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天使の法律事務所--新米弁護士くん、恋も実務も修行中 上編

司法修習を終え、故郷の天歌市で弁護士生活を始めて1ヶ月ほど経った頃、クライアントとしてその子が現れた。ボクの好みにピッタリな、その子のことが好きになってしまいそうになる気持ちを、ボクは必死で抑える。一つは、その子の依頼内容が、施行されたばかりの改正民法で規定される、「恋愛契約」の締結に関することだったから。そしてもう一つ。ボクには、密かにお慕いしている女性がいるから...天使たちに囲まれて法律事務所での新生活を始めた、そんな主人公の恋の行方は? そうそう、弁護士の修行もお忘れなく...

1.天使と恋愛契約

 予約時間の5分前に現れたその子は、まさに「ドストライク」だった。

 202X年4月1日、改正民法が施行されたその日に、ボクは天歌(あまうた)総合法律事務所に就職した。入所して1ヶ月ほど経った、ゴールデンウィークの合間の平日の午後5時。「恋愛契約についての相談」ということで、その予約は入っていた。電話応対した先輩弁護士の吉野さんによれば「女性の声。若そうだったけれど年齢はわからない」とのこと。

 果たして現れたのは、ルミ女(るみじょ)こと私立ルミナス女子高校の制服に身を包んだ女の子。

 ルミ女の制服と言えば、薄クリーム色のワンピースの冬服のイメージが強いが、時代の流れで、いまはスカートスタイルとパンツスタイルが選択できるようになっている。
 ノックをして事務所の扉を開けて入ってきた彼女は、薄クリーム色のブレザーにライトグレーのスラックスという、パンツスタイルの制服を着用。身長は150cmを少し超えたくらいだろうか。

 法律事務所を女子高生が一人で訪れるというのは、なかなかお目にかかれない光景だろう。それが、ボクの出身校である県立天歌高校の男子生徒にとって、憧れのお嬢様学校であるルミ女の制服を纏った天使のような女の子であるならば、なおさらである。
 それだけではない。ボクが心惹かれる女性の一つの類型は「こぢんまり」とした人。彼女はまさに「こぢんまり」という表現がぴったり。もっともボクが勝手にそのような表現を使っているだけなのだけれど。

 そんなわけで、入口のところで一瞬立ち尽くしてしまったボクは、少し上目遣いで視線を送ってくる彼女に、逆に促されるような感じで彼女を会議室に案内した。

 ボクの言う「こぢんまり」は、「小柄」と言うのとは少し違う。無論「小柄」は「こぢんまり」を構成し得る属性の一つではあるが、それだけではない。声、話し方、表情、仕草...そういった様々な属性を含めたキャラクターの総体として、「こぢんまり」という類型が規定される。
 例えば、事務所の吉野未来(よしの みく)さん。彼女の身長は、女性の平均から少し低いくらいだけれど、様々な属性から彼女は「こぢんまり」に該当する。副所長である内田さんの奥さんでなかったら、ボクは吉野さんに本気で惚れていたかもしれない。

 その吉野さんが、レンタルのドリンクディスペンサーで淹れたお茶を運んできてくれた。
 当事務所に所属するのは、ボクも含めて弁護士4名だけ。裁判所関連の手続きのオンライン化とAIによる業務の自動化の急速な進展のため、手続きとか書面の起案とかの手間が近年大幅に軽減された。だからパラリーガル職や事務職のスタッフは雇っていない。
 とはいうものの雑務は無くならない。だから、所長、副所長以下4名がみんなで分担する。そして修習を終えたばかりの新米弁護士のボクは、大した働きはできないから、自然と雑務に該当する業務を行うことが多くなる。

 会議室の四人掛けのテーブルの入口側にボクが着座。奥に回ってバックパックを隣の椅子に降ろすと、彼女はボクの正面に腰を下ろす。
 喉がカラカラになっていたボクは、お茶を一口啜ってから彼女に話しかけた。
「え、えーと...あ、そうだ。ボ、あ、その、私は当事務所の弁護士の深町です。今日は所長がお話を伺う予定ですが、前の打ち合わせが少し長引いていて、終わり次第やってきます」
「わかりました」
「初めてのご相談ですので、30分で5000円いただきます...あ、開始時間は所長が合流してからです。よろしいでしょうか。」
「はい。大丈夫です」
「こぢんまり」感を増幅しているショートボブ。ボーイッシュな顔の細い唇の間から、メッツォ・アルトの声で彼女は囁くように言葉を発した。
「延長は30分まで無料です」とボク。
「はい。わかりました」

 料金の確認が終わると、用意していたヒアリングシートを正面に置き、万年筆のキャップを取って、ボクは再び彼女に語りかける。
「えー、それでは...これから貴女自身に関することや、えーと...ご相談の内容に関することを質問します。答えたくない事項については、とりあえずお答えにならないで結構です」
「はい」
 たどたどしくなるのを堪えながら、ボクは、氏名、生年月日、性別、住所、電話番号、メールアドレス、通学先...と彼女自身に関する事項を聴き取り、一通り答えてもらった。
「ありがとうございます」

 お茶を一口含んでから、さらに続ける。
「えーとそれでは、ご相談の内容について...たしかお電話では『恋愛契約に関するご相談』と承っていますが、間違いないでしょうか」
「はい、そうです」
 恋愛契約に関する相談なので、チェックシートに書いた生年月日から、彼女が満16歳になっていることを確認した。改正民法の第三編の二「恋愛」の第七百二十四条の八第二項の規定により、恋愛契約締結については16歳になっているか否かで大きく取り扱いが異なる...

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(恋愛契約)
第七百二十四条の八 前条の規定により恋愛関係が成立した当事者は、合意によって恋愛契約を締結することができる。
2 双方の当事者が満十六歳以上である恋愛契約の締結には、親権者又は未成年後見人の同意を要しない。

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「この先は、所長が来てから、ということで...もうすぐ来ると思いますので、少しお待ちください」
「はい」
 そんなやりとりをして数分経ったが、所長はやって来ない。
「ごめんなさいね。もうすぐだと思います」
「ええ、大丈夫です」
「...ちょっと、質問してもいいですか?」
「はい」
「ルミナス女子高校の、2年生ですよね」
「はい。そうです」
「中学からルミナス? あ、ごめんなさい...ご相談の内容に関係ないから、答えなくていいですよ」
「いえ。高校から入りました」
「私は、お隣の県立天歌高校。ええと、高校からです...」
「それって...当然ですよね」
 彼女の唇に、仄かに笑みが浮かんだ。

 我ながら馬鹿なことを言ってしまった、と後悔した次の瞬間、会議室のドアをノックする音。
「ごめんなさい。お待たせしました」と言いながら、所長が入ってきた。
「当事務所の所長の浅山です」と言いながら、クライアントの女子に名刺を差し出す。
「深町先生。名刺、お渡しした?」
「あ、まだでした」
 入所1ヶ月で、まだ面談に慣れていないボクは、慌てて名刺入れを出すとクライアントの女子高生に渡した。

 ボクが座っていた席に所長が座り、ボクは隣の席に腰かけた。
 ボクが記入したヒアリングシートにざっと目を通すと、所長はクライアントに話しかける。
「ルミ女の2年だね。何組?」
「3組です」
「3組は今でも特進?」
「はい」
「ルミ中(るみちゅう)から?」
「いえ、高校からです」
「そう、優秀なんだ」
「そんなことないです」

 吉野さんが、改めてお茶を三つ運んできて、クライアントとボクの空いたカップを片付けた。
「さて、本題に入りましょうか。安重瑠美花(あんじゅう るみか)さん」と所長。

 我らが天歌総合法律事務所の所長の名前は、浅山輝佳(あさやま てるか)。愛称は「ルカさん」。今年の誕生日で31歳になる。弁護士歴は6年。

 ボクが心惹かれる女性のもう一つの類型は「大柄」な人。「大柄」も「こぢんまり」と同じで、身長や体格のみで規定されるものではない。その人のキャラクターの総体として規定される。好みが矛盾するかもしれないけれど、事実なのだからしょうがない。
 身長169cmのルカさんに初めて会ったのは、2月の末に採用面接を受けたとき。東京の大手や中堅の事務所を受けて、ことごとく撃沈したボクは、小さな事務所に入るなら地元で探してみようと思って、天歌総合法律事務所の門を叩いた。

「深町真二(ふかまち しんじ)さんですね」と柔らかくも良く通る声。端正な顔に腰まで伸ばした長い黒髪のルカさんが、ボクに微笑みかけた瞬間、ボクのハートに矢が突き刺さった。
 幾つも質問を受け、しどろもどろになりながら答える、というやりとりを重ねる中で、彼女の話し声、言葉遣い、リアクション、表情...ボクの理想とする「大柄」な女性がそこにいた。刺さった矢は抜けないばかりか、ぐいぐいと食い込む一方だった。隣にいた副所長の内田恵一(うちだ けいいち)さんのことを、あとからほとんど思い出せないくらいに、ボクの目は彼女に釘付けになっていた。
 面接から合否の通知までの二週間。彼女のもとで働きたいという願いと、あんな受け答えでは到底無理だろうという諦めが巡り巡る、落ち着かない日々を過ごした。それだけに「よろしければ、4月1日から勤務してください」というメールが来たとき、ボクはスマホを何度も再起動して確認し、メールの内容に間違いがないことがわかって、「天にも昇る」気持ちになった...

「貴女が考えている恋愛契約について、詳しくお話を聞かせてくれますか?」とルカさんが安重さんに聞く。
「はい」
 そう言うと彼女は、A4の紙を1枚取り出した。ワープロの短い文章に、自筆の署名が二つ。

  タイトル:恋愛契約書

  本文:私たちは恋愛契約を結びます。

  日付:202X年4月15日

 ここまでがワープロ打ち。

 署名の一つ目が「安重瑠美花」

 そしてもう一つが「阿東沙久良」

「ええと...このもう一人の方の名前は、何て読むのかしら」
「『あとう さくら』です」
「この人は?」
「クラスメイトです」
「と言うことは、特進ですね。彼女も高校から?」
「はい。中学のときもクラスメイトでした。ルミ女には一般コースで入って、2年から特進に編入になりました」
「阿東さんとの関係について、差し支えない範囲で、お聞かせいただけますか」
「はい...」そう言うと彼女は話し始めた。

 安重さんと阿東さんが初めて出会ったのは、十海(とおみ)市の市立中学2年のとき。
 安重さんは、大人しくて引っ込み思案な性格が災いして、1年生のときからネグレクトに遭っていた。クラスのLINEには入っていたが、流れてくるのは事務連絡ばかり。偶然知ったのだけれど、自分を含めた何人かだけ外した裏LINEがあって、みんなそちらのほうで日頃のやり取りをしていた。
 ただ孤立しているだけなら、まだ良かったかもしれない。露骨ではないけれどイジメにも遭った。持ち物が見当たらなくなるのはしょっちゅう。お祖母ちゃんに買ってもらった、ちょっと大人の雰囲気のレザーのペンケースが失くなったときは、必死になって探した。そんな彼女の姿を、クラスの女子のほとんど全員がニヤニヤしながら見ていた。結局ペンケースは、女子トイレのごみ箱の中に見つかった。

「そうか。大変だったんですね」とルカさん。
「中学2年の夏休み前、阿東さんが私のクラスに転校してきたんです。それからすべてが変わりました」

 明るくて華のある阿東さんは、すぐにクラスの人気者に。そして二学期最初の席替えで、苗字がともに「あ」で始まる二人は席が前後になった。彼女が床に落とした蛍光ペンを安重さんが拾って渡したことをきっかけに、二人は言葉を交わすように。そして家の方向が同じなので、一緒に登下校するようになった。安重さんにとっては、中学に入って初めてできた友達だった。

「けど...阿東さんも、クラスの中で疎まれるようにならなかったんですか」とボク。
「私も心配しました。けれど彼女は、そんなこと気にしなかったんです」

 阿東さんは、安重さんがイジメに遭っていることを聞いて、クラスのキーパーソンに話をした。そんなことをすると、それこそ自分の立場が悪くなるかもしれないのに。安重さんへのイジメは収まったが、阿東さんは、イジメこそなかったものの、他のクラスメイトから無視されるようになった。

「そうか。彼女は勇気のある人なんですね」
「はい。そうなんです。そして...そんな彼女のことを...私は好きになりました」

 そう言った安重さんの顔に浮かんだ、恥じらいを帯びた笑顔。ボクのハートに矢が飛んでくるのを察知し、ボクは楯をかざしてどうにかかわした。「大柄」と「こぢんまり」の二人と同席していると、仕事とはいえ、当惑を隠すことが難しい...

 3年になって二人は別のクラスになった。けれど、登下校は変わらず一緒だった。
 そして受験。二人ともルミ女の国立・特進コース選抜試験を受けた。安重さんは特進コース合格、阿東さんは「一般コース入学資格付与」になり、二人ともルミ女に進学した。コースが違うので1年はクラスが別だったけれど、阿東さんは猛勉強をして、1年の学年末試験で上位に食い込み、2年から特進コースに編入。晴れて二人は再びクラスメイトになった。

「4月半ばの情報の実技の授業が終わったときに、学校のパソコンでこの契約書を作ったんです。ずっと仲良くしようね、って言って」
「そうですか...ここに至る経緯(いきさつ)は、わかりました」
 一瞬間をおいて、ルカさんが続ける。
「それで、当事務所に来られたのは、具体的にどのようなご相談でしょうか」
「え、えーと...」と安重さんは言いながら、改めて「契約書」をルカさんの前に差し出した。
「この契約書を、あの...コーシーショーショって言うんですか? それにしたいんです」
「公正証書、ですか」
「コーショー役場に電話したら、一通り説明されたんですけど、よくわかりませんでした。それでそう言ったら、『弁護士さんか行政書士さんに相談するように』と勧められました。天歌の弁護士事務所をネットで検索して、こちらにお電話したんです」

「えーと、まず、お二人の間には、この契約書が存在することから、形式的には恋愛契約が成立していると推定されます」とルカさん。さらに続ける。
「推定、と言いましたのは、お二人がお互いに恋愛感情を持って、恋愛関係に入る意思に間違いがないことを前提として、ということです」...

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(恋愛関係の成立)
第七百二十四条の七 恋愛は、自らの恋愛感情を示して恋愛関係を結ぶことを申し入れる意思表示(以下「申込み」という。)に対して、相手方が承諾をしたときに成立する。
2 恋愛関係の成立には、本編に特別の定めがある場合を除き、書面の作成その他の方式を具備することを要しない。
3 申込み及び承諾は、口頭、書面、電磁的記録等、言語を用いた意思表示によるものとする。ただし、身体の特定の部位の独特の動きなど、恋愛感情を表現する方法と認められる慣習による意思表示は、効力を有するものとする。

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「私が彼女と恋愛関係に入ろうという気持ちは、間違いありません。彼女のほうは...」
 そう言うと安重さんは、少し下を向いた。
「まずは、そこをしっかりと確認することですね」

 テーブルの隅に置いてあった卓上時計が、ピカピカと光り出した。6時15分になっていた。
「ええと。わたしが参加してから1時間が経ちましたので、規定の相談時間はこれで終わりです」とルカさん。
「それじゃあ...」
「そうね。もし貴女がよろしければ、もう少しお話ししませんか? 追加料金はいただきません。たぶんお察しでしょうけど、わたしはルミ女出身。先輩として後輩のお力になれれば、と思うの。いかがでしょう」
「いいんですか?」と安重さん。
「ええ。よろこんで」
「是非、お願いします!」
「じゃあ、ルミ女のもう一人の先輩に加わってもらいましょう」
 ルカさんは立ち上がり、会議室の扉を開けると、オフィスにいる吉野さんに声をかけた。
「ヨッシー。キリのいいところでこちらに来てくれないかな」
「わかりました。コーヒーお持ちしましょうか?」
「安重さんはコーヒー大丈夫?」
「はい。お願いします」
「あ、コーヒーはボクがやります」

 ボクがコーヒーを4人分用意して、トレーに載せて会議室に運んでテーブルに置く。空いた3つのお茶のカップをトレーに載せ、流しに置くと、トレーをパントリーに残して会議室に戻る。吉野さんはボクが座っていた席に着いて、ボクは、安重さんがバックパックを移動して空いた、彼女の隣の席に腰を下ろした。

 3人は、ルミ女の話題に花を咲かせていた。現役が一人と卒業生が二人。ルミナスの天使のコーラスを聞きながら、ふと、思いに耽る。

 誰かに心惹かれると、いつもボクは、自分をそんな気持ちにさせる「謎」を究明しなければ、気がすまなかった。ゴチャゴチャ考えずに、本能に身を任せればいいのにと思う。でもそれができない。そんなボクの恋はほとんど、告知にすら結びつかない片想いの状態で終わった...

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(片想い)
第七百二十四条の五 一方の当事者が恋愛感情を抱く特定の当事者(以下「相手方」という。)が、その者に対して恋愛感情を抱かない状態を、片想いとする。
2 片想いの当事者は、相手方に自らの恋愛感情を告知することができる。ただし、自らに対して恋愛感情を抱くことを強要してはならない。

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 初めて出会ってからそろそろ3ヶ月。ルカさんの「謎」は、日々更新され、深まっていく...

「...それで、君は文系? 理系」とルカさんが安重さんに聞く。
「理系のつもりです」
「へええ。志望校は?」
「県立十海大学の理工学部です」
「そうか。結構大変だよね」と吉野さん。
「クラス担任の物理の先生に憧れてるんです」
「それって、早川先生?」
「はい。ご存知ですか」
「私、彼女と軽音部で同期で、バンドは違うけど一緒のステージにも立ったよ」
「吉野先輩、ひょっとして『ミクッツ』ですか?」
「うん。キーボード兼サイドボーカル」
「ルミッコとの伝説のコラボの話、今でも聞きます」
「そうか。知っていてくれたんだ」としみじみと吉野さん。
「最近マーちゃん、あ、早川先生のことだけど、またバンド始めたんだってね」
「はい。1回ステージ観に行きました。なんか、弾けてるっていうか、カッコよかったです」

「彼女は、天歌市の同性婚第一号だよね」とルカさん。
「はい。4月1日の朝一番に届け出されたそうです」と安重さん。
「同性パートナーシップ制度ができたときも、第一号だったからね」

 4月1日に施行された民法の改正によって、第三編の二「恋愛」が新たに追加された。改正の本旨は、同性婚と夫婦別姓の法制化だった。改正法案には、同性婚と夫婦別姓に関わる他の法律の改正のほか、性的マイノリティの権利をさらに手厚く保護するための一連の法律の改正も盛り込まれていた。
 これらの制度には、かねてから保守派とされる勢力が強硬に抵抗していたが、諸外国からの圧力もあり、もはや制度の導入、拡充を容認しないわけにはいかなくなっていた。
 そこで、保守派が持ち出したのが、民法に恋愛に関する規定を盛り込むことだった。同性婚を認め、同性愛者の社会的権利が拡充されることに対して、「善良な風俗」が乱れることを防ぐために、恋愛を法的規制の下におくべきであることを、彼らは主張した。

「そもそも恋愛は、憲法の思想・良心の自由の領域だから、法律で規制するってこと自体がナンセンスなんだと思う」とルカさん。
「改正法案を提出した側は、恋愛の法制化には当初は激しく抵抗しましたね」とボク。
「けれど、同性婚や夫婦別姓、性的マイノリティの権利拡充を進めるために、最後は妥協したんですよね」と吉野さん。
「そうそう。保守派の最初の法案から、重要な条項の修正を吞ませることでね」とルカさん...

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(恋愛自由の原則)
第七百二十四条の四 恋愛は自由とする。ただし、公の秩序又は善良の風俗に反する場合及び本法又は他の法令に違反する場合は、この限りではない。
2 意思能力を有しない未成年者が一方の又は双方の当事者である恋愛については、当該未成年者の親権者又は未成年後見人が監督する。

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「第七百二十四条の四は、保守派の当初の法案では『恋愛の制限』と題して『公の秩序又は善良の風俗及び本法又は他の法令に反する恋愛は、許されないものとする』という条文だったんだよね」とルカさん。さらに続ける。
「それを、『恋愛自由の原則』と題して『恋愛は自由とする。ただし、公の秩序又は善良の風俗に反する場合及び本法又は他の法令に違反する場合は、この限りではない』と修正させたのは、リベラル派にとっては大きな成果だったと思うよ」

 吉野さんが、クライアントたる安重瑠美花さんが、ポカンとしているのに気付いた。
「あのー、安重さんが...」
「いっけない、ごめんなさいね。法律屋だけで話が盛り上がっちゃって」
「いえ、なんか、すごいですね」
「わたしが貴女に言いたいのは、恋愛は本来自由だし、契約を締結する義務はないっていうこと」とルカさん。
「はい。それはわかっています」
「なので、貴女が、恋愛契約を書面で、しかも公正証書にしたいというのに、どういう思いがあるのかってことを聞かせて欲しい」
「そうですね...」
「あ、差し支えない範囲でいいよ」

 コーヒーを口に含んで、しばし安重さんは沈黙する。「こぢんまり」としたその女の子から、再びボクのハートに矢が飛んでくるのを感じ、楯で防御する。その正面に座る「大柄」な人の矢は、ボクのハートにずっと突き刺さったままだ。

 安重さんが口を開く。
「何か...形になるものが欲しいんです」
「なるほど。形になるものね」とルカさん。
「早川先生と羽根田先生も、同性婚という形を作られました。まだまだ勇気がいることだと思います。特に女子校の教師という立場では」
「その『形』が、貴女にとっては公正証書ってことね」

「ところで、恋愛契約には2種類あるってことは、ご存知かしら」とルカさん。
「ええと...拘束がどうとか」
「そう。非拘束恋愛契約と拘束恋愛契約」...

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(非拘束恋愛契約)
第七百二十四条の九 恋愛契約のうち、次条に定める拘束恋愛契約に該当しないものを、非拘束恋愛契約とする。
2 非拘束恋愛契約においては、重恋愛を妨げないものとする。
3 非拘束恋愛契約の当事者は、信義に従い誠実に契約を履行する努力義務を負う。
4 非拘束恋愛契約の当事者は、相手方に対して契約上の責任を負わない。ただし、第七百九条の規定による損害賠償の請求を妨げない。

(拘束恋愛契約)
第七百二十四条の十 恋愛契約のうち、お互いに重恋愛を排除するものを、拘束恋愛契約とする。
2 拘束恋愛契約は公正証書による等書面(電磁的記録を含む)によってしなければならない。
3 前項の書面に、非拘束恋愛契約であることが明記されていない場合、当該契約は拘束恋愛契約であると推定する。

(拘束恋愛契約の効力)
第七百二十四条の十一 拘束恋愛契約においては、前条第一項の重恋愛を排除する規定の他、以下の事項を規定することができる。
 一 面会の頻度に関する事項
 二 面会時の費用負担に関する事項
 三 連絡の手段及び頻度、時間帯に関する事項
 四 恋愛関係の開示(開示、非開示、開示する場合の範囲等)に関する事項
 五 関係性の深さ(精神的関係に限定するか否か)に関する事項
 六 その他、恋愛関係の維持に必要な事項
2 前項により規定した事項について、拘束型恋愛契約の各当事者は、相手方に対して契約上の責任を負う。

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「大きな違いは、非拘束の場合は、重恋愛、つまり契約相手以外の人と恋愛関係になることを禁止していないけれど、拘束恋愛契約では、重恋愛は禁止になる」とルカさん。
「あとは非拘束だと、契約に違反しても原則として責任は負わないけれど、拘束だと、契約で決めたことに違反すると、責任を負わなければならない。具体的には慰謝料を支払うとかね」
「慰謝料、ですか?」と安重さん。
「まあ相手次第だけれど、法的にはあり得る、ということになる。それだけ重大な契約になるので、拘束恋愛契約は書面によって締結することが義務付けられている。もっとも貴女の言う公正証書は、書面の一例であって、必ずそうしなければならないということではないの」

「じゃあ、この契約書はどういうことになりますか?」と安重さんは、テーブルの上の「恋愛契約書」を指さしながら言った。
「そうね。さっきも言ったように、お二人の意思次第だけれど、形式的には拘束恋愛契約が成立していると解釈できる。だから相手が二股かけたら、慰謝料請求の根拠になり得る」とルカさん。
「でも、それは推定規定なので、当事者の意思が反すると主張して争うことができますよね」と吉野さん。
「そう。だからこそ、お二人の、特にお相手の阿東沙久良さんの意思を、ちゃんと確認する必要があるの」
「そうですか...よくわかりました」

「公正証書でなければならないんでしょうか」とボクも議論に加わる。
「費用もそれなりにかかります」
「あの...いくらくらいでしょうか」
「内容にもよりますけれど、公証役場だけでも、最低11,000円はかかるかと」
「それくらいなら...お年玉とバイト代でなんとかなります」
「未成年だと本人確認も難しいですよね」と吉野さん。
「親御さんに知らせないつもりですね」
「はい、できれば」
「じゃあ、パスポートぐらいでしょうか」
「私、パスポートあります。沙久良も去年の夏休みに家族で海外旅行してるので、パスポート持ってると思います」

 時計は8時近くになっていた。気づいたルカさんが言う。
「ああ、もうこんな時間。ごめんなさいね。遅くなっちゃった」
「いえ。今日は遅くなるかもしれないって言ってますので」
「それでは、今日の結論はこういうことで」というとルカさんは立ち上がって、ホワイトボードに箇条書きを始めた。

 ・阿東沙久良さんの契約締結意思を確認すること

 ・その際、非拘束恋愛契約か拘束恋愛契約かを確認すること

 ・書面の場合、公正証書にするかを確認すること

 ・お互いに親御さんに、話をするかどうかを確認すること

「こんなところかな」とマーカーのキャップを閉めながらルカさんが言う。吉野さんがスマホで写真をとる。
「写真、よかったらあとで、お聞きしたメアドにパスワードつけて送るけど、いいですか?」
「はい。お願いします」

「さて、大事な話。今回の件を弁護士として受任、つまり引き受けるとすると、今日の相談料の他に、料金をいただかなければなりません」とルカさん。
「はい。それはわかっています」
「公正証書の文案作成と公証役場への手続き手数料。公証役場に払う費用も含めた実費経費。展開が見えないないので、着手金はなしとして、事後の報酬は必要かもしれません」
「あの、全部でだいたいどれくらい...」
「ごめんなさい。ちょっと脅かしちゃったかな。でも料金に関する事項は、最初に説明しておかなければならないの。その上で...」というとルカさんはボクを指して続ける。
「こちらの新人弁護士を担当にするという条件で、実費経費は負担してもらうけれど、うちの手数料は今日の相談料に含めて、成功報酬は...」

 そこまでルカさんが言ったところで、事務所の扉が開いた。副所長の内田さんが、顧問先の会社との打ち合わせから戻ってきたようだ。吉野さんが会議室の扉を開いて、ご主人である内田さんを招じ入れる。
「そうだ。成功報酬はJUJU(ジュージュー)のバーガーセットを、ケイさんも含めてうちの事務所4人にご馳走してもらう、ということでどうかな?」とルカさん。
「えっ? なんのこと?」と立ったままで内田さん。元柔道選手で身長186cmの内田さんは、「聳え立つ」という表現がぴったり。
「あとで詳しく話すから」と吉野さん。
「こちら、うちの副所長の内田くん。吉野さんの夫です」
「初めまして。吉野さんの後輩の安重瑠美花です」
「内田です。どうぞよろしく」
「JUJUは知ってるよね」とルカさん。
「はい。駅前商店街の」
「内田くんは、バーガーセットに単品バーガーをつけるかもしれないけど。いいかな?」
「そんな...本当にそれだけでよろしいんですか?」と安重さん。
「深町くんの修行と可愛いルミナスの後輩のためということで、特別にね。その代わり、料金について絶対に他で話したら駄目だよ」
「わかりました」

「本当にありがとうございます。よろしくお願いします」と言いながら、安重さんが1000円札を5枚、長財布から抜き出して、ルカさんに渡す。事前に準備していた領収書を、吉野さんが安重さんに渡す。
 全員で安重さんを事務所の扉の前で見送る。

 ボクは、彼女について扉の外に出る。
「新米で勉強中ですけど、よろしくお願いします」とボク。
「そんな。こちらこそ、よろしくお願いします。深町センセイ」と言って、微かな笑みを浮かべる彼女。
 ボクのハートにまたもや飛んでくる矢を、楯でどうにか防ぐ。
 彼女の「こぢんまり」とした後姿が、すっかり暗くなった通りを天歌駅のほうに向かうのを見送る。

「さて、本日はこれくらいにしておいて、あとは明日ということで大丈夫かな?」と所長たるルカさんが言う。
 誰も異議を述べず、帰り支度を始めた。

<中編へ続く>


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