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天使がよみがえりましたゆえ、あの世から戻って、恋愛を始めます

天歌(あまうた)市は人口20万の地方都市。落ち着いた旧十万石の城下町で、高校生活を送ったヒロインたちのお話「天歌(あまうた)シリーズ」です。
もうすぐ22歳になるミカこと森宮美香(もりみや みか)は、何の因果か、キリスト教の大天使様の前に呼び出されてしまいました。天使の復活。そしてミカはさらに運ばれて行き、大きな川の畔で大事な人と再会しました。その人が迎えに来てくれたのかと思ったら...「天使が宿りましたゆえ、演奏は致しますが、恋愛は致しかねます」の後日談です。


1.大天使様と監察報告書

 ここは天界のとある場所。二人の天使が話をしています。

「いささか困ったことになったのだ」と仰ったのは大天使様。天使たちの中でも最高位の方です。
「監察天使の件でしょうか」と、もう一人の天使。長老の一人で、天使になりたての見習い天使たちを指導するお役目から「指導天使様」と呼ばれています。
「さよう。そなたが指導していた見習い天使、天使番号MKLB412965号に対して行った一連の懲罰について、撤回するのが相当である、との監察報告書を持って参った」
「畏れ多くも大天使様の下した裁定に、監察天使ごときが異を唱えるというのですか」と憤慨気味に指導天使様。
「最近は天界の組織にも、コンプライアンス、とやら、アカウンタビリティ...とやらいうのだそうだが、そういうものが求められるようになっておる。大天使といえども、監察組織が指摘した事柄について、無下にするわけにはいかぬのだ」
 そう仰られると、大天使様は「ふう」とため息をつかれました。

「では、どうなさるのですか」と指導天使様。
「かの者は、自らの意思で森宮美香(もりみや みか)の中に留まることを望み、そのようになったのだな」
「仰せのとおりです。本来なら、あの者は天使に戻る条件を満たしておりました」
「天使として復活させねばならぬ」
 大天使様は厳かに仰いました。
 それに応えて指導天使様が仰いました。
「では、そうすべきであったように、森宮美香の存在を11歳の事故の時点にさかのぼって、消滅させるということになるのでしょうか」

 天使番号MKLB412965号は、起こした不始末に対する懲罰として人間の中に宿ることになりました。その宿り主として選ばれたのが、高校生の森宮 美香(もりみや みか)。彼女は11歳のときに自動車事故で死亡していたのですが、宿り主とするべく高校2年の8月時点からさかのぼって復活させられたのです。
 宿り主の1年間の行状によって、天使に戻れるか、天使としての意識が消えてそのままその人間の中に留まるか、決まることになっていました。宿り主たる森宮美香の高校2年の8月から翌年の8月までの行状は、天使番号MKLB412965号が天使に戻る条件を満たしていたように思われました。しかし、自分が天使に戻ると、森宮美香の存在が11歳の時点にさかのぼって消滅することを聞かされ、「条件を満たしていない」と自ら主張し彼女の中に留まったのでした。

 大天使様は、ご自身に言い聞かせるように仰いました。
「森宮美香の存在を消滅させるのは、かの者の意思に反することになる。そのうえ報告書の指摘事項に『天使側の都合で人間の命を弄ぶごとき処置は慎むべきである』とも記されておる」
「では、そのときが来るのを待つしかない、ということですな」
「さよう。森宮美香が死を迎え、霊的存在となるまで、ということだ」

2.異変、そして...

「わたし、時々このあたりがムズムズするんだよ」
 背中の肩甲骨のあたりに右手を回して、ミカがタイシくんに言います。7月下旬の晴れて暑い日のこと。日差しにイチョウ並木の緑が美しく映えています。
「天使だったら羽が生えているあたりだね。痛みとかは感じないの?」とミカの背中をのぞきこむようにしてタイシくん。
「うん。ちょっとムズムズするだけ」
「いつから?」
「高校の頃からかなあ。本当に時々なんだけど」
 T県西部の天歌(あまうた)市にある国立天歌大学。キャンパスのメインストリートを歩く二人は医学部医学科で学ぶ医者の卵です。
 二人は高校時代、学校は別ですが同学年でした。ストレートで合格したタイシくんこと中村大志(なかむら たいし)は4年生、一浪したミカこと森宮美香は3年生です。

 世界的なパンデミックが波及した最初の頃は、キャンパスに通う機会がほとんどなくなりました。その後徐々に元に戻り、いまではほとんどの授業が、マスク着用、座席の間隔をとって、キャンパスで行われます。
 3年生のミカは、専門科目の講義の真っ盛り。4年生のタイシくんは講義の締めくくりの時期で、後期からは臨床実習に向けたカリキュラムや試験が控えています。お互い忙しい中、昼休み、放課後や土曜日の図書館で一緒に時間を過ごします。
 すれ違いざまに誰もが二度見するほどの美人と、すらっとした好青年のコンビ。キャンパスで肩を並べて歩く微笑ましい姿は、恋人と言われてもおかしくありません。けれど当人同士、特にミカはそのことを否定します。いわく「二人は医学の道を志す『同志』」なのだと。そのへんの事情は、追々お話しすることになります。

 ミカが体にちょっとした異変を感じたのは。夏休みに入ってすぐの夜のことでした。
 私立ルミナス女子高校、通称「ルミ女」の2年から3年の1年間、彼女は軽音部のバンド「ミクッツ」でベースとメインボーカルをやっていました。卒業後バンド活動はしていませんが、時々楽器を出してきて小さな声で歌うことがあります。
 その日も寝る前にベースを抱えてちょっと歌おうとしましたが、声がかすれてうまく歌えません。よもや感染症?と思って熱を測ってみたら平熱でした。一晩寝て変わらなかったら考えよう、と思って、その日はそのまま眠りにつきました。
 翌朝起きてみると、声は元通り。熱も平熱でしたので、そのまま気にせずにいました。

 数日後、8月になりました。
 感染症の流行の波に再び襲われ、ミカたちが住むT県の感染者数も、日を追うごとに増加しています。
 一緒に住んでいるおじいちゃん、おばあちゃんと夕飯を食べ、ミカが自分の部屋に戻って1時間ほどしたときでした。背中の肩甲骨のあたりに痛みを感じました。
 熱はありません。少し様子を見ましたが、痛みは治まらないばかりか、少しずつですが強くなっています。数日前に声がかすれたことも気になって、タイシくんに電話して相談しました。
 タイシくんのお父さまは循環器を専門とするお医者様で、ご自宅で「中村内科クリニック」という医院を開業されています。ミカから相談されたタイシくんがお父さまの中村先生に相談したところ、「診療時間外だがすぐに来るように」とのことでした。

 ミカは11歳のとき、高速道路のパーキングで自動車事故に遭い、母親を亡くしました。一緒にいたミカは軽傷ですんだ(ことになっている)のですが、実はそのとき、医師も簡単には気づかないような、ほんの小さな傷が心臓の近くの血管に残りました。それから10年間、その傷はなにも起こすことはありませんでした。ところがもうすぐ22歳になろうとしていたミカの体に、この小さな傷がきっかけとなる異変が起こり、急速に大きくなっていたのです。

 タクシーで中村内科クリニックに行ったミカは、中村先生に背中の痛みと声のかすれについて話しました。
 先生はすぐにレントゲン検査をし「緊急入院が必要」と仰ると、国立天歌大学医学部付属病院に連絡して受け入れの依頼をしました。タイシくんは119番に連絡しましたが、感染症の流行拡大で救急搬送の手配がなかなかつかず、30分以上かかるとのことでした。
 ミカの背中の痛みは徐々に強くなっていきます。おじいちゃんに電話して、急遽付属病院に行くことになったことを伝えたころには、話をするのもつらい状態でした。タイシくんがお父さまに「家の車で運んでは」と提案しましたが、「無理な体勢で揺さぶられると、急激に悪化する危険がある。万が一の場合の対応もできない」ということで、救急車の到着を待つことにしました。

 看護師であるタイシくんのお母さまが点滴をセットし、待つこと30分。やっと救急車が到着しました。医院のベッドからストレッチャーに移され、ミカは救急車の中に運び込まれます。付き添いとして中村先生とタイシくんの二人が乗り込みました。先生は、病院の医師に診断内容と経過について引き継いだら、翌日の診察もあるので戻る予定です。「学生の身分でまだ何もできるわけではないが、経験にはなるだろう」とお父さまに言われたタイシくんが、病院に残って付き添うことになりました。

 タイシくんのお母さまが心配そうに見送る中、ミカを運ぶ救急車が、中村内科クリニックから国立天歌大学医学部付属病院へと出発しました。
 ミカが付属病院に運び込まれたときには、最初に背中の痛みを感じてから1時間ほど経過し、思わず呻き声を漏らすほどになっていました。救命救急入口からCTの検査室へ運ばれる途中で、ミカの上半身、背中から胸の広い範囲に激痛が走りました。
「うっ」とひと言叫ぶと、ミカは気を失いました...

 気がつくと、ミカは浮かんでいました。手術室の天井のすぐ下に、横向けになって...

3.天使、復活する

 病院の手術室を、ミカは浮かんだ状態で上から眺めています。ひんやりと感じさせる照明の中、手術台の上に仰向けにされているミカの体が見えます。執刀医の先生。助手の先生が二人。麻酔医の先生。看護師さんたちとその他の手術スタッフの人たち。
 モニター類や機器類。チューブやケーブル。人工心肺装置も用意され、臨床工学技士が急いで調整をしています。
 先生方は、執刀前の処置をしながら慌ただしく話をされています。声は聞こえませんが、切迫した話の内容は伝わってきます。事態が深刻ということは、医学部3年生とはいえミカにも理解できます。

「わたし、死ぬのかな...」
 横向けに浮かんだままでミカは思いました。さっきまでの痛みはまったく感じません。
 次の瞬間、ミカの体は大きな力で上へと引き上げられました。手足を動かそうとしてもまったく動きません。病院の建物の上から見る見るうちに中空を上昇し、天歌市、T県、日本列島、アジア、やがて地球の輪郭がわかるくらいに高いところにきました。
 濃紺色の空間の中に大きく浮かんだ青い地球。その周囲には星たちが光っています。
 どこかで見たような物体の集まりがミカの横に現れました。羽のようなものが両側に広がり、中心部分にいくつもの宇宙船のようなものがつながった状態で浮かんでいます。
「これって、ひょっとして...国際宇宙ステーションかしら」

 次の瞬間、ミカのまわりに見えていた風景は一気に消えました。ミカは再び意識を失ったのです。

 意識が戻ったとき、ミカは立った状態で、光の粒とも、靄(もや)とも思えるようなものに包まれていました。体を動かすことはできないまま、ミカは「死後の世界に来たのだろうか」と思っていました。

 やがて光の粒の中から、白い衣装を纏った年長の男性を思わせる二人が現れました。背中の肩甲骨のあたりから羽が両側に生えています。
「本物の天使だ」とミカは思いました。
 向かって左側、より高貴なオーラを放つ天使がミカの前へ進んできました。
「我々は以前に、そなたと会っている。もちろんそなたの記憶にはないはずだが」
 ミカには、なぜかその方が大天使様であることがわかりました。
「そなたの命を弄ぶようなことになって誠に申し訳ない。ただ断っておくが、今回の病は我々が仕組んだことではない」
「なんだろう。よくわからないのにわかるような気がする」とミカは思いました。
「仏教徒であるそなたに、こちらに来てもらったのは、他でもない。そなたの中に眠った状態で宿っている天使を、分離して復活させるためなのだ」
 そういうと大天使様は、右手をミカのおでこの上に掲げました。

 ミカの背中の肩甲骨のあたりがムズムズしました。ふだんよりもずっと強く。そしていつのまにか天使の羽が生えていました。
 次の瞬間、ミカの輪郭が二重になったように思うと、一人の天使がミカから離れ、横に移動するとミカの右横に立ちました。
「見習い天使、天使番号MKLB412965号」ともう一人の天使が呼びかけました。
「指導天使様」
 ミカから分離した見習い天使が答えました。
 大天使様が見習い天使に告げました。
「そなたに対して下された懲罰は、遡って効力を失った。引き続き指導天使のもとで見習い天使としての修行に励むように」
「はっ。かしこまりました」
 見習い天使は膝をついて大天使様に一礼しました。

 大天使様が、ミカのほうを向き仰いました。
「そなたには誠に手間をかけた。あとはそなたの宗派の流儀で事が運ぶであろう。さあ、行くがよい」
 ミカの姿が徐々に薄くなって、消えました。

「大天使様」と見習い天使。
「森宮美香はこのまま死ぬのですか」
「そなたの意思は、あの者を生かすことであったな」と指導天使様。
「お察しの通り」
「今回、あの者が死に伴う霊的状態となったことは、我々が仕組んだことではない」と大天使様。
「そなたを復活させるために、この機会を利用しただけだ」
「では、森宮美香は?」
「心配するな。仏教の然るべき筋に、根回しをしてある」

 大天使様はケータイを取り出してメールを打ちました。
「そちらへ向かった。よろしく」
 すぐに返信がきました。
「委細承知」

4.再会--大きな川のほとりにて

 天使たちの前から姿を消したミカは、筒状のトンネルの中を運ばれていきました。
 22年に少し満たない人生が、走馬灯のように浮かんできます。出会った人たちのこと。おかあさん。おとうさん。おじいちゃん。おばあちゃん。「ミクッツ」のマイ、ヨッシー、タエコ、前任メインボーカルのミク。軽音部のマーちゃん、ナッチ。中学から一緒だったリツコ。マーちゃんの後輩のクーちゃん。顧問の香川先生。担任の松本先生。スタジオ「ソヌス」の戸松さん。付属病院ホールの福田さん。ハンバーガーショップ「JUJU」の半澤さん。タエコのお兄さまの恵一さん。県立天歌高校陸上部のコトネちゃんとカケルくん。先生方。クラスメイト、そして...ノエル...あれ、おかしい。あとひとり、大事な人がいるはずなのに...どうしてだろう、思い出せない...

 トンネルを抜けると、そこは春の花園。タンポポ、レンゲソウ、シロツメクサ、ナズナ...季節の花が一面に咲く野原にミカは立っています。どちらからともなく降り注ぐ、うららかな日差しが心地よく感じます。
 自分で動けるようになったミカは、導かれるように少し先の岸辺へと向かいました。近づくにつれ、水面を覆う川霧の向こうに、対岸の陸地がかすかに見えるような気がします。
 ほどなく岸辺に辿り着きました。目の前に広がるのは大きな川。見たところ流れはゆったりとしているようです。小さな波が河岸に寄せては返します。

 川霧の中から「ポンポンポンポン」という音が聞こえてきました。やがて一艘のボートが、姿を現わし近づいてきました。天歌の漁港で見かける小型漁船にもない、随分と古い型のエンジンのようです。
 5人も乗ったらいっぱいになってしまいそうな、小さなボートに乗っているのは二人。
 艫(とも)のところでエンジンと舵を操っているのは、顔から足まで一面真っ青で、腰に立派なパンツを穿いただけのモジャモジャ頭の男性らしき人。がっしりとした体で、身長は2mくらいあるでしょうか。近づくにつれて、おでこの上のあたりの左右に、わずかに曲がった円錐形の突起がついているのがわかりました。
「あの人、ひょっとして鬼?」とミカは思います。

 そして舳先に座っている男性。こちらは普通の人間の姿です。ボートが近づくにつれて、懐かしさが込み上げてきました。
 そう。ノエルです。ノエルがこちらに向かってきます。
「ノエル!」と叫びたいのだけれど、ミカは胸がいっぱいで声が出ません。
 進むにつれてボートの舳先が川面を切り裂き、波紋が左右に広がります。見る見る大きくなるノエルの姿。顔にはあの優しい、にこやかな表情を浮かべています。
 川岸まであと10mくらいになったところで、ノエルが立ち上がり、右手を上げました。ミカも右手を上げて応えます。

 ノエルこと中上乃恵留(なかがみ のえる)とミカは、中学のときの同級生でした。周囲が「つき合っている」と思うほど仲が良かったのですが、中学3年の秋の文化祭のときにちょっとした行き違いがあって、それ以降口をきかなくなりました。高校は、ノエルは県立の進学校、ミカはルミ女に進学しました。
 二人が再会したのは、高校2年のとき。ノエルがたまたま、ミカが演奏するバンドのステージを観たことがきっかけでした。そのときノエルは入院していました。ほどなくミカは、彼が余命宣告されていることを知ります。
 バンド活動をしながら、ミカは入退院を繰り返すノエルに寄り添いました。高校3年の夏休み以降、ノエルはずっと入院するようになり、ミカは足繁くお見舞いに通いました。病室で二人きりのときは、ほとんど恋人であるかのような振る舞いもしましたが、ノエルは最後の一線を決して越えようとはしませんでした。あとわずかで命が尽きることがわかっている自分の運命に、ミカを縛りつけたくなかったのです。
 その年のクリスマスイブ、ちょうど18歳の誕生日に、ノエルはミカが歌う思い出の曲に送られて静かに旅立ちました。

 青鬼がボートの舵を器用に操り、川岸の浅瀬に横向きに接岸させました。先にノエルが、続いて青鬼がボートから下りました。浅瀬を渡ってこちらへ歩いてくるノエル。青鬼は杭にロープを引っ掛けてボートを固定します。
 川岸で待っていたミカの前に、ノエルが立ちました。青鬼は、少し離れたところにある木造の小屋の中に入りました。

「ノエル!」
 ミカはやっと声を出すことができました。
「おう、ミカ。久しぶり。元気か?...っつうか、元気だったらこんなところにはいないよな」
「ここは、ひょっとして三途の川?」
「ご明察。ここを渡ると、閻魔庁があって、その隣に地獄、反対側には極楽浄土が広がっている」
 対岸のほうを指しながら、ノエルが説明します。

「ここが三途の川なら、わたしと一緒に渡る人たちはどこにいるの? それに、なぜノエルがやってきたの?」
「一般の渡し場は、ずっと下流のほうにある。ここは、特別な渡し場だ」とノエル。
「それからオレがここにきたのは、閻魔大王に直々に命じられてのことだ」
 ノエルは、経緯(いきさつ)を話し始めました。
 ノエルは死後、閻魔大王のお裁きで極楽浄土へ行くことができました。18年の短い人生では、大した罪を犯すこともなかったからです。浄土でしばらく過ごしていると、閻魔庁からアルバイトの募集がありました。のどかで幸福なのだけれど、いま一つ刺激のない浄土の生活に退屈気味だったノエルは、アルバイトに応募し採用されました。

「閻魔様のところで働いているのって、赤鬼とか青鬼とかじゃないの?」とミカ。
「そう思うだろう。オレも生きてるときはそう思っていた。けれど鬼たちの役割っていうのは、警察とか警備隊、地獄の看守とかに限られるのさ。いまそこの小屋にいる青鬼も、警備隊員のひとりだ」
 人間界でいうならば武官と文官、というところでしょうか。閻魔庁の仕事のうち鬼たちが担うもの以外は、冥官といわれる昔から閻魔庁に勤めるお役人と、ノエルのように浄土から採用された職員が行っているのです。
 働きぶりが認められたノエルは正職員に登用され、閻魔大王のそば近くに仕えて、直接命じられた様々な業務を担当するようになりました。密命を帯びたものを含めていろいろな案件を処理しましたが、三途の川を渡っての案件は、今回が初めてです。

「でも、なぜわざわざ三途の川を渡って、ノエルがわたしを迎えにやってくるの? 死ぬんだったら、普通にわたしが三途の川を渡ればいいだけのことじゃないの?」とミカ。
「それがそうでもないんだ」
 ノエルは一呼吸おいて続けます。
「おまえは、まだ死ぬと決まったわけじゃない」
「えっ?」

5.大事な人

 さっきミカが姿を現わしたあたりに目をやりながら、ノエルが言います。
「おまえ、ここに来る前に天使たちに会ってきたよな」
「ええ。大天使様と指導天使様。それと見習い天使が復活した」
「あちらの大天使とこちらの閻魔は、表向きにはつながりはないけれど、実は昵懇(じっこん)の仲なんだ」
 閻魔大王は、かつて「宗教サミット」の会議に、釈迦如来の名代で出席したことがありました。そのときキリスト教代表で出席していた大天使様と出会い、意気投合してメアドを交換したのだそうです。
「大天使から閻魔に、おまえの扱いについて特別な配慮をするように依頼があったらしい」
「配慮って?」
「おまえを生き返らせてやって欲しい、ということだそうだ」
「大天使様が?」
「とはいえ、ここに来てしまったからには、おまえの気持ち次第だが」

 しばらく二人は黙って見つめ合っていました。
 やがてミカが小さな声で言いました。
「そんな...わからないよ、わたしには」
 さらにしばらく沈黙が流れたのち、ノエルが言いました。
「オレは、おまえに戻って欲しいと思う」
「どうして?」
 一呼吸おいてミカが続けます。
「たしかに生き返れるものなら、とも思う。でも...」
 ミカの声は次第に高ぶります。
「こうやってノエルにもう一度会って、わたしは、はっきりと分かった。わたしは、あの頃たしかにノエルに恋していた。ノエルの運命が決まっていたとしても、一緒になりたかった。だから...こうしてせっかくまた会えたのに、戻るなんて...」

「恋愛という感情は煩悩の領域だから、浄土に来ちまったいまのオレには、もうわからない」とノエル。
 ミカは泣き出しそうになっています。
「ただ、おまえがオレのことを大事に思ってくれていたことは、本当に有難いと思う」
「...」
「オレの最期の日々に、おまえは本当によくしてくれた」
「そんな、わたしは何も...」とすすり泣き始めたミカ。
「ただ、そうやってオレに寄り添ってくれた経験が、おまえを医学の道に進ませたのだとしたら、生き返ってその道を進んで行って欲しい」
「それはたしかにそう。ノエルのような人を治したり、治せないとしても寄り添えるようになりたいと思った」としゃくり上げながらミカ。
「だったら、オレの望みはおまえが生き返って、そのようになってくれることだ」

「それから、オレの親友のタイシとおまえの関係のことだ」
 タイシくんとノエルは、高校2年のときのクラスメイト。50音順で席が近く、よく話すようになりました。ノエルが入院した後も、タイシくんはよくお見舞いに行きました。
「タイシくんとは、医学の『同志』として仲良くやってたよ」と泣き止んだミカ。
「『同志』はそれでいい。けれどオレは、おまえとタイシに、人生のパートナーとして歩んで行って欲しいと思う。タイシは間違いなくそのことを望んでいる」
「だって...」
「オレに対する恋愛感情を抑えたことを気にしているんだったら、そんな気遣いは無用だ」と穏やかな声でノエル。
「けど...」
「いいか。約束してくれ」
 ノエルが言い聞かせるように言います。
「オレの親友であるタイシを、決して泣かせないと」
「...わかった。約束する」
「いずれおまえらがこちらに来たら、煩悩のない世界で三人仲良くやろうぜ。それまでは思う存分、煩悩にまみれて生きてくれ」
「うん。いつか...きっと、会えるんだよね」
「ああ。おまえらなら、間違いなく浄土に来れる」
 ミカの頬を涙が一筋伝いました。

「じゃあ、オレはそろそろ戻るわ。ボートが見えなくなった頃に、お前は元に戻っているはずだ」
「ノエル...最後に、ハグして」
「すまん。それはできない」
「どうして?」と縋るような口調でミカ。
「オレに触れた瞬間、お前は浄土へ行くことが決まってしまう」
「そんな...」
「改めてこちらに来たら、ハグでもなんでもしてやる。それまでの辛抱だ」
「...わかった」
 ノエルは、青鬼が控えている小屋に向かうと扉をノックしました。青鬼が出てきて、ボートを出す準備をします。

 青鬼が杭に掛けていたロープを外し、横向きのまま少し沖へ押しやると、ボートが水面に浮かびます。
 ノエルが再び舳先のほうに乗り込みました。
「じゃあ、ミカ。達者でな」とノエルがミカに大きな声で叫びます。
「ノエル、会えて嬉しかった」とミカも叫び返します。
 ノエルが最初のときと同じように右手を上げました。ミカも右手を上げます。
 艫のほうに乗り込んだ青鬼が、エンジンを始動して舵を操作すると、ボートは沖へと進路を取り始めました。
「ポンポンポンポン」といいながら遠ざかっていくボート。ノエルの後姿も遠くなっていきます。
 それに従って、ミカの意識が次第に薄れていきました。
 川霧の中に、ボートの姿が見えなくなりました...

 ぼんやりとした意識の中で、ミカは前の年のある秋の一日のことを思い出しました。
 学園祭の翌週の土曜日。午後のキャンパス。ミカはタイシくんと並んで、黄色く色づいた葉が舞い落ちるイチョウ並木を歩いていました。思いがけず出会った元軽音部のマーちゃんたち二人連れと言葉を交わすと、長く続く並木道をさらに進んでいきます。
 ふとタイシくんを見ると、落ちてきたイチョウの葉が、頭のおでこの少し上のあたりに左右一枚ずつ、扇型がきれいに下向きに広がるような形でひっついています。
「あ、タイシくん。鬼のツノみたい」と指差しながらミカ。
「そういうキミだって」とタイシくんがミカの頭の真ん中あたりを指差します。おでこの上あたりに、タイシくんと同じような形でイチョウの葉が一枚ひっついています。
 二人で笑いながら、しばらくひっついたイチョウの葉をそのままにしていました。
「ツノが二本に、ツノ一本」とミカ。
「赤鬼さんかな、青鬼さんかな」とタイシくん。
 ミカはやっとわかりました。さっきトンネルの中で思い出せなかった大事な人は...

 ベットサイドでミカを見つめている、その男性の顔に安どの表情が広がります。
 そう。タイシくんです。

 意識が戻ったとき、ミカは病室のベッドに寝かされていました。
「ナースステーションに知らせに行こう」と言って部屋を出て行くのはおじいちゃん。

 タイシくんが、ミカの右手を両手でしっかりと握ります。
「よかった...ほんとうによかった。キミがこのまま...もしそんなことになったら...ボクは...」
 タイシくんの瞳から、涙がぼろぼろとこぼれてきます。
「...おねがい...お願いだから泣かないで」

 そうです。ミカはノエルと約束したのです。
「タイシくんを、決して泣かせない」と。

<完>

#創作大賞2023 #恋愛小説部門

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