閑話休題 〜U-2ドラゴンレディ〜

MADにおけるCSAを語る上で外せないのは「偵察」である。

今では軍事偵察衛星からの画像転送が一般となったが、古くは衛星で撮影したフィルムを投下して航空機で捉え地上に持ち帰った時代もあったし、それの過渡期までを中心に現在に至るまでも「戦略偵察機による写真撮影」が行われて来た。


その戦略偵察機として世界で最も有名なのは(だったのは)、CIA・米空軍を中心に運用された「ロッキード U-2」であり、その非公式な愛称は「ドラゴンレディ」であった。


U-2の実用上昇限度は実に89,000ftともいわれ、作戦飛行高度も70,000ftをゆうに超えていた。

一般の国際線旅客機の巡航飛行高度は35,000ft程であるから、その倍の高さの成層圏で高高度偵察任務に就いていたことになる。


「maintain FL35」

(フライトレベル35を維持)

(飛行高度35,000ftを巡航せよ)

とは航空無線でよく聞く言葉だが…

「FL70」は…考えられない。


※35,000ft = 約10,670m

  70,000ft = 約21,340m

  89,000 ft = 約27,130m


U-2を最も有名な機体としたのは、ゲーリーパワーズ事件(U-2撃墜事件)とも呼ばれたソ連防空軍のS-75地対空ミサイルによる「初の米空軍のU-2撃墜」であった。

この事件は、冷戦下の米ソ関係に強度の緊張をもたらしただけでなく、パリサミットを崩壊させた。


また、策源地対処(CSA、Countermeasure Source Attacks)の初期段階で重要な根拠の一つとなる偵察写真を得るために、領空侵犯を伴ったICBMサイロやそこに供給する軍需工場に研究施設の戦略偵察機による偵察が下火になる直前の出来事であった。


(S-75は、冷戦下当時のNATOコード名では「SA-2ガイドライン」、U-2の初被撃墜は中華民国空軍が運用するもので、同じくS-75により北京偵察中に撃ち落とされた)


パイロットであったフランシス・ゲーリー・パワーズはスヴェルドロフスク州上空で撃墜され、当時事件の俗称にも名前が使われた。

1960年5月1日のことで、宰相だったフルシチョフは赤の広場でのメーデーのパレード観覧中に撃墜の報を受けたらしい。


スヴェルドロフスク州は、ニジニ・タギルに代表されるウラル東域のソ連鉱業の中心地域でもあり、ニジニ・タギルといえばウラル戦車工場(ウラル貨車工場と併せて、ウラルヴァゴンザヴォートとも)で有名である。

また、隔年で交互開催される「ロシア兵器展示会(Russian Expo Arms)」「国際防衛展示会(Russian Defense Expo)」の地としても有名。

今次のウクライナにおける戦役でも使用されるT-72やT-90戦車もウラル戦車工場で開発製造された。


現在戦火に包まれるウクライナは、このスヴェルドロフスク州から西南にウラル山脈を越えた反対側であり、第二次世界大戦の傑作戦車として有名なT-34はハリコフ機関車工場で開発され主にはウラル戦車工場で量産された。

T-34戦車は、ロシア中戦車の祖とも云われる存在でもある。


この様に、ウラル山脈を跨ぐ地域は、ロシアだけでなく世界的にも有数の資源地域であり、古くから鉄鋼関連やガス関連から派生した工業の中心地域でもあった。


U-2は、その任務の特性から様々な悪名も伴うが、その基本に忠実な設計による長細い翼を美しいと評価することも多く、70,000ftの成層圏を10分以上も推力無しで滑空できる性能を持つともいわれ、当時の迎撃機が空対空ミサイルの射程に捉えるには超越的な飛行高度でもあり、正に驚異的な機体であった。

1950年代を通しても高度65,000ft以上を追跡探知できるレーダーさえも乏しかったくらいなのだから、実に驚異的な性能だったといえる。


そんな、驚異的で美しい航空機の昔話が、現在の戦火と核武装論に繋がるとは何とも皮肉な話だ。

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