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「L」と過ごした、雨降る日々のこと 第3話 ~L~

 立ち上がって流しの蛇口をひねり、水を一杯コップに汲むとエルは一気に飲み干した。
 再びしゃがみ込む彼女。
「サプライズ、と思って、知らせないであの人の部屋へ行ったの...合鍵でドアを開けたら...」
 荒くなってきた呼吸を整えて、エルは続ける。
「『真っ最中』だったの。それが...その相手が...」
「誰?」
「男の子だったの!」

 エルは、今度は声を上げて泣き始めた。
 端正な顔が、ぐちゃぐちゃになっている。

 5分くらいしただろうか。しゃくり上げながら彼女が続ける。
「...女性が相手だったら、許せないけど...まだ納得がいく。離れていたのはわたしのせいだから」
「そんな...」
「でも男の子だよ。あの人...わたしにはひとことも言わなかった...納得できない!」
 再び声を上げて泣き始める彼女。体は小刻みに震えていた。
 ボクはそんなエルを前にして、しゃがみ込んで彼女の顔を見ながら、落ち着くのを待つしかなかった。


 部屋に入ってきてから20分くらい経っただろうか。
 少し震えを残した声で、エルがボクに言った。
「ごめんなさい。キミには関係のない話だよね」
「そんなこと...気のすむまで吐き出してくれたらいいよ」
「...」
「それより、シャワー浴びたら? ずぶ濡れだし」
「うん。そうする」

 バスタオルとジャージの上下をシャワーの外に置いた。
 シャワーを終えて、ぶかぶかのジャージを纏ったエル。
「お腹空いてない?」とボク。
「うん。少し」
「明日食べようと思ってたお惣菜があるけど、よかったらご飯食べる?」
「ありがとう。いただくね」

 食事の間、エルは「あの人」の話題には少しも触れずに、東京でのいろんなことを話してくれた。
 仕事のこと、家族のこと、再会した旧友のこと。

「いい機会だと思って、両親とお兄ちゃんにカミングアウトしたんだよ」
「どうだった?」
「お兄ちゃんは、キミと同じように、さらっと、それでいてしっかりと受け止めてくれた」
「ああ、そう」
「そうそう、そんな感じ。お母さんは、最初は当惑していた。でも、最終的にはちゃんと話を聞いてくれた」
「お父さんは?」
「リベラルを自認する人だから、『そうか』って冷静なふりしてたけれど、内心では割り切れない思いがあるみたい」
「難しいんだね」
「打ち明けた後、わたしに接するときの振る舞いが、ぎこちないっていうか、避けようとしてる感じかな」


 扇風機の風をあてて干していた彼女の服。
 デニムとカーディガンは時間がかかるけれど、下着とレモンイエローのTシャツは、食事を終えた頃にはほぼ乾いた。
 自分の下着とTシャツを身に付けて、ボクのジャージの下を改めて履き直したエル。

「そう言えば、ちょうど去年の今頃だったよね」
 エルが懐かしむような口調で言った。
「キミは、今日と同じ服を着てなかったっけ?」とボク。
「へえ。キミはそういうことに気が付くんだ」
「それ以外のことは鈍感だってこと?」
「そうじゃなくて...本人のわたしが忘れていたのに」


 雨音は途切れることなく続いていた。

 ボクが淹れたコーヒーを二人で飲む。
「ところでどうなの。職場の新人さんは?」
「うん。飲み込みの早い子でね。すっかり戦力になってる」
「そうじゃなくて...どんな子?」
「ええと、ウェリントンの眼鏡をかけてる。まあ普通の女の子かな?」
「ボーイッシュ? それともガーリー?」とエルがさらに突っ込んでくる。
「そうだね...どちらかというとガーリーかな」
「じゃあ、キミの守備範囲だね」
「...て言うか、そういう目で見たことないから。8つも年下だし」

「そんなことより、キミはどうするの?」とボク。
「そうだね...もう一度あの人と会って、ちゃんと話をしてみようと思う」
「『武運長久』だね」
「返されちゃった」


「わたしはあの人のことを愛している。大切に思っている。でもそれは、あの人がレズビアンだからというわけじゃない」
 いつにも増して真顔になったエル。

「そうか、キミは...」
「うん」
「『エル』は...ラブの『L』なんだね」
 ボクのその言葉に、エルは、はにかむように微笑んだ。

「そもそもセクシュアリティって、すっぱりと切り分けられるものじゃないし、固定的なものでもないんだ」
 自分に言い聞かせるようにエルは言う。
「いま、その時点で、その人がどのように感じるかによるもの。だから、レズビアンが、あるとき男性を好きになったって、おかしいことじゃない」
 そう言うと、エルは視線を遠くにやった。

「そう、基本的なこと...なのに、わたし...」
 一瞬ボクに視線を向けると、エルはその後の言葉を飲み込んだ。


「ありがとう、本当に」
 口元にうっすらと笑みを浮かべて、エルは言った。
「別に、ボクは何も」
「キミがいま、ここにいてくれなかったら、わたし、どうなっていたかわからない」
「だとすれば、いいけれど」
「キミはわたしの全体を、そのまま自然に受け容れてくれた。家族ですら難しいことなのに」

 そう言うとエルは、両腕を伸ばし、ボクの両耳のあたりにやさしく手を添えた。
 唇を近づけて、ボクのおでこに、そっとキスをした。
 洋画のワンシーン。おかあさんが子供にする「おやすみのキス」のようだった。

 それからボクたちは、横に並んでぴったりと体をひっつけた。
 去年の台風のときに彼女が口ずさんだYの曲を、ボクのスマホから流した。

 曲が終わると、エルが呟いた。
「わたしが、キミの言ったように低気圧の『L』だとしたら」
「うん」
「反時計回りの渦に乗って時間を元に戻すことは、できるのかな」
「ボクには...わからない」
 彼女は何も言わずにいた。ボクが続ける。
「戻すとしたら、いつまで戻したいの?」
 彼女は黙ったまま、答えることはなかった。


 翌朝6時過ぎ。ボクが目を覚ますと、エルはまだ眠っていた。
 くるまっていた毛布がずれて、ぶかぶかのジャージの下も脱げていた。

 背中を丸めて膝を曲げて、長い両腕を胸の前で内側に畳み込んでいる。
 すらりと伸びた長い足。ふだんはデニムに隠れて見ることができない。
 そして、息を呑むほどの白い肌。

 まるで宿直明けの天使が、休んでいるよう。

 エルはふだん、朝10時頃に出勤しているはず。
 いったん部屋に戻って着替えるにしても、8時に起こせば大丈夫だろう。
 その無防備な体を、見なかったことにするかのように毛布をかけた。

 穏やかな寝顔。寝息が微かに聞こえる。

 雨は降り続いている...


 枕元に置かれた彼女の手紙に気がついたのは、エルがボクの部屋を後にした水曜日の、午後のことだった。

 新しい靴を履き始めて何日かすると、足首の後ろが痛み出す。
 エルのいない日常。少し遅れてやってくる靴擦れのようにボクの胸は痛み始めた。

 エルの手紙は、開いてそのままにしておいた。
 紫陽花が美しく咲く季節はあっという間に過ぎ、梅雨が明けた。

 エルの手紙をどうしようかと思って、手に取ろうとした。
 しっかりと掴まなかったので、床に落としてしまった。
 ん? 小さな文字のメッセージが裏に書かれている。
 最初に読んだときには、気が付かなかった。

 改めて、最初から最後までエルの手紙を読んでみた。


キミへ

 この部屋で、二人でいろんな話をするのが好きでした。
 二人で雨音を聞くのが好きでした。

 ずっと忘れません。この部屋で過ごした時のことを。
 窓から滲み込んでくる雨の匂いのことを。

 ありがとう。ここで過ごさせてくれたキミ。

 わたしは「L」。勘違いしないよね。なので言います。
 キミのことが、大好きでした。

 もう「時間を元に戻せるかな」なんて言いません。
 前を向いて進んでいきます。

 だから...リセットさせてください。
 キミのことを、ずっと、ずっと、好きでいられるように。

 それじゃあ。

 追伸

 キミと交わした、たくさんの「かけら」たち。
 わたしにとって、みんな「奇跡」だよ。

 では、わたしからの「かけら」。

 バイトの後輩の子、「そういう目」で見てみたら?
 きっとなにか見つかると思うよ。


「エル」は、ロスの「L」?

 いや、ちがう。

「エル」は、ラブの「L」。

 そして...そう、ライフの「L」。

 だからボクも、リセットしなくちゃいけない。

 前を向いて進んでいかなくちゃいけない。

 エルのことを、ずっと、ずっと、好きでいられるように...


 夏が過ぎて、季節はまた一つ進んだ。

 職場の後輩の子が、初めてボクの部屋に来る日。
 片付けて念入りに掃除をし、窓を開けて換気をした。

 夕方、ボクは彼女を城址公園沿いの道まで迎えに行った。
 彼女は、ミディアムヘアをポニテにアレンジしていた。

 部屋に入ってしばらくすると、雨音が聞こえ始めた。
 窓のところへ行って振り返った彼女の、フレアのロングスカートがふわりと揺れた。
 ウェリントンの奥の瞳をきらきらさせながら、こう言った。

「窓、閉めますね。湿気ちゃいますから」

 彼女は、少しだけ開いていた窓を閉めた。

 雨音が、遠くなった。


 エル、それじゃあ。

<了>

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