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終着駅 連絡船と18きっぷ


🚊鉄男&鉄子濫造装置【18きっぷ】

 青函トンネルの工事が佳境を迎えていた昭和五十八年三月【青春18きっぷ】を利用して青函連絡船の全十七便に乗船した。
 発売当初18きっぷは一枚目が二日券、残り四枚は一日券であり合計六日間を一万円で利用できる仕組みだった。
 このきっぷは前年(昭和五十七年)春に登場した国鉄発案の大ヒット企画商品である。
 発売開始から四十年以上経過した現時点(令和六(二〇二四)年)でも人気商品の座は揺るがない。
 旧国鉄発案の企画切符としては僥倖ともいえるロングライフ商品である。
 『周遊券』の廉価版という性格は、当初『安かろう悪かろう』という側面を否定できず『無頼漢鉄道マニア』に濫用されるのではないか!という危惧が国鉄内部にも多かった。
 この企画切符は『どうせ過渡期の商品だ!』という認識でスタートしたそうだ。当時の国鉄には旧鉄道省出身者が上層部に厳然と存在し、役所気質を多分に含有した企業体であった。
 長年の赤字体質は『責任はすべて政治屋にある!』という責任転嫁のすえ棚上げし『安全のために利益が犠牲になっても仕方がない』という理論がまかり通っていた。現在のJRは利益も安全も双方確保する有能な集団だが、どちらか一方の選択という判断は役人気質の常道だ。長年役所に勤めた小生には痛いほど実感されられた現実だ。
 営利と公共性を両立させる公共企業体という意識より『国家の一部門』という認識のほうが強かったのが国鉄の欠点だ。
 『スト権スト』などという現代の意識では『???』と首を傾げたくなる『利益度外視』の不思議な体質はJRへ脱皮するまで温存された。

🚊企画切符随一のヒット商品

 そもそも企画切符の先輩格で長寿命の商品でもある【周遊券】は、近年利用者が減少の一途である。いつの間にか総領の甚六【周遊券】は、企画切符本流の大黒柱の座を【18きっぷ】に明け渡していた。
 次男の【18きっぷ】も、後厄を過ぎた中年だが、彼が日本の鉄道旅行に果たした影響は極めて甚大だ。 
 【18きっぷ】発売以前『鉄道ファン』は世間には埒外だった。他のヲタク勢力と同様に希少品種のひとつでしかなかった。多くの趣味雑誌が廃刊の憂き目にあっているのに、売り上げ部数が減少しても『鉄道系雑誌』は意気軒高だ。
 『鉄道マニア』群雄割拠の状況から下剋上を果たし、着実に勢力を拡大した武勲は【18きっぷ】に軍配があがる。【18きっぷ】が果たした八面六臂の活躍と【宮脇俊三】という逸材を欠いては成立しなかった業績は、顕彰に値する僥倖だ。
 【18きっぷ】こそが、昭和から平成にかけて日本全国に『鉄道マニア』という新品種を誕生させた生みの親なのだ。
 昭和後半に始まった鉄道ブームの出火元は前述のとおり、我が師匠【宮脇俊三】である。
 一九七八(昭和五十三)年『時刻表2万キロ』という作品で、国鉄全線二万余キロの完乗を果たし『いい旅チャレンジ2万キロ』という国鉄企画の旅行キャンペーンという導火線をより合わせ、着火までしたのは他ならぬ宮脇なのだ。
 『ディスカバージャパン』という国鉄のキャンペーンは、一九七〇年代以降の国内旅行ブームの立役者だ。しかし鉄道旅行は若年者には依然として【高嶺の花】だった。
 宮脇の快挙は鉄道少年・少女に『私も全線乗車に挑戦したい』という崇高な願望を与えた。一般人には『目糞鼻くそ』の些末な出来事だが。小生にとって【火付け盗賊】に匹敵する罪状だ。
 小生の少年時代は【汽車】と【谷山浩子】&【中島みゆき】に明け暮れた。脳内の95パーセント以上が【汽車ポッポとヤマハ勢】に占拠され学業不振を招いた。責任の一部は宮脇と谷山、中島三氏にある。責任の大半は小生の記憶メモリーの大多数が欠陥部品だったせいだ。
 残念ながら故人を断罪する術はない。宮脇俊三氏に責任を取ってもらうために、自身が彼岸へ赴き下手人を取り押さねばならない。

🚊宮脇俊三新刊本

 『新しい宮脇作品を読みたい』という今生では叶わない願望は日々募る。師匠の文章を【精巧に再現できるAI】はいつ完成するのだろう。
 残り五十年の生涯では叶わない望みかもしれない。彼岸でも師匠は鉄道紀行を続けているのだろうか。今頃は【宮沢・松本・宮脇】の三氏が【銀河鉄道】のボックス席で酒杯を傾けているのだろう。
 四人目の旅客となりたいような・・なりたくないような不思議な感覚だ。
 小生がアチラ岸へ到着するのは五十年後であり、それまで宮脇の新作にお目にかかれないとは、承服しがたい現実だ。
 寂寞の念だけがつのる。

🚊国鉄全線完乗

 国鉄全線完乗は軍資金不足の若者には実現困難な難事業である。そんな少年少女に差し込んだ一条の光こそが【青春18きっぷ】だった。
 高校生であった小生には全線完乗する財力は当然無い。しかし急行等の優等列車に乗れなくとも『鈍行やバス便・連絡船に乗れて価格が一万円』という切符のインパクトは、周辺券とは比較にならないほど魅力的だった。
 この魔法のきっぷを利用してどこかへ旅したいという欲求は小生などのバカ者限定ではなく『ふらっとどこかへ旅したい』という壮年層にも多数伝染患者を輩出せしめた。日本国民の逃亡欲求を満たし、願望を叶え、新たなファン層という金鉱脈を見事に掘り当てたのだ。

🚊インでもアウトでもない【オウンバウンド】

 旅行という非日常の解放感を求め各地の国鉄路線へ【老若男女】が殺到した。まるで現代の京都市内のようだ。外国人観光客が殺到し市民生活が窮屈になっている現状とそっくりの事象が四十年前の日本国内各地で【オウンバウンド】として生起したのだ。
 結果として通常時は利用者が少数のため、短編成で運行する列車に鉄道ファンが大挙して襲来し通勤通学客の足手まといになり、ダイヤ遅延や電車の異常混雑で一般客がホームに取り残されるなど、各地で問題を引き起こす結果となった。
 国鉄自体にも現在のJR各社ほど柔軟な裁量権が認められていなかった事情も加味された。通常運行の妨げになる傍若無人なマニアは現代と同様だが、国鉄自体にマニア対処のマニュアルなど存在しなかった。
 鉄道とは実需中心の基幹交通手段であり、行楽利用を進める営業施策を進めている一方で、一般利用者以外の旅客が通勤電車を占拠するなどという事態は【18きっぷ販売以前】には想定できなかった。
 鉄道マニアの増加は社会問題となった。しかし行楽需要は【実需不足で空気を運ぶ地方ローカル線】が、活用次第では打ち出の小槌に化けるという成功体験でもある。
 現代の『迷惑鉄オタ』は問題も多いが、彼らは高額の『イベント列車』や『車両基地開放行事』の顧客でもある。まさしく両刃の剣だ。鉄道ヲタクの異常繁殖は昨今の特異事象ではない。

🚊小生の閑散期は優柔不断の餌食

 小生は高校時代、部活のため平日にはバイトができなかった。慢性的な小遣い不足を解消するため【夏・冬休み】はバイト三昧の日々である。小生の閑散期は部活がない春休みだけだ。
 しかし昭和五十八年の年が明け、二月半ばになっても折角の【18きっぷ】を利用してどこへ行くか悶々と迷う日々が続いた。
 『いざ鎌倉』に備え軍資金が拡充した満足感に浸る暇もなく『あちらに行けばこちらに行けず』の無限軌道地獄へ転落した。どこが始発でどこが終着か・・・どこまでが現実でどこまでが夢なのか判然としないほど、迷いに迷い眠れない楽しい日々を過ごした。しかし何度軌道修正しても結論は出なかった。
 優柔不断な性格は小生最大の欠陥である。人生の岐路に立つ度、幾度も生死に直結する危険を巻き起こした因子だ。決断できない性格のおかげで自衛官時代には火災が発生した艦内で危うく命を落としかけた。

🚊結果オーライ神頼み

 しかし幸運の神様は常に小生のオブザーバーだ!還暦手前に差し掛かり二周目の六十年が迫った現在も、本人は不承不肖不祥ながら結果としてオーライになる。
 波乱万丈の生涯だが、本人はバンジョーを弾けないけれど、バンジョーを弾きながら盤上の危険物へ突進する香車のような愚行を【慈悲深いアラー・仏陀・キリスト他八百万の神々】は極めて寛容に見守ってくれる。不信心なくせに『人一倍幸運に恵まれてきた』と錯覚している理由は、無鉄砲な場面で必ず天啓がもたらされる幸運は偶然の産物と思えないからだ。
 とある放送局へ突撃し、深夜放送担当のアナウンサー氏に局内を案内してもらったり・・・・上柳さんだが・・・・神戸の放送局の非公開番組の観覧を希望して・・・ゲスト出演させてもらったり・・・・辛坊さんだが・・・他にもアレやコレや偶然とは思えない幸運に、なぜか巡りあってきた。
 記憶力の劣化によって『都合の悪いことは全部忘れた』のが事実なのだろう。どこをどう忘れたのかすら思いだせない。
 時刻表の上で何度も迷子になり。思案・放浪・試案の無限ループの果てに何度も盲腸線に突入した。袋小路からの脱出は困難だ。
 暗中模索の日々を悶々と過ごしているうちに、気が付けば持ち時間をすべてどこかに落としていた。駅の落とし物相談所へ行く暇もなくあっと言う間に春休みに突入し出発の前日となった。
 【18きっぷ】の利点は、行き先不明でもとにかく出発できる点だ。
 
 安直な発想の帰結は存外身近な場所であった
「青函連絡船の全便に乗った人はいるのか」
というヒラメキだ。

🚊青函トンネル開通と連絡船問題

 偶然地元のテレビ番組がヒントをくれた。
 『青函トンネル開通後の連絡船問題』を扱っていたのだ。そのテレビ番組のおかげで雲海を抜け青空へ飛び出したジェット戦闘機のように爽快な気分を味わった。
 冷静に考えれば高校生に可能な挑戦はすでに誰かが達成している。
 この珍道中は昭和後期だから可能な暴挙なのだ。現代ならネットやSNSという便利な道具によって『あいつはこんなにアホな挑戦をしたのか』という嘲笑の対象を掃いてすてるほど見つけられる。
 情報がアナログ限定だった時代には、一般人の発信は困難であった。
 たとえ誰かが既に達成済みの挑戦でも、自分の僥倖を出版やメディアで発信できるのはごく一部の者だけだ。
 当時発売されていた本や雑誌には、【連絡船全便乗船】という酔狂な蛮行は当然どこにも記載されていなかった。

🚢『我こそ一番槍』

 『我こそ一番槍』と名乗りをあげればそれで完了だ。『言ったもん勝ち』の世界だ。あとは誰かに証言してもらえばよい。
 再現性やエビデンスという単語を知らないおバカな高校生は、結果として多くの大人を巻き込みながら『連絡船完全乗船』を達成し一番手となった。(※ようだ?連絡船も国鉄も青函局もない現状では否定する反証すら困難だ。)
 後述するが、青函船舶鉄道管理局の担当者(配船係長)に
『そんな乗り方をした旅客の記録は確認できない。同様の(変な)旅客は過去にはいない』と感嘆された。
 そして小生専用の乗船ダイヤ・・・スジを、青函連絡船ダイヤの印刷物へ赤ペンで記載して提供してくれた。当時のN係長は配船計画を担当するご当人で、その張本人に自分専用のダイヤを書いてもらえるなんて・・・小生がN係長の立場なら門前払いにするか、塩を撒いて追い払っていただろう。
 もし『俺はもっと以前に記録を達成している』という方が現れても記録がなければ証明しようがない。
 誰もそんな記録を達成しようと思わないのだから、記録も存在しないだろう。盲点ではあるが『ギネス』の大半はそういう記録だ。そして連絡船はすでに存在しない。
 人生何度目・・・何十度目かの幸運によって、
そして関係各位の特別扱いや配慮の賜物で、世間知らずのバカな少年の旅は終着駅『函館桟橋』から始まった。

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