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怒らないことで自分を守る

スリランカ上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老著、「怒らないこと」「怒らないこと2」「怒らない練習」の3冊を読みました。
怒り、嫉妬、憎しみは人の心を苦しめる。
怒りを生み出すのは破壊のみ。
いかに「怒り」という感情が恐ろしいかが書いてありました。
「怒る」とは怒鳴り散らすことだけではなく、ちょっとイラッとするのも「怒り」であり、心を常に観察し「怒り」に気づくことで人は怒らなくなるらしいです。

本の中で読者の理解を深めるためにわかりやすい例えがたくさん書いてあるのですが、ヒエッと引くくらい強烈な表現があり、私もう絶対怒らないようにしよう……と強く思いました。

私はここ半年ほど、職場の年配の女性にきつく当たられているんですけど、内容は理不尽でほぼ八つ当たりや嫉妬からくる怒りを延々ぶつけられてます。私が何をやっても気に食わないみたいで、どう対処したらいいのか困っていたんですが、この本に「怒りに対し、怒りで反応することは、腐った肉を食べた人が吐いたものを拾って食べることに等しい」と書いてありました。ヒエッ……コワァ……絶対怒りたくない、と震える私。
「怒っている人は手りゅう弾のピンを抜き、それを飲み込んだ人として扱い、できるだけ遠くに逃げて、衝撃波を受けないように」って。触らぬ神に祟りなし。三十六計逃げるに如かず。できるだけ関わらないようにしようと思います。

とにかく、自分に何の落ち度がなくても、理不尽に暴言・暴力に晒されても、怒ってくる相手とけっして戦ってはいけない。お釈迦様は泥棒に体をノコギリでバラバラにされても怒らないとおっしゃったそうです。「自分を守る」とは反撃することではなく、罪を犯さないこと。攻撃されても「はい、どうぞ。私は反撃しませんよ」という気持ちでいることが「自分を守る」ことになるのだと。
それにしても「ノコギリでバラバラに……」という例えが恐ろしすぎる。でも印象に強く残って忘れることはなさそう。これが狙いなのでしょうか。過激です。

そもそも人はもともと怒りに傾きやすいのだとか。それが本能らしいです。それをいかに理性で抑えるかが大事。特に「生きたい」という存在欲を脅かされると命の危険を感じ拒絶したくなる、それが本能なのです。拒絶イコール怒り、となるそう。他にも、私たちは「自分は100%正しい」「すべては思い通りにいく」「自分には価値がある」と思い込んでいるから怒るらしいです。
逆にいうと「生に執着しない」で、「自分は間違いだらけの人間だ」と考え、「わがままもほどほどにしないと」と自制し、「自分には何の価値もない」と思えると人は怒らなくなるということです。
例えば私の場合でいうと、いじめを受けてストレスで病気になり退職することになっても生きるという執着がないので気にしないということ。理不尽な内容で責め立てられても「まあ、私も間違っているのだろう」と聞き流すこと。相手に完璧な人格を求めるのはわがままであると自覚すること。どんなに八つ当たりや嫉妬をしようとも、その先輩が問題なのではなく、私の問題だと捉えること。どんなに馬鹿にされ見下されても、そもそも「私」は存在しないのだから価値も何もないので別にどうでもいいと思うこと。

「私」とは単なる妄想の産物で、ただの概念で、幻覚であると知ること。
自我の殻を身に着けると周りがすべて敵になる。
どんな罵りも、耳で音を感じているだけなのに、そこに「私」が割り込み、脳が勝手に「私に〇〇と言うなんて馬鹿にして!ひどい!」と怒りになるのだと。

よく自分の心を観察すると、あるんですね。
私、自分だけは絶対正しい、と思い込んでいた節がありました。
他人のわがままは絶対許さないけれど、自分のわがままには気づいていませんでした。

けっして怒らない。
ののしられても、いじめられても、卑怯な手段で負かされても、自分の成果を盗まれても、けっして怒らない。
それが自分を守ることにつながる。

無明のせいで、無知のせいで罪を犯す人々に対し感じるべきは「怒り」ではなく「憐み」。味方になって助けてあげようと思える慈悲の気持ちだそうです。そうできたらどれだけ素晴らしいでしょう。そこに到達するには私はまだまだ未熟者なので、まずは怒らないよう日々精進いたします。

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