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364 喜の章(25) 5月17日から18日

77日目:2020年5月17日(日)
全国の感染者数  29人
十海県の感染者数  0人

 朝から晴れ。しばらく外出してなかったので、彼女が起きる前に、二人の分の定額給付金申請書を投函しがてら、散歩に出る。歩いているうちに気温がぐんぐんと上がる。
 そこここにツツジの花。しばらく外出しないうちに、5月も半ばを過ぎた。

 宣言解除されても、すぐには元通りというわけにいかないようだ。駅前の人出もふだんの半分くらいだろうか。
 城址公園へ。新緑が眩しい。他県からの観光客らしい人は、ほとんど見かけない。

 ベンチに座って、スマホで競馬サイトを開く。中央競馬の今日のレースの馬券が発売されている。試しに馬連というのを1000円だけ買ってみる。数字を2つ、適当に選んで「投票」した。

 部屋に戻ると10時になっていた。うっすらと汗ばんだ身体をクールダウンするために、扇風機を回す。目覚めた彼女が「おかえり」と言う。

「朝ご飯作る前に、シャワー浴びてもいいかな?」
 うん、構わないよ。
「飢え死にしないで待っててね」

 ハムエッグとサラダに、バタートーストの朝食。食後のコーヒーを飲みながら、彼女がおもむろに話の続きを始める。

「初めてパパ活で『大人』になったのは、交際クラブでオファーのあった人。7月最後の火曜日の夜7時に、十海市で二番目のホテルのロビーラウンジで会った。最初はコーヒーをいただきながら話をする。30代で全国的な大手企業の幹部。十海には出張で一週間滞在するとのこと。紳士に負けず劣らず話がおもしろい、この人ならいいな、と思って、そのままお食事を一緒にし、そのホテルの彼の部屋で、『大人』になった。翌日朝早くからバイトがあるから、と11時少し前に帰ろうとすると、4万円を渡して、次は一晩一緒に過ごしたいね、と言った。その週の金曜のコンビニバイトをお休みにしてもらって、LINEでその人に、『木曜は一晩一緒にいれる』と連絡した。金曜の朝別れるとき5万円をくれた。その人は、その後もときどき十海にやって来て、都合のつくときは会って『大人』をした」

「その頃のわたしの一週間は、月曜の晩から火曜の朝まで紳士と一緒。水曜、金曜、土曜は朝からコンビニバイト、夜はお店に出ていた。日曜日はさすがにゆっくりとしたかったし、彼と会う前には、そういう予定は入れたくなかったので、パパ活ができるのは火曜日の午後と木曜日。しかもお泊りをしようと思うと、コンビニバイトを休まなければならない。これだとパパ活で稼げるのは一月に10万円くらい。もっと多くと思ったら、土曜の夜を空けられるといいのだけど。そこでママに正直に相談してみた。そうね、すぐには難しいけれど、近々新人さんを雇おうと思っているから、それまで待ってくれるかな、と言われた」

「結局9月になって、お店のほうは水曜、金曜の週2回になった。土曜の午後から日曜の朝が使えるようになって、アポを入れやすくなった。慣れると抵抗感が薄れて『大人』の回数も増えた。年末頃にはパパ活だけで月に20万円くらい稼げるようになった。彼には会った人について逐一報告し、やはり楽しそうにその話を聞いてくれたよ。イブが月曜の振替休日なので、その年も12月25日の夜、久しぶりに劇場で『ボヘミアンラプソディー』を観て、朝まで一緒に過ごした」

 でも、それだけ収入があったのなら、コンビニで働き続けなくてもよかったんじゃないの。
「そうだね。まあ、いざというときの生命線みたいなもの。実際に今そうなっているし」
 一呼吸おいて彼女が続ける。
「前に常識がどうのって言ったのと矛盾するみたいだけど、どういうのかな、『地に足のついた』部分を残しておきたいっていうことかな、と思う」
 額に汗してって感じ?
「クーラー効いてるから、汗はほとんどかかないけどね」

 でも、キミ目当てのお客さんがいて、コンビニも助かってるんじゃないの?
「そうだとしたら、時給上げてもらわないとね」
 指名制とか。
「あ、それいいかもしれない」と言うと彼女はクククと笑った。
「でもね、真面目な話、わたしのレジ打ちを明らかに狙ってくるお客さんはいるよ。しばらく店内でブラブラして、レジがわたし一人になったタイミングにお会計にくる人とか、何人かでレジ入っているときに、順番になったのに次の人に譲って、わたしが順番になるまで待ったりして。別にそれだけならいいんだけど、お釣りを返すときに、わたしの手に必要以上に触れてきたりとか」
 手を握ったりする客はいないの?
「一度あったけど、キッと睨んで『ここはそういうお店じゃありません』って言ったら、二度と来なくなった」
 彼女に睨まれたら...結構、威圧感あるかもしれない。

78日目:2020年5月18日(月)
全国の感染者数  30人
十海県の感染者数  0人

 ボクが目覚めたときは晴れていたけど、すぐに雲が出てきたようだ。

 遅れて目覚めた彼女に声をかける。
 今日は久しぶりの紳士だね。
「うん」
 嬉しい?
「嬉しいよ、とっても」

 特製の具沢山お味噌汁の朝食。食後のコーヒーを飲みながら、彼女の話の続き。そろそろ終わりだろう。

「年末年始、彼は一族の集まりとかがあって、年明けに最初に会えたのは第二週の月曜日。翌日朝早くに起きて、電車で天歌駅に行って、天満宮に初詣した。彼と天歌に来たのは、このときと今年の初詣の2回だけ。わたしから天歌に行こうと誘ったことはないし、彼も、わたしのホームグラウンドに侵入するのは遠慮してたみたい。彼と会うのも、二つのバイトも、パパ活も、同じようなペースが続いた。もちろんコロナもなくて、今から思えばほんとに穏やかな日々だったと思う」

「4月に京アニの「響け!ユーフォニアム」シリーズの劇場版アニメを一緒に観に行って、5月から令和の時代になった。そして7月、彼にとってとても悲しい事件が起こった。前の年の秋にテレビ放映された京アニの『Free!』シリーズの劇場版を一緒に観に行った翌々日、7月18日に京アニ事件が起こった。ニュース速報で知って、LINEをしない彼にメールでメッセージを送った。『大丈夫ですか?』というわたしのメールに、大丈夫、だと思う、と返信があった。『今夜の予定キャンセルして、一緒に過ごしましょうか?』いや、いつも通りにしよう」

「翌週の月曜日、言葉少ない彼と一緒にルームサービスでお食事しながら、彼が持ってきた2枚のブルーレイを観た。一つは『映画 聲の形』。もう一つはわたしが観たことのある『涼宮ハルヒの消失』。黙って2作を観終わって、彼がポツリといった。ここに名前を連ねている日本の宝、いや世界の宝である才能の多くが、命を奪われた。悲しくて、悔しくて、やりきれないよ。同じベッドでいつものように抱き合って寝てるとき、彼の、かすかに唸るような、すすり泣く声が聞こえた気がした」

 ボクは京アニの作品を観たことはないけれど、あの事件には怒りを覚えるよ。

「ファンの彼にしては、たまらなかったと思うよ。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のテレビシリーズの『外伝』が、9月に期間限定で劇場公開される予定になっていたけれど、事件の影響で上映が危うい、と彼が言っていた。幸い上映されることが決まり、公開日の次の月曜日に一緒に観に行った。エンディングクレジットを観ながら、彼は確かに涙を流し続けていたと思う。映像が消えて場内が真っ暗になった間に、ハンカチで拭っていたみたい。照明が点灯して、ハンカチをポケットに仕舞う彼の少し恥ずかしそうな顔が、今でもはっきりと思い出せるよ」

「結局、彼と映画を観に行ったのは、いまのところ12月の『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が最後になっている。シリーズがいったん完結するので、観終わった彼は感慨深げだったよ。わたしも予習のおかげで楽しめた」

 映画館もずっと休業だったものね。

「大事な人と、好きなときに会ってお食事して、好きな映画を劇場に観に行ける日常。この時代の日本で、そんなことができなくなってしまうなんて、思いも寄らなかったよ。それだけじゃない。仕事もままならない。当たり前だった生活が、望んでも手の届かないものになった。誰にも、どうにもできないことなのかもしれないけれど、とにかく早く元に戻って欲しい」

 紳士の話をそうやって締めくくると、彼女が出奔してからのライフストーリーは完結した。  

 いそいそと準備をする彼女。出かける頃には雨が降り始めた。

<つづく>


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