだろう、と迫るものがあります。

河本は鬼越というインタビュアーを得て、1時間20分間みっちりと己れの本心を辿る機会をもつことになります。こういう話題は、要領よく結論を話せばいい、というものではなくさまざまな角度からの検討が生じるわけで、そこを鬼越が丹念に掘り下げます。その過程がそのまま河本への理解のプロセスであり、双方の信頼感を築いていくものと、私は見ます。これは「魂のインタビュー」に近づいているのかもしれません。

河本の決意を知ることにより、視聴者は河本の人間性に立ち合うことになります。このようなネタも、「時効」というより一定の時間をかけて、しっかりと熟成させ発酵させることが必要だったのでしょう。

企画一発① 鬼越のうろたえ

数年前から陰謀論が頻りに言われるようになりましたが、それが出回ること自体「陰謀」を打ち消す方向に機能するわけですから、陰謀側に乗せられているようなものです。歴史的に陰謀はある、というより、陰謀が歴史を作ってきた、と考えられます。さて、「川瀬名人 今後のお笑い界を語る」は、遊べます。
川瀬名人が鬼越の二人に陰謀論をレクチュアする企画です。

すでに紹介済みの六つの動画と明らかに異なるのは、金ちゃんと坂井くんが借りてきた猫のように聞き役になってしまいます。あれだけのインタビュアーぶりの二人が、こうも変わるかというぐらいになるので、まずここがおもしろい。

あとは、川瀬ワールドの開陳です。この動画については、とにかく一見して頂いた方がいいでしょう。鬼越もひっくり返る展開が待ち受けています。

一体、川瀬とは何者か?と思わせずにはおかない、仰天の企画です。

「裏窓」は、すなわち見る側の視点の謂いである。

企画一発② 知ってはいけない

ここまではすべてゲストを招いての企画でしたが、この回はゲストなしです。タイトルは「芸能界に潜む別班」となっています。

しかし、芸能界に別班を持ち込む企画力に鬼越のセンスを感じます。本文で冒頭から六つの動画はリアリズムが肝といえますが、最後の二つはエンタメに企画転換されます。この方が、純粋に企画性が発露する面があるともいえます。

芸人界の別班を明るみにさらしてしまって、鬼越は大丈夫なのでしょうか。知ってはいけない存在が別班だったのではないでしょうか。スパイ大作戦のメンバーが実は、お笑い世界にも忍び込んでいたことを裏窓から見せてしまって、坂井くんと金ちゃんにリスクは迫っていないのか!!

私は、坂井くんを見ていると爆問の太田光との共通性を感じています。どちらも、「表現」に対するある種のセンス、思い、そんなようなものを感じるのです。「表現」にこだわりを持っている者の振る舞いが、ところどころに出てくるのです。一方きんちゃんの反射神経は凄まじい。坂井くんのゲストに対するクリティークが出ると、これを中和させたり、増強させたり、この展開こそ芸なのかもしれません。

芸人たちは笑いを研究し追求しています。たぶん笑いを最高の価値としているのでしょう。笑いによって、エロ、グロ、羨望、ストレス、暴力、炎上、陰謀、諜報、あらゆるものを吹き飛ばそうとしているように見えます。笑いと文学となれば筒井康隆あたりが想起されます。あまり意識したことはなかったのですが、鬼越トマホークを通じて笑いというものの奥深さに、大正昭和に勃興した文学のリアリズム精神の再来に遭遇しているような気になっています。

冒頭で触れた鬼越の目標のことですが、これは可能性として考えられること、といった程度の話です。私は鬼越を見ていると、お笑い界番組の企画・演出・プロデュースができるのではないか、と想像します。芸人側からの佐久間宣行になれる可能性です。本人たちの志向と東京吉本の思惑しだいですが、芸人界のサイドストーリーをフォローする動画チャンネルを作ってしまうというようなイメージです。もしこれで成立するなら吉本のビジネスになることですし、しかし、鬼越は自分たちも芸人として精進しつつ、余技的に番組を作る方を選ぶのかもしれません。これは素人の考えですが、坂井くん、金ちゃんの二人にはそうまで思わせる鬼越えの力量の発露が感じられるのです。★




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