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オリンピックの魔者ならぬ幼稚園の追い剥ぎ

幼稚園に初めて登園した日のことを今でも割とはっきり覚えている。

父親の仕事関係で、幼稚園には途中入園をした。
それまで大人としか関わったことのなかった私は、初めて自分と同じくらいの背丈の、やけにうるさい人間たちの中に放り込まれて、非常に戸惑った。あまりの音の多さに頭がぼやや〜んとして、(お母さんいつ迎えにきてくれるのかな)とほとんど泣きそうになった。

その日は雨が降っていて外はグレーだった。それが一層私を心細くさせた。

やけにテキパキした先生が、私に向かっていろんな説明をしてくれていたが、私はとにかく状況に頭が追いつかずぼーっとしていたのだろう。気がついたら窓際の席に座っていて、机の上には紙粘土と粘土板が置いてあった。
どうやらみんな粘土で遊んでるみたいだったけれど、私はとにかく早く帰りたかった。

すぐ隣にある窓からは園庭を見渡すことができた。
私は紙粘土なんかには目もくれず、園庭に暗い影を投げかけている遊具の合間にじっと目を凝らし、母の姿を探し、しとんしとん降っている雨の音をかき分けて母の声を探していた。

そんなことに集中していたので"あの子"に気が付かなかった。うん。これ一生の不覚。

トントンというよりボンボンと肩を叩かれ、パッと目を上げると"あの子"は私を見下ろしていた。そして、
「ねぇ、あんた誰?」
とだいぶ不躾な質問をしてきた。
今だったらそんな質問、なんてことなく答えられるのだが、何しろ幼稚園生初日、自己紹介というものを認識すらしていなかった私は、
(はて、私は誰なんでしょうか)
と考え込んでしまった。

そんな私の腕をむんずと掴みそのまま引っ張り上げ、"あの子"は私を起立させた。

"あの子"は案外背が低くて、薄い唇が意地悪そうに歪んでいて、そして髪の毛が墨汁を染み込ませたように真っ黒だったことを今思い出した。

"あの子"は私の腕をがっしりと掴んだまま私が着ていたブレザーのポケットをまさぐり、私が当時一番の気に入りだった某挨拶ネコのキャラクターの顔面がプリントされたハンカチを無造作に引っ張り出した。その堂々たる所作、きっと彼女は前世、追い剥ぎだったのかもしれない、あな恐ろしやあな恐ろしや

そして、ここからが驚愕だ。

奪い取った私のハンカチを握りしめたまま、すぐ近くにあった扉から上履きのまま外に飛び出し、雨でぬかるんだ園庭の砂場の上に私のハンカチを放り投げたのだ。

あまりに驚いてしまった。本当に驚いた。
とんだ挨拶だ。

そこからの幼稚園での記憶は全くない。
多分泣きもしなかったし、声を上げて喚いたりもしなかった。

きっと、私は人生で初めて激しい怒りを感じたんだと思う。
でも、その感情にどう身を任せればいいのかわからなくて、小さな身体がその怒りについてくることができなくて、泣きも喚きもしなかったんだと思う。

次の日から私は頑として幼稚園に行かなかった。その次の日も、また次の日も。

初日にフラッと現れただけで、幼稚園に行かない選択をした私に、周りの大人たちがどのように動いたのかは知らない。

でも、幼稚園というワードは私の周りから潮が引くように徐々になくなっていった。

気が付いたら私は幼稚園を辞めていた。

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