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天使の法律事務所--新米弁護士くん、恋も実務も修行中 下編

3.天使、出頭する

 事前相談の日、天歌公証役場に向かう。公証人と面談するのは、司法修習のとき以来。9時ちょうどにオフィスに入って来意を告げると、担当の事務員に連れられて公証人の先生の執務室へ向かう。
 先生は松島さんという60代半ばの温厚な男性。法律家というより、宗教者といった佇まいの方。事案の概要はすでに連絡していたので、すぐにドラフトのチェックに入る。
「恋愛契約の公正証書は初めてだから」と言い、先生は民法第三編の二「恋愛」を熟読しながら、入念にチェックをする。
「そうだねえ。問題ないでしょう。あとは当日、出頭した当事者本人の意思を確認して、瑕疵がなければ大丈夫です」
 先生のチェックが終わると、担当事務員との当日の流れの確認。吉田さんという40歳くらいの女性。思惑通り、本人確認はパスポートで、捺印は認印でOKだった。料金も11000円+正本、謄本の交付手数料。支払いは当日、手続き終了後に行う。

 五月最終週の木曜日。いよいよ当日。朝から晴れ上がって爽やかな一日になりそうだった。

 出勤してメールを確認すると、安重さんからのものが着信している。つい今しがた送られたもので、タイトルは「沙久良が来てません」。
「えっ?」と言いながらメールを開く。
「深町先生 沙久良が朝から学校に来てません。LINEにも電話にも出ません。どうしましょう」

 さて、どうしたものかと思いつつ、ひとまずメールを返す。
「とにかく、安重さんだけでも、当初の予定通り3時半に事務所に来てください」
「わかりました。沙久良から連絡あったら、メールします」の返信。
 公証役場に同行するルカさんに、状況の報告。
「どうしちゃったのかなあ。急病とかでなけりゃ、いいけど」
 雑務をこなしながら、安重さんの連絡を待つも、音沙汰無し。
 いったいどうしたのだろう?

 そして3時半になった。安重さん一人が事務所にやって来た。
「阿東さんから連絡は?」
「ありません」と言った途端、彼女のLINEに着信があった。
「沙久良です!『さっき十海駅から電車に乗った。直接公証役場に行くけど、少し遅れる』って書いています」
「そう。じゃあ、私たちは予定通り行くことにしよう。浅山先生、いいですね」
「そうね。そうしましょう、深町先生」

 冷たいお茶で一息つくと、3時45分に事務所を出る。公証役場は歩いて5分。
 出迎えてくれた事務員の吉田さんが言う。
「あれ? もう一人の当事者の方は?」
「事情があって少し遅れて来るそうです」

 4時になった。やはりまだ阿東さんは到着しない。
「では、着いたらすぐに始められるように、スタンバイしておいてください」
 公証人の松島先生の執務室。デスクの前に4つの椅子。真ん中2つが契約当事者の席。先生のほうに向かって右の席に安重さんが腰かける。その外側にボクが座る。阿東さんの席を空けて、その外側にルカさんが座った。
「何か、契約締結の障害になるような事態でも発生したのですかね?」と先生。
「両親に知られて、一時猛反対されましたが、その問題は解決したはずです」

 そのとき、公証役場のドアが開く音。席を立って執務室から飛び出した安重さんの声が聞こえた。
「沙久良!」
「瑠美花...ごめん...」
「とにかく、皆さん待っているから」
「うん」
 安重さんが阿東さんの腰に腕を回して、介添えるような格好で執務室に入ってきた。ルミ女の制服を着た阿東さんは、駅から猛ダッシュで走ってきたのだろう。ハアハアと肩で激しく息をしている。
 二人は先生のデスクの前まで来て、席に着いた。荒い息遣いの阿東さんのために、吉田さんがコップに水を汲んで持ってきた。一気に飲み干し、しばらくすると、彼女は少し落ち着いたようだった。

「さて、当事者が揃いましたので、始めることにしましょう」と松島先生。
「阿東さんですね。出頭が遅れたことに、何か事情があるのなら、お聞かせ願えませんか」
「実は...今朝、急に不安になって、今日はここに来ないつもりで学校を休みました」
「不安、というと?」
「私が...私に、本当にこの契約を結ぶ資格が...あるんだろうかって」
「資格、ですか」
「恋愛契約には...恋愛感情が必要ですよね」
「そうですね」
「私の瑠美花を思う気持ちは間違いありません。でも...私のような半端な気持ちで拘束恋愛契約を結んだら、瑠美花のためにならないんじゃないかって、思ったんです」
「そんな...沙久良」と安重さん。
「それでも貴女は、少し遅れたけれど、こうして出頭しましたね」と先生。
「母に言われたんです。約束は守って、公証役場に行きなさい。何か言いたいことがあったら、そこで言いなさいって」

「私は...古い人間ですので、若い女性同士の恋愛感情については、正直な話、よくわかりません」と松島先生。
「阿東さん。あなたの安重さんに対する思いを、言ってみてください」
「はい。私は瑠美花...安重さんのことが大好きで、とても大事に思っています」
「ええと...」と言いながら松島先生は、六法全書に栞を挟んでいたところを開いた。
「民法第三編の二 恋愛 第七百二十四条の三第1項第4号に、恋愛感情の定義としてこのように記されています。『その他、特定の当事者に対して恋い慕う特別な感情を抱くこと』」...

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(恋愛の定義)
第七百二十四条の三 恋愛とは特定の二人の異性または同性の当事者間で、相互に恋愛感情を抱くことをいう。
2 前項の二人の当事者間に成立する関係を、恋愛関係という。
3 恋愛感情は、一人の当事者が特定の他の当事者に対して、特別の愛情を抱く状態をいう。
4 次に掲げる感情等は、恋愛感情に該当する。ただし、本人が恋愛感情の存在を否定する場合は、この限りではない。
 一 常に特定の当事者のことを思い、二人だけでともに過ごしたいと感じること。
 二 特定の当事者のために、他のすべてを犠牲にしても構わないと感じること。
 三 特定の当事者にとって、自らが独占的な地位を占めることを願うこと。
 四 その他、特定の当事者に対して恋い慕う特別な感情を抱くこと。
5 第七百三十四条の規定により、婚姻が禁止される親族の関係にある特定の二人の当事者については、本編の規定は適用しない。
 
----------------------

 一息ついて、松島先生が続ける。
「阿東さん。貴女の安重さんを思う気持ちは、特別なものなのではないのですか?」
「はい。特別です」
「では、安重さんという特定の当事者に対して、特別な気持ちを抱いているあなたの感情は、民法が規定する恋愛感情の定義に当てはまる、と私は考えます。いかがでしょうか」
「...本当に...そんなんでいいんですか?」
「沙久良、私のことをそこまで考えてくれて...嬉しい」
 二人は見つめ合った。安重さんが続ける。
「だから、不安だったり疑問だったりしても、一緒に考えて行こうよ。すぐに解決できなくても...私は沙久良と一緒に、悩みながらでも、歩んでいきたい」
「瑠美花...ありがとう」
「私は、貴女方の間に、恋愛関係は有効に成立しており、拘束恋愛契約の当事者として、何ら瑕疵はないと認めます。あとは、貴女方次第です」
 二人の顔に笑みが広がった。先生が続ける。
「それでは、手続きを進めてもよろしいですね」
「はい」と阿東さん。
「お願いします」と安重さん。

 その後は通常の流れに従って進んだ。当事者をパスポートで本人確認。先生が全文読み聞かせし、二人が理解していることを確認。その他法的な留意点を理解しているか確認。公正証書の原本に二人が署名して捺印。公証人の松島先生が署名捺印。原本を吉田さんが確認し、作成手続きは終わった。

 松島先生が立ち上がってお言葉を下さる。
「お疲れさまでした。今回が、天歌公証役場では初の公正証書による恋愛契約です。私の知る限りでは、十海県でも初めてでしょう。パイオニアである貴女方の事案に立ち会えたことを、私は光栄に思います。どうか末永く...仲良くなさってください」
 先生はそう仰ると、控室に向かった。その背中に4人は「ありがとうございました」と声をかける。

 二人が封筒に入れて用意していた5500円ずつを合わせて、事務の吉田さんに手渡す。正本二通と謄本一通の交付料合わせて750円は、安重さんが財布から1000円札を出して払った。二人にそれぞれ正本が、そして代理人たるボク、弁護士深町真二に謄本が交付された。
 吉田さんにも4人でお礼を言う。ちょうど5時。今日の公証役場の営業は終わった。

 先にルカさんとボクが並んで外に出た。彼女たちは、と思って振り返ると、二人は公証役場の前で向き合って立っていた。ルカさんも振り返る。

 見つめ合う二人。
 互いの手を相手の肩に置く。
 顔と顔をゆっくりと近づける。
 唇が触れる。
 キスをする。

「映画のシーンのようだ」と思ったその瞬間、キスしたままの二人の肩甲骨のあたりに、羽が生えているように見えた。
 次の瞬間、ボクの目の前が両手で覆われ、視界が効かなくなった。

 両耳の下あたりに、柔らかい二の腕の気配。
 肩甲骨のあたりに、柔らかい胸の気配。
 そしてうなじのあたりに、柔らかい息遣い。

 ルカさん、さすがにそれは「掟破り」でしょう...

 実際には30秒くらいだったと思う。けれどボクにとってそれは、一瞬の出来事のようにも、ずっと続いていたようにも思えた。

 ルカさんが回した腕を解いて、ボクの視界が戻ると、二人は手をつないで歩きだそうとしていた。さっき見えたはずの羽は、見当たらない。

「じゃあ、今日はここで見送るね」とルカさんが二人に言う。
「はい。本当にありがとうございました」と阿東さん。
「報酬の件は...」と安重さん。
「JUJUの件は、また改めて相談しましょう」
「ありがとうございます。それでは」
 二人は手をつないだまま、天歌駅のほうへ向かった。

「あの、浅山先生...」
「ルカでいいよ。もう今日の仕事は終わったようなもんだし」
「じゃあ、ルカさん...さっき二人の背中に、天使の羽が生えてたのが見えませんでした?」
「天使の羽...そうねえ」
「やはり、幻覚でしょうか」
「もしもわたしが、『見えた』って言ったら...シンジくん?」
「は、はい」
「キミはどうするのかな?」

 一筋の風が吹いて、ルカさんのボブカットを、ふわりと揺らした。
 小首を傾げたルカさんの顔に、謎めいた笑みが浮かんだ...

 ボクたちは、事務所に向けて並んで歩き出した。
「そうそう、あのあと、謎は解けたかな?」とルカさん。
「それが...」
 今日のこともあって、さらに謎が深まった。

「花の命は短かいの。早くしないと、わたし、アラサーを通り過ぎちゃうよ」

 大丈夫です。ボクは、全力で追いかけます。
 すべての謎が解けるまで...

<完>

~付録~
 
民法

第三編の二 恋愛

(恋愛の定義)
第七百二十四条の三 恋愛とは特定の二人の異性または同性の当事者間で、相互に恋愛感情を抱くことをいう。
2 前項の二人の当事者間に成立する関係を、恋愛関係という。
3 恋愛感情は、一人の当事者が特定の他の当事者に対して、特別の愛情を抱く状態をいう。
4 次に掲げる感情等は、恋愛感情に該当する。ただし、本人が恋愛感情の存在を否定する場合は、この限りではない。
 一 常に特定の当事者のことを思い、二人だけでともに過ごしたいと感じること。
 二 特定の当事者のために、他のすべてを犠牲にしても構わないと感じること。
 三 特定の当事者にとって、自らが独占的な地位を占めることを願うこと。
 四 その他、特定の当事者に対して恋い慕う特別な感情を抱くこと。
5 第七百三十四条の規定により、婚姻が禁止される親族の関係にある特定の二人の当事者については、本編の規定は適用しない。

(恋愛自由の原則)
第七百二十四条の四 恋愛は自由とする。ただし、公の秩序又は善良の風俗に反する場合及び本法又は他の法令に違反する場合は、この限りではない。
2 意思能力を有しない未成年者が一方の又は双方の当事者である恋愛については、当該未成年者の親権者又は未成年後見人が監督する。

(片想い)
第七百二十四条の五 一方の当事者が恋愛感情を抱く特定の当事者(以下「相手方」という。)が、その者に対して恋愛感情を抱かない状態を、片想いとする。
2 片想いの当事者は、相手方に自らの恋愛感情を告知することができる。ただし、自らに対して恋愛感情を抱くことを強要してはならない。

(重恋愛)
第七百二十四条の六 複数の当事者との間で同時に恋愛関係となることを、重恋愛とする。
2 第七百二十四条の四第一項の規定は、重恋愛にも適用する。

(恋愛関係の成立)
第七百二十四条の七 恋愛は、自らの恋愛感情を示して恋愛関係を結ぶことを申し入れる意思表示(以下「申込み」という。)に対して、相手方が承諾をしたときに成立する。
2 恋愛関係の成立には、本編に特別の定めがある場合を除き、書面の作成その他の方式を具備することを要しない。
3 申込み及び承諾は、口頭、書面、電磁的記録等、言語を用いた意思表示によるものとする。ただし、身体の特定の部位の独特の動きなど、恋愛感情を表現する方法と認められる慣習による意思表示は、効力を有するものとする。

(恋愛契約)
第七百二十四条の八 前条の規定により恋愛関係が成立した当事者は、合意によって恋愛契約を締結することができる。
2 双方の当事者が満十六歳以上である恋愛契約の締結には、親権者又は未成年後見人の同意を要しない。

(非拘束恋愛契約)
第七百二十四条の九 恋愛契約のうち、次条に定める拘束恋愛契約に該当しないものを、非拘束恋愛契約とする。
2 非拘束恋愛契約においては、重恋愛を妨げないものとする。
3 非拘束恋愛契約の当事者は、信義に従い誠実に契約を履行する努力義務を負う。
4 非拘束恋愛契約の当事者は、相手方に対して契約上の責任を負わない。ただし、第七百九条の規定による損害賠償の請求を妨げない。

(拘束恋愛契約)
第七百二十四条の十 恋愛契約のうち、お互いに重恋愛を排除するものを、拘束恋愛契約とする。
2 拘束恋愛契約は公正証書による等書面(電磁的記録を含む)によってしなければならない。
3 前項の書面に、非拘束恋愛契約であることが明記されていない場合、当該契約は拘束恋愛契約であると推定する。

(拘束恋愛契約の効力)
第七百二十四条の十一 拘束恋愛契約においては、前条第一項の重恋愛を排除する規定の他、以下の事項を規定することができる。
 一 面会の頻度に関する事項
 二 面会時の費用負担に関する事項
 三 連絡の手段及び頻度、時間帯に関する事項
 四 恋愛関係の開示(開示、非開示、開示する場合の範囲等)に関する事項
 五 関係性の深さ(精神的関係に限定するか否か)に関する事項
 六 その他、恋愛関係の維持に必要な事項
2 前項により規定した事項について、拘束型恋愛契約の各当事者は、相手方に対して契約上の責任を負う。

(婚姻の予約)
第七百二十四条の十二 拘束恋愛契約において、婚姻の予約をすることができる。
2 前項の婚姻の予約は、契約締結日から三年以内に婚姻する内容のものでなければならない。ただし両当事者の合意により三年を限度に延長できる。

(恋愛契約の終了)
第七百二十四条の十三 恋愛契約は、当事者間に婚姻が成立した場合、当然に終了する。
2 当事者の一方にのみ婚姻が成立した場合、恋愛契約は終了する。
3 前項により拘束恋愛契約が終了する場合、婚姻が成立した当事者は、他方の当事者に生じた損害を賠償する責任を負う。ただし、当該他方の当事者に同時に婚姻が成立した場合は、この限りではない。


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