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ゴリゴリの適応障害がライブで歌ったお話。


適応障害の診断を下された後
しばらくは自分でも何やって過ごしてたのか
ちょっと所々に記憶がない🙏
それくらいショックだったのは言うまでもなく…。

通院中で服薬はしてたものの
希死念慮はまだまだ
俺の中に燻っていたので
なるべく一人にならないよう
深夜に友達のバーに行き
みんなでセッションして歌ったり
フリースタイルラップやって
何とかその感情を
吐き出そう?としてました。

希死念慮だけでなく
後悔、罪悪感、哀しさ、
愛もなぜ?って気持ちも
全部引っくるめたような…

例えようのない
超重力の圧。
ずーーーーーっと消えなかった。

あの時に居てくれた皆さん、
本当に気を遣ったと思います🙏
ありがとうございます◎お陰様です。
でもやっぱり細かい事って覚えてなくて…
画として覚えてる。
脳みそが忘れたがる辛さなんでしょうね。


他の人が俺と同じ境遇に経ったら
この悲しみをどう受け止め
やり過ごすのか

それはわからないけど
少なくとも
俺のこの身体と心、魂の防衛反応は
音楽だった。
歌う事だった。

もし子供を授かってたら
また違ったのかも知らないけど
とにかく俺は少しでもいいから
吐き出したい。
彼女に伝わって欲しい。
それしか考えられない状態で
気がついたら
心はワンモアタイムを願い続ける
山崎まさよし状態。

こうなると俺が音楽に没頭するのは
必然だったのかもしれない。


それからというもの
音楽葬と言うには大袈裟だけど
通い続けた友達のバーで
彼女のお葬式の意を込めた
イベントを開いた。

正確にはまともじゃない俺の代わりに
俺の意を汲んで開いてもらった、だね。
来てくれたみんなも、出てくれたみんなも
その場に居たみんなに感謝🙏


本当に沢山の花と目いっぱいの想い。
歌声も演奏も
全部が優しい空間。
歯抜けの中年の魂の叫び。
ありがとうございました◎

しかしイベントが終わった後も
心は「以前よりマシ」くらいで
相変わらず超低空飛行を続けていた。


音楽を…音楽ををををを、と求め
相変わらずバーで
歌いまくる日々を続けていると
常連さんの1人である
Sさんがライブをやらないか?
と誘ってくれた。
Sさんはバンドマンで
昼は社長、夜は優しい酒飲みだ。
色々と見かねて声をかけてくれたんだと思う。

俺はラップと歌。
日々セッションに付き合ってくれていた
相棒であるバーのボスがギター。
2人で即席ユニット「優しいカルマ」となった。

適応障害全開の夏。
暑さ寒さも季節らしさも体感ゼロの夏だった
7月、8月と過ぎて行きライブの日。
10数年ぶりに立つ下北沢251。
もはや下北自体が懐かしい。

持ち時間10分の完全即興。
ラップも歌も混ぜたスタイルでやった。
内容は覚えてない。
なんでそのスタイルにしたかも
自分がその時に何を歌ったかは覚えてない。
フリースタイルなんてそんなもんだ。
どのみち思ってる事しか言えない。

病みながらも紡いだ言葉の先
ステージからの景色は今も鮮明だ。
そして打ち上げでみんなが楽しそうに
カチャーシー踊っていたのを覚えてる。
真っ昼間の下北沢。気持ちよかった。
ありがとうございました◎
あの日から少しずつマシになっていたかも。

しかし、下北でのライブを終えても
俺の中でネガティブな感情が渦巻いていた。
毎日泣いていた。
この時点で
彼女の死から3ヶ月近く経っていた。
それでもおさまらない哀しみが身体中に疼く。
それを取り払いたくて
俺はここからさらに意味不明な行動に出る。

それは奈良県でMCバトルにエントリーするという、勢いも甚だしい何も考えてない衝動だった。その辺はまた次回書こうと思う。

徒然と心あるまま。
ご一読感謝🙏




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