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「緋色の研究」に見るホームズの友情

 シャーロック・ホームズの相棒といえば、ジョン・H・ワトソン博士を置いて他にはいない。
 その信頼はほかの者にも群を抜いており、ホームズは堂々と「君のほかに友人はいない」とのたまい、他者の介在を危ぶむ依頼人に「二人でなければ依頼を受けない」と断じている。
 親愛の情溢れるワトソン博士がシャーロック・ホームズを尊敬し、敬愛しているのは自明である。
 では自他ともに認める変わり者の探偵にとって、ジョン・H・ワトソンはどんな存在なのか
 この問題を考えるにあたり、ここでは特にホームズシリーズの第一作目である「緋色の研究」を取り上げたい。
 なお当記事における本文は「コンプリート・シャーロック・ホームズ」からの引用であり、「Free eBooks | Project Gutenberg」「A Study in Scarlet.」で公開されている原文と照らしたものである。

 本作において、当初ワトソン博士はホームズに対し、強い疑念を抱いていた

「あの海兵隊の軍曹上がりのことか?」シャーロックホームズは言った。
「自慢たらしいホラ吹きが!」私は心の中で思った。「どんな出まかせでも、私が検証できないと分かって言っているな」

緋色の研究 第1部 第2章「推理の科学」

 このようにワトソン博士は、ホームズの推理力をまったく信用していない。このほかにもホームズの言動を非常に苦々しく思う描写は、ここまで多々見受けられる。
 どころかホームズの人格についても同様で、ここでは「ホラ吹き」と悪態をついている始末である。
 信用や信頼がないことはホームズ自身も感じていたようで、この出来事に至るまで、ホームズが自身の仕事をワトソンに教えたことはなかった。
 しかしこの直後、ホームズがその推理力を披露したことで、二人の関係は一変する

「素晴らしい!」私は叫んだ。
「たいしたことはない」ホームズは言った。しかし表情を見ると、私が率直に驚いて称賛した事が嬉しかったように思えた。「僕はついさっき犯罪がないと言った。どうやら間違っていたようだ、 ―― これを見てみろ」彼は便利屋が運んできた手紙を投げてよこした。

緋色の研究 第1部 第3章「ローリストン・ガーデンの謎」

 チョロい。チョロすぎる。
 繰り返すが、ホームズはこの日まで、ワトソン博士に対し己の職業を明かしていない。
 それが、極めて仕事に密接した手紙を音読させ、自分はこの上なく怠惰だと言いながらもワトソン博士に後押しされて出動を決意した。のみならず、ホームズ自ら調査に誘い、最高に上機嫌で現場に赴くのである。
 ホームズの態度をここまで軟化させたのがワトソン博士の「素晴らしい!」ーー“Wonderful!”ーーという素直な称賛であったことは、疑いようがない。

 ではこれまで、ホームズは他の人物からいかなる扱いを受けていたのか。これについては、この少し前のやりとりを以下に引用する。

「いったいどうやって推理したんだ?」私は尋ねた。
中略
「推理そのものより、どうやって推理したかを説明する方がややこしいな。もし君が二足す二が四になることを証明してくれと言われたら、それが間違いのない事実だと分かっていても、ちょっと困るだろう。」

緋色の研究 第1部 第3章「ローリストン・ガーデンの謎」

グレッグソンとレストレードは、アマチュア仲間の行動を非常に興味深く、 ―― いくばくかの軽蔑を込めて ―― 、じっと見ていた。しかし、どうやら二人は、私が徐々に気付き始めていたある事実を正しく認識できなかったようだ。それは、シャーロックホームズのどんなわずかな動作も、すべて何かはっきりした実用的な目的があるということだ。

緋色の研究 第1部 第3章「ローリストン・ガーデンの謎」

 このことから察するに、ホームズは推理の過程を説明する習慣がない。そして警部達も、ホームズのやり方に興味を持っていない様子が伺える。
 つまりホームズは、これまで推理に興味を寄せられたことがなかった。
 ワトソン博士は、諮問探偵の長きにわたる孤独と、満たされずにいた自尊心を、その素直さで埋めたのである。直前までホームズの理論を見下していたのも、反動としては非常に効果的だっただろう。
 そしてそれを受け取ったホームズも、「やはり僕はすごいのだ」と天狗になることはなかった。「僕を認めてくれたワトソンに、ぜひ仕事に同行してほしい」と感じたからこそ、自ら捜査に誘ったのだ。「謙遜は美徳ではない」とのちに語るホームズだが、自身の能力を正確に把握し評価されたいと、内心願っていたのかもしれない。

 こうして二人で捜査に乗り出したホームズとワトソンであったが、コンビの相性は抜群だったと言っても過言ではない。

「僕はこの事件についてこれ以上言わないよ、先生。手品師はいったん種を明かしたら、尊敬を得られない。だから、もし僕が仕事の手法を明かしすぎたら、君は結局、僕が普通の人間に過ぎないという結論を出すだろう」
「そんなことは絶対に無い」私は答えた。「君は探索の技術を、世界で誰も成し遂げられなかった精密な科学の域にまで高めた」
ホームズは私の言葉と私の真摯な話し方に喜んで顔を赤らめた。すべての女性が自分の美に対して持っている感受性と同じように、彼も自分の技術に対するお世辞に敏感だという事を、私は既に気付いていた。

緋色の研究 第1部 第4章「ジョン・ランセの供述」

 ホームズは、ワトソン博士から寄せられる尊敬の念を非常に喜んでいる。一方のワトソン博士も、それがホームズを喜ばせていることを察したうえで、出し惜しむことなく称賛している。
 すなわちワトソン博士は、ホームズが欲していたものを的確に、そして惜しむことなく与えているのである。
 さらにワトソン博士は、ホームズが「お世辞に敏感」だと知りながら、それによってホームズを操ろうとはしない。同居している男のこと、ご機嫌取りのデタラメではない純粋な賛辞であるのを、ホームズともなれば正確に察しただろう。
 ホームズの厳しい目をもって、ワトソン博士は彼のその才能故の孤独を埋める、真心に満ちたまっすぐな人物であると認められたのだ。

 事件の詳細は省くが、こうして二人で事件の調査に赴くようになり、ホームズの活躍はワトソン博士によって、広く世に知られるようになった。
 そんな二人の生活であるが、これはかなりバランスに欠いている
 二人が衝突するのは、概してホームズがワトソン博士の執筆活動や調査能力に苦言を呈することに端をなす。推理や調査の能力が万人のものではないと知りながら、ワトソン博士がその方面に疎いことをあげつらい、ちくちくと文句を口にする。共同生活を送る部屋は特殊なものに溢れ、ライヘンバッハの滝ではワトソン博士に深い絶望を味わわせた。
 一方ワトソン博士は、惜しみない賛辞で彼の心を満たしたのみならず、ホームズの不精をただし、コカイン中毒(※当時は合法だったが体への悪影響は知られていた)を律し、調査中不審な瞳の緩衝材になる。止めるべき行動は止め、紳士として見逃せないときは、ホームズとともにその正義を貫く。
 このワトソン博士の献身は、二人の仲介者であるスタンフォードをして「彼は、最新の植物性アルカロイドを友人に少量与えることだってしかねないと思う」と言わしめたホームズにも、響くものがあったらしい。「三人ガリデブ」ではワトソン博士に怪我を負わせた男に対して「もしワトソンを殺していたら、生きてこの部屋からは出られなかった」と言い捨てている。
 犯人を手にかければどうなるかは、ホームズが最もよく知っている。それでもなお、その一線を越えるだけの情熱をホームズに灯した。
 ワトソン博士はまさに、ホームズを人間たらしめる不可欠の相棒だと言えよう。