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【実在した人物:豊臣国松】『プリンセス・トヨトミ』 【2011邦画】

【感想】2024年4月12日

Netflixで鑑賞しました。既に何度か観てますが、観る度に理解できず、今回も理解には至りませんでした。

何度か観てしまうのは、出演者が大好きなメンバーだからです。そして、原作が万城目氏、「鹿男」の大ファンで、歴史ファンタジーコメディなので楽しめます。

今回理解したことは、大阪国人は、豊臣秀吉が大好きだったけど、お家断絶、徳川の大阪城を立てられ、「太閤さんかわいそうやのぉ」で、その子孫を代々守り続けている。会計検査院の松平から「それだけで?」と不思議がられるが、大阪国総理の真田 幸一が「私たちには十分な理由です」と自信満々に返す。このシーンが好きです。

何か、大阪人の義理人情、天皇制の存続が日本人の根っこでは、と感じます。

その後、明治維新の際、大阪国は日本政府に資金を援助し、毎年5億円援助されている。
ただし、疑問点が多々あります。①王女を上層部でもごく一部しか知らないから、守れていない。現に反社事務所に乗り込みそうだった。いなくてもいい存在なのか?②男なら王子か③大阪国民は何故男性だけか④日本国からの援助金5億円は何に使われているのか⑤富士山ふもとの十字架は何かなどが不明なので本も読もうと思います。では、また。

【作品情報】

『プリンセス トヨトミ』のタイトルで、2011年5月28日・全国東宝系で公開。脚本、監督、プロデューサーなどドラマ化された『鹿男あをによし』と同じスタッフで制作されている。主演は堤真一。

概要
万城目学初の長編連載作品。第141回直木賞候補作。『鴨川ホルモー』と『鹿男あをによし』に続く「関西三部作」のひとつ。400年にわたりあるものを守り続けてきた大阪の男たちと、それを知らずに大阪へやってきた会計検査院との攻防を軸に、親子の絆を描いたパラレルワールド的な作品。『鹿男あをによし』とは一部世界観を共有しており、同作品に登場した大阪女学館剣道部顧問の南場勇三がわずかに登場する。また、作中で頻発していた地震についても触れられている。

【あらすじ】

5月31日の木曜日、午後4時。突如として大阪府で一切の営業活動、商業活動が一斉に停止した。物語はそこからさかのぼること10日前、東京から訪れた会計検査院の調査官3人と、空堀商店街に住む2人の中学生の、一見何の関わりもない行動を中心に描かれる。

会計検査院第六局所属の松平・鳥居・旭の3人は実地検査のため大阪を訪れる。そのリストの中には謎の団体「社団法人OJO」が入っていたが、期間中にOJOの検査をできないまま一旦帰京する。一方、空堀中学校に通う大輔と茶子は幼馴染。長い間女の子になりたいと思っていた大輔はセーラー服姿で登校することを夢に見て、実行に移す。しかし、彼を待っていたのは壮絶ないじめであった。

週が明けて火曜日、ある理由で大阪に残っていた松平はOJOの実地検査ができることを知り、現地へと向かう。一方の大輔はその日、担任教師に早退を命じられ、父親とともにある場所へと行くことになる。松平と大輔の2人が見たものは地下に眠る「大阪国」であり、大輔は父が大阪国の総理大臣であることを告げられる。

「大阪国」は35年間で日本国政府から175億円もの補助金を受けていたが、肝心なことを国との条約を盾に語らない。松平はこの「大阪国」の不正を明るみにするために対決することに。そんな中、大輔へのいじめがエスカレートし、茶子はいじめた相手への襲撃を決行するが、そのことが思いもよらぬ事態へと発展する。

それぞれの思惑と誤解が交錯したとき、長く閉ざされていた歴史の扉が開かれる。

【主要人物】

松平 元 演-堤真一

会計検査院第六局副長。39歳。国家公務員1種試験をトップ合格しながら、「検査がしたい」との理由で名だたる省庁の誘いを断って検査院に入った。卓越した調査能力と妥協を許さぬ追及の厳しさから「鬼の松平」と恐れられる。大きな仕事の前には全身の関節を鳴らす癖がある。アイスクリームが好物で、事あるごとに食べる。両親は大阪出身で、すでに他界した元官僚の父親とは長い間確執があった。幼少時に2年半ほど森之宮に住んでいたことがあり、その時に大阪城の異様な光景を目の当たりにしている。部下である鳥居の印象によると、三島由紀夫を連想する。
徳川家康の原名、松平元康に由来。

橋場 茶子 演-沢木ルカ

中学二年生。陸上部員。2歳の時に交通事故で両親を亡くし、自身を引き取った叔母(宗右衛門町でスナックを経営)と大輔の家族によって育てられた。男勝りな性格で、小さい頃からよくいじめられる大輔をいつも守っていた。大輔からはセーラー姿で登校することを最初に打ち明けられている。

秀吉の苗字「羽柴」と、秀頼の生母・淀殿の本名「茶々」に由来。

【実在した人物】

豊臣 国松

生涯
生後すぐに若狭京極家(秀頼の伯母・常高院の嫁ぎ先)に預けられた後、乳母の兄である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となった。これは秀頼の正室である千姫をはばかったものと見られている。結局、世継ぎいない。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が起こると、秀頼の隠し子との詮議を受けぬよう、常高院と共に大坂城に入城。その時、生まれて初めて父秀頼と面会した。その後、和議が整ったのでそのまま滞在していたが、翌20年(1615年)に大坂夏の陣が起こり、国松は秀頼と5月8日に盃を交わし、田中六郎左衛門(京極家侍・もり役・乳母の夫)と乳母に連れられて城を落ち延びた。

別に逃げた妹が5月11日に京極忠高により捕まり、徳川方の捜索により国松も5月21日に伏見農人橋で捕らえられた。

妹は助命されて鎌倉東慶寺で尼僧にされたが、国松は京都所司代板倉勝重、二条城にいた徳川秀忠のもとに連行され、5月23日夕刻、市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門・長宗我部盛親と共に斬首された。享年8歳。田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら殉死を志願して同時に処刑されたという。乳母だけが助命された。

戒名は漏世院雲山智西大童子。墓所は京都市中京区の誓願寺にあったが、明治44年(1911年)に東山区の豊国廟に移されている。
生存説
異説で、国松は(秀頼と共に)薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われた後、豊後国日出藩木下家の分家の交代寄合の祖・木下延次(延由)になったという生存説がある。その根拠として大分県杵築市の立石長流寺にある延次の位牌の表に「江岸寺殿前掖庭月淵良照大居士」で、裏に「明暦四年戊戌稔七月六日 木下縫殿助豊臣延由」と刻まれていることがあげられる。地元では、延由が豊臣国松であったことが立石藩の立藩の理由という説がある。




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