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思考が現実化し始めるとき


周囲で変化が起き始める

何かに取り組み始めた時、ある程度の時間が経過すると、自分自身が少しずつその行動に影響を受け変化していく。
主に、価値観や考え方、新たな思考や、それまでの思考の癖に気がついたりなど。
生活習慣が変われば変わるほどその影響は大きくなる。
それが自身の人生に置いて、良い取り組みであっても、悪い取り組みであっても、一定の熱量と期間を通過すると、次第に周りでも変化が生じていく。
既に自分は変わりつつあるが、それを助長するような形で目に見えるようになり、わかりやすく情報として入ってくるので、自分の意識が変わっているという事が実感を伴っていくようになる。

自分の人生に良い選択をし、現実的に行動している場合、
一見すると、羨ましく感じるような出来事が周囲に現れ始める。
臨時収入があった、願望が実現した、健康になった、良い人と巡り会えたなど、
自分も早くそうなりたくて努力しているのに、と焦ってしまうかも知れない。
現実が意識の投影であると考えると、その現象は願望実現の第2ステップであり、第1ステップで自分が変化したので、次の段階として見える景色が変わったという事になる。
何かの事象を、世界規模の変化から読み取ったり、世界の真実がどこかに存在しているという認識でいると、他者との違いに意識が向き、焦りや不安の方へ心が傾いていってしまう。
生きる意味とか、願いを実現する方法などについて、"見つけるべき答え"などはなく、ただ自己が変化した結果、アルゴリズムのようにそれが世界に投影され、情報として入ってくるという流れになっている。
周囲で良いニュースが生まれたら、それは自分が作った新しい現実なのだと喜んで、一緒に感謝し、賞賛するといい。
次は自分だろうか、それはいつだろうか、という事も考えなくていい。
その考えがある限り、自分の身にそれが起こらなければならないという状態から抜け出せない人生になる。
周囲の存在=自分(思考)であるから。

人生にとって悪い選択をしている場合でも、そのまま現実に投影される。
悪い選択の場合、良い事とは反対に、無意識的に行動している場合が多い為、心の状態や体の状態がネガティブなまま、行動そのものが影響を受けているという事になる。
他人へ親切じゃなくなったり、攻撃的になったり、浪費したりなど。
そして、その行動(思考)の熱量と持続期間が一定を超えると、周囲ではネガティブな状況が生まれ始める。
事故にあった、病気になった、借金が返せなくなった、別れがあったなど。
他人の不幸を味わって、それが快楽に傾くと、良い出来事を賞賛した時と同じ作用が働くので、やがて自分の身にもそうした出来事がやってくる。
他人に批判されたり、社会との溝や摩擦を感じたり、身近な人とうまくいかなかったりする。悪循環の方がエネルギーは強いので、暴飲暴食や不眠、判断力の欠如など、自分に返ってくるスピードも速い。
その後の自己分析でも、世の中は世知辛いとか、暗い世界だとか、自分には価値がないからだ、という解釈に至る。

良い変化も、悪い変化も、自己の変化を知らせる気づきの現象として捉える事ができれば、良い事は拡大し、悪い事は修正ができるようになる。
どちらも、感謝するという所へ行き着きさえすれば問題はない。
大変な事がやってきても、例えば、軽い怪我で済んで、おかげで辛い仕事から解放されたとか、保険が降りた、健康を意識するようになった、依存関係を断ち切れたなど、良い結果に繋がる転機となり、自己修正ができる。

悪い変化は日常茶飯事で、次第にそれらは当たり前になっていく。
不運を感じ始めても、人はネガティブに陥りやすい生き物で、自分で思っているよりも早いスピードで現実化してしまう性質のものなのだと容認し、自分だけではなく、大なり小なり、誰もがそうなんだと受け止めることで、心は軽くなるし、軌道修正しやすくなる。
不運から必要な気づきを読み取ったら、あとは"無視"をして、好きなだけ休んだり、好きな事に没頭するといい。

世界で起こっている事についての捉え方

世界の変化は目まぐるしく、不安に囚われる事はこれからも増えて、巨大化していく。
無視したくても、そうはいかない現場で闘っている人も大勢いる。
国という規模でも、身近な人間関係でも、人が人を傷つけているという事象が多発している。
心の状態、心のあり方の問題を無視してきた結果と考える事もできる。
願望と幸福について、履き違えてきた結果が現れているとも言えるし、
価値観の自由を選択してきたから、あるいは、歴史や環境、社会の変化にただ翻弄されてきた結果でもある。
大きな問題であればあるほど、実際には無関係でも解決策や対応策を考えようとするし、どうあるべきかを模索する。

一方で、大衆心理的に、当事者じゃくても熱くなったり、つい真剣になって責任の所在を探したりしまうのは、自分の身に及ぶのでは、という不安があるからで、冷静で建設的な思考を持つことは難しい。考える事は大切だけれど、感情だけをぶつけて何もしない人は多く、結局は解決を遠ざけてしまっていると感じる。
他人を他人と思っている以上、それは無くならない。
自分の中にも類似性があり、人は弱い生き物だとまず受け止めてからでなければ、本当の解決は見つけられないだろうし、自分の中にも色んな自分がいるように、他者もさまざまなようでいて、普遍性の上に成り立っている存在だと認める事から始めないと、これからも頭を悩ませる事、悲しい事は減らないように思う。
自分や、身近な人の身に辛い現実が降りかかった時、周囲や世間の反応はどうあって欲しいか、何が必要で不要と思うだろうか、そういった想像力をする方が解決の糸口は掴みやすいのだと思う。
自分の醜い部分が受け入れがたいように、他人を他人として、その愚かさや残酷さを見続ける事は辛い。否定も排除も、さらなる反発現象を生む。
どんまい精神がなければ、人は次に進めない。

なぜ世界は、一層混沌とし始めているのか、その勢いはなぜ加速しているのか、それらも自分の存在の投影なのだろうか。個人意識の気づきと同じく、世界でも様々な過去があぶり出されているのだと考える。
元を辿れば、自身に紐づく事なのかもしれない。バタフライエフェクトのような現象が、前代未聞で起こりまくっているのかもしれない。
そこに焦点を合わせると、世界は崩壊しているように思える。

重要なのは、世界は陰陽であるという事。
もう一つは、意識を向けた先と同じ色ばかりが情報として入ってくるという事。
人は大量に美味しいものを生産して食べているけれど、そのゴミをカラスやネズミが食べる。
光が強ければ強いほど、影は濃く暗くなっていく。
大切な人が亡くなって悲しいのは、それだけ愛しているという事。
世界は等分で出来ている。
私から情報が溢れ出ているという事は、それだけの知識が入ってきたからでもある。
白い自分、黒い自分、それらの積み重ねの過去が、コップから溢れ出している。
それに捉われず観察するか、影響され続けるのか。影響され続ければ、ただ流れに任せていく事になり、気づく事ができれば、どんな自分が望ましいかという選択が可能となる。
白い自分も、度が過ぎれば過剰な排他精神を生む。程よく保てるなら、正しい振る舞いを意識できる。
黒い自分も、拡大させれば他者や自分を傷つける恐れがある。許容し見つめる事ができれば、狂気から距離を置ける。
自分と他人を分けなくなると、自分を棚に上げるという事はなくなり、
色んな自分を発見して認める事ができるようになると、色んな人を認める事ができる。
これからも溢れ続けていく自分は、既知や未知も含み、全てが個々に変化していく。
どんな自分を見たいか、それを創造する為には、どんな情報がどのくらい必要かを選べる人になる為にも、まずは否定をなくし、自分や他者、あらゆる出来事を認める事から始まる。

思考を現実化するための下ごしらえ

より良い人生を歩む為には、まず心を豊かにすると良いと言われる。
正しいのはわかるけれど、その為にはどうしたらいいのか、情報はあちこちに溢れているにも関わらず、結局わからないままでいる場合が多い。
それは、人はいっぺん通りの生き物でないのに対して、いっぺん通りのやり方があちこちに散らばっているからで、ダイエット方法などと同じ構造にあると思う。
方法論だけで考えると、その為にする工程は堂々巡りに増えていくので、根本を見つめる必要がある。
私は生理不順を整える為に、ホルモンバランスについて考え、ホルモンバランスについて考える為に、自律神経について考え、そこからまたホルモンバランスについて考えるというループにハマっていた事がある。
どちらも、規則正しい生活が基本となるのだけれど、仮にホルモン治療で良くなったからといって、一生それに頼っていれさえすれば解決かというとそうでもないし、
規則正しい生活を送っていて、何のストレスが無くても、体調や精神が一気に崩れる事もある。
今は、ストレスや過労がないのなら、体とはそういうものなんだと捉え、本当にやばい時には体がちゃんと教えてくれると考えて、悩む時間を捨てた。

それでも、体型維持や美容を考えて、ヨガに通ったりサロンに行ったりしていた。
最初はプラセボ効果だったり、単純な肉体的反応で良くなったように感じるけれど、続けていると、何か不満があればそれがストレスとなり、自分でやれる事以外はどこにも通わなくなった。結果、太ったけれど。
時間とお金を天秤にかけたら無駄だと判断したし、仮に時間やお金に余裕が出来たのなら、気晴らし程度に通うのがちょうどいいのだと思う。
サプリも手放し、高価なスキンケアもやめたけれど、続けていた時とあまり変わらない。
つまり、悩みに対してかけていた時間とお金が、完全に釣り合っていなかった。


何をするにしても、専門領域での方法論と組み合わせながら、年齢や、自己の性質の変化に合わせて変更していく必要がある。
また、何をやっても、心も体も反応しない時期というのもあるので、すぐに諦めたりせず、落ち着いたら再開する事で効果を得られる場合もある。
大事なのは、短絡的に答えを出したり、ひとつの答えに固執せず、"今は"それが良いのだと認識する事だと思う。
楽しいかどうか、苦痛じゃないかどうかが、一番簡単なバロメーターになる。

医学的に問題がある状態ならば、まずそのメンテナンスが先決にはなるけれど、精神的な意味合いで考えると、常に答えを知っているのは、表層的な心ではなく、奥深くにある本心の方だと思う。
病は気からといっても、単純な気合いだけでは悪化してしまう危険があるし、心は大抵、日常の煩わしさに触れているから、いくらでも理由づけをしたり、情報に左右されたりして、自分に嘘をついている事もある。脳をうまく騙して活用するというのは、そのあたりのコントロールをするための方法で、日常生活においては有効だと思う。

表層的な心は、脳を含めた体が支配している。体の状態に脳が反応し、外的あるいは内的な状態に対して指示をしたり、記憶による思い込みや錯覚を生む。
意識のフォーカスについては、こちらの部類になるのかと思う。表層的な心は、いつも揺れ動いているけれど、トレーニングや治療などで、管理が可能な範囲に入ると思う。

もっと深い部分での心は、魂レベルでの話になる。
そこには陰陽の概念が必須で、受容や内観といった部類になる。
ここが弱まっていたり、歪んでいると、表層意識に滲み出し、表層的な心の状態から行動に影響し、脳がそれに逐一反応する。
報酬モードのスイッチが入ってしまうと、あらゆる依存や中毒に繋がってしまう可能性がある。体の不調に対して、脳が正常な判断をしなくなると、表層的な心の暴走は止まらなくなって、よくない結果を引き寄せる事になる。

深層部の心が弱っていたり、歪んでいても、整える事はできる。
しわしわに乾燥した種のような状態だとすると、水を与えることで、膨らんで芽を出す。
この場合の水は、表層的な心に置いては、自然に触れるとか、心身の浄化などにあたるのだけれど、深層部では、気づきや悟りという事だと思っていて。
ここが強ければ強いほど、表層的な心もざわつかず、頭の中も平静で、体の不調も消えていく。外側からアプローチする事は、とても時間がかかり大変なのだけれど、自分を分割して捉えると混乱を避けられるし、同時進行で、外側からのアプローチも相乗効果を生むようになる。
心の核が変化すると、それを包んでいる表層的な心に浸透し、頭の中の騒々しさや誤作動も静まるという事と、それによって体も変化し、自分が見ている世界も変わっていくのだと認識する事が、私にとってはとても大切な気づきだった。


世界の仕組みについての考察

私は、20代から世界の奇妙な感覚についてずっと考えていた。世界はもっとプログラム的というか、システマチックなもので、リンゴを手から離せば落ちて砕けるように、あらゆる現象もそれに過ぎないのではと思っていた。
人間も、有機的なロボットという感覚があった。
なので、洗脳とか、寄生虫とか、大衆心理、哲学や宗教、神話などにも興味が続いていった。マインドフルネスとか、ワンネスの精神というのは、もともと子供の頃からあり、それを言葉で知ったのは最近の事で、それを改めて知っても、何かもっと深い概念があるような気がしている。量子力学にも興味があったので、多次元宇宙とか、仮想現実(VRじゃない方の)という言葉も知っていたけれど、奇妙な感覚からは解放されなかった。それらはスピリチュアルな分野や仏教と結びつきつつあるし、この世界はゲームだとも思っている。
素粒子という一つの"意思"みたいなものが、倍々に分岐して出来上がったのがこの世界で、
全ては自己派生した鏡のような世界だと思っていた。
生命の樹や、自分の手を見てもそういった想像をする。派生系であり、元は一つなので、人類だけでなく、物質も全て兄弟みたいなもの。輪廻するのも、把握しきれないほどの"意思"が色々な所に宿ったり、離れたりを繰り返しているのだと。

最近になって思うのは、世界の真実とか、世界の仕組みの答えや基準というものを、自分はまだどこかで<外側>に置いているという事だ。
神様に問いかける感覚というか、何かしらの存在がいてくれないと、これまで理解したと思う部分にも矛盾が生じてしまいそうな靄がある。
オープンワールドのRPGに近い、と考えるのが一番しっくりきているし、プレイヤーはもう一人の自分で、その世界は交わる事はないけれど繋がっている。
じゃあ、さらにその先は?と考えると、もっと高度な世界がある事になる。
ゲーム内のキャラクター(自分)が漠然とした不安を持つというのは、そうした片鱗の見えなさにあるのかもしれない。

人生を一つの映画のように捉えるという考え方もある。
自分はそれを観ているような状態でありながら、主人公として現実を体験していて、その事自体に気がつくと、巻き戻したり、未来へ飛ばして観察ができるようになり、時間という概念を超える事ができる。
寿命を知ることもできるのだけれど、恐らく選択によってストーリーは都度変化し、フィルムの長さも伸びたり縮んだりするのかもしれない。

私が考えたのは、人生が一冊のノートだというものだ。
例えとしてはよくあるし、フィルムとも似ているけれど、映像的なものではなく、知識や学びといった情報の量によってページが進んでいく。ノートは人ぞれぞれに厚みが違ったり、大きさが違ったりする。
書き込む文字の大きさもぞれぞれで、びっしり書き込む人もいれば、余白がある状態の人もいて、1日とか、1年という単位でページは捲られるか、あるいは必要な学びが埋められないと、ページを捲れないのでは考えた。
時間は水の流れに例えられるけれど、ノートでは精神的な成長がページを捲る事と同期しているという考えだ。
時間はもともと止まっていて、自己の意思決定によって進む。
水は流れていなくて、自分で漕ぐという感覚。
白紙のまま、ページが自動的に捲られる事はない(時間が勝手に進むことはない)けれど、ノートの厚さ(寿命)は決められているので、余白の多いまま最終ページになってしまったり、後半で焦って文字数が増えるような場合もあったりする。
取り越し苦労の情報だけ書き連ねても、それはいいノートとは言えないし、少な過ぎても、一体何をしにこの世に来たのか、という事になる。
時間に追いつこうとして頑張るのではなく、そうすることで見えなくなってしまう自分を、一旦ゼロにして、自分の意思決定で、1ページずつ時間を進めるという感覚が近道なのではと思う。
自分の視点を変える回数が多ければ多いほど、ノートに記したい体験や記憶は増える。
そういった体験が増えると、小さな事柄から大きな感動を体験できるようになるので、書きたい内容はどんどんシンプルになっていく。
私は、愛とか、感謝とか、内観とか、全て嫌いな所からスタートし、時には極端な善に偏ったり、飽きたら別の思想に取り替えたりを繰り返して、今に至る。
世界は私の中にしかないし、少なくとも生きている間はここから出る事もない。

人は弱い生き物

自分に価値を見出せない時は、情報を遮断して休むしかない。
時間がただ流れていくように思えても、そうじゃないと考えるのが難しくても、わからないまま突っ走るよりはずっといい。
心がゼロになるのを待って、その時、小さなことでも気が向いたらやってみる。
結果がつまらなくても、傷ついても、それが答えではない。
自分の心の核が弱っているだけで、それが悪夢のように現実に映し出されているに過ぎない。
それは"何の意味もない"幻だから、気にしなくていい。
試しに、"気にしない"自分を実行してみるといい。
他人は、自分の不安に反応して、同調してきているだけだから。
他人は自分。
やる気が出ないのも、つい不安になってしまうのも、人間共通の膨大な歴史から蓄積されたデータ=本能に過ぎない。
自分には価値がある。それがわかっても、心は常に揺れ動いてしまう。
本能だから仕方ない、という段階から、じゃあ、もうその本能捨てようよ、という意思決定ができるようになれば、人間は次の進化を遂げるのじゃないかとも思う。
けれど、心の核と表層的な心を切り離せば、多少のブレも楽しめるようになる。不安や苦しみは、あらゆる創造の種であり、抑圧がなければ生み出せないものがある。
私達は、弱さを味わい、そこから大切なものを見つけるために生まれてきたはずだから。


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