カジュアル哲学を定義
こんにちは。
今日は、前回の記事で使った「カジュアル哲学」という言葉を定義する試み
です。
結論は簡単で「誰でも語る権利がある大衆化された哲学」
・何のために「カジュアル哲学」するのか
・なぜ手段としての「カジュアル哲学」なのか。
を綴っていきます。
目指すセカイ
目指すのは「みんなが自分の人生を幸せに生きられるセカイ」
それを邪魔しているのは、”他人との比較にハマっちゃうニンゲンの性”だと思います。
お金や地位、不動産、その人の外見や学歴、所属している会社など、ランク付けできてしまう要素で他人と比較してしまうと、当然のように負け組が発生する。
これは構造的な運命ですよね。
この不幸発生装置のような構造から精神的に脱出することが、”みんな幸せ”を実現するためのポイントだと思っています。
※他人との比較は”ニンゲンが文明を作ることができた負のパワー”であると思うのですが、また別のNOTEに。
不幸に歩み寄ってしまうニンゲンの本能
ほっとくと欲が出たり、他人との比較にハマったりして満たされない不幸に歩み寄ってしまうしまうのがニンゲンの本能。
もうこの本能は変えられません。人に腕と足があるのが当たり前なようにDNAに刻まれたニンゲンの設計の一部なので。
しかし人間には理性があります。
本能から湧き出る欲を抑えるチカラがあります。
大脳新皮質という脳の一部がその能力を宿してくれています。
これもまたDNAに刻まれた設計の一部です。
理性の使い方を覚えるのが、今を生きるニンゲンの役割
手はモノを操る。足は移動する。
物理的な動作はシンプルで、分かりやすいですよね。
けど理性って難しくないですか。
瞬発的な欲を抑えたり、染み込んだ価値観をアップデートしたり色々できる感じはあるけど、いまいち使いどころが分からない。
その理由は生物5億年の歴史の中で、理性はまた数百万年しか経ってないからだと思ってます。
能力はできてきたけど、使い方が分かってない。
つまり、ここ数千年を生きるニンゲンは、理性の操り方を覚えるフェーズだと思っています。
理性の使い方をサポートしてくれるのが哲学
そうはいっても、考えたことが正解かどう分からない。
そもそも正解なんてないことも分かってる。
そんな時に羅針盤になってくれるのが哲学だと思っています。
歴史が教えてくれるニンゲンの性質
科学が証明する世界のルール
DNAに刻まれた生き物の宿命
こういったものから、”今を生きるワタシ達が人生を幸せを思える”ため知恵を授けてくれて、「合ってるよ!そのまま進んでいいよ!」って耳元で囁いてくれるものだと思っています。
ちなみにこれを神話っぽくして、絶対的な存在を信仰対象をするのが宗教だと思ってるので、簡単な話「自分で正解を作れる自分教」みたいなものを持つことだと思います。
とっつきづらい”哲学”を大衆化
けど哲学って聞くと、一般の人が発言しにくい性質があると思っています。
”偉業を成し遂げた人のみが発言を許される真理”的なニュアンスがありますよね。
一方で、プロ野球ってファンみんなが監督のように「ここでピッチャー変えなあかんやろ!」って考えを持っていると思うんです。
それが正解かどうか分からないのに自信をもってる。
そんなプロ野球ファンのノリを哲学に落とし込むのが「カジュアル哲学」です。
定義っぽく書くと「誰でも語る権利がある大衆化された哲学」ですね。
お米や衣服・車など今は当たり前のモノも、昔は一部の人だけが楽しめる貴重な品でしたが、価値のあるものは必ず大衆化していきます。
哲学もきっと大衆化のフェーズ。カジュアルに語る権利をもつことで、みんなが哲学を味方にして、しあわせに近づける社会にしていきたい。
【次回】カジュアル哲学が浸透したらセカイがどう変わるのか。
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