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デビッド・ボーム Dialogue6章後半

デビッド・ボームの「ダイアローグ」第6章後半
唯識的解釈()内

SUSPENSION THE BODY AND PROPRIOCEPTION

保留、肉体、自己受容感覚

〜前半より〜

これに関連した話しだが、皮膚の抵抗値を測定し、その値が情動の状態によって変化するという装置がある(うそ発見器のようなものを想起した)。もし、誰かに言われたこと(耳識のきっかけ)にあなたが反応(身識のハタラキ)すると、二、三秒後に装置のメーターの針が動く – 衝動が脳を通って神経系に伝えられるまで、それだけの時間がかかるということだ。あなたは自分がそんな情動反応(耳識のきっかけによる衝動→身識のハタラキ)をしたことさえ気づかないかもしれない(自覚がない=覚れていない) – もっとも、情動が強烈な場合には気づくだろう – が、いずれにしろ、(耳識の)影響を受けたわけである。もし、それが自分でわかるくらい強い気持ちなら、あなたはこのような言い方をするはずだ。「なんとなくそんな気がした」と。(THE BODYの場合は自己受容感覚がハタラクので、「なんとなく」誰かに手を動かされたということはない。)

さて、それ(内的なハタラキ)は二、三秒前、ある人に言われたこと(きっかけ)が原因なのだが、あなたにはそのつながりがわからない。自分の感情と結びつけずに、こんなことを言うわけである。「なんとなく(THE BODYの場合は上述)心の奥(阿頼耶識→末那識)で感じるんだ。私が怒るのも当然だというしるしだろう」。あなたは怒りを正当化するためにその感情を用いてこう言う。

(実は他人に手を動かされているようなものなのに)「こんなふうに直観がひとりでに生まれてくるのは、私が何かに気づいているからだろう。つまり、私の怒りは正当だということだ」。そして、こういった(あまりまともでない)思考から(あまりまともでない)、感情が生まれてくるといった形で延々と続いていく(現行熏種子⇄種子生現行)。人は自己受容感覚がなければ、思考を正しく理解できないのである。

(即時ではなく)のちにこうした状態を理解できると、あなたは言うだろう。「あのようになったのは、私の思考が原因だ」と。だが、その頃にはすべてが混乱状態になっており、思考をすぐに引き出す事ができない。

一方、もしも思考に自己受容感覚があれば、あなたは即座にこう言うはずだ。「私には考えようという騒動(見分)があった。そしてあること(相分)について考え、その結果、怒りの感情が生まれた。怒りが生じた原因をそう考えると(自証分)、すべての意味が通じる」。

しかし、怒りが思考から生まれたのではないとあなたが感じていれば、(以下間違った認識)現実をそのまま認識したものとして暗黙(阿頼耶識)のうちに受け取る(現行熏種子)だろう。そして、こういった(あまりまともでない)思考から、(あまりまともでない)感情が生まれてくるといった形で延々と続いていく(現行熏種子⇄種子生現行)。人は自己受容感覚がなければ、思考を正しく理解できないのである。

思考の自己受容感覚は、自発的に生まれる可能性があると私は考えている。肉体(THE BODY)の場合と同様に、心(八識説)にも自己受容感覚(四分の教え)が存在するかもしれない – 暗黙的なプロセス(阿頼耶識⇄末那識)の中に自己認識があるということだ。それがまさに心の本質(八識説)かもしれない。しかし、(八識説は)非常にとらえどころのないものであり、ずっと(後述のラスベガスの明かり=見える世界に)抑制されてきた。

さもなければ、人はこんなふうに言っただろう。「確かに、ここには恐ろしくて不快なイメージを作る思考が働いている。だが単なるイメージだから、まったく重要ではない」。ところが、こんな言い方をされているのだ。「そんなことを考えないようにしなくては」。または、起きていることに気づきもしない場合もある – あなたは、そのまま立ち去ってしまうだけだ。対象に専念できないのである。何が起きても、注意が他にそれるか、忘れてしまうかということになる。人は絶えず忘れており、麻酔をかけられたようにぼんやりと曖昧な感覚を抱いている(しかし暗黙のうちに阿頼耶識には全て熏習されゆく)。つらい思考をせずにすむよう、脳がそういう状態を生み出しているからだ- 人がとても不快な思考をしないように脳は守っているのである。

最も重要なのは、肉体のプロセスが運動(ハタラキ)であるということだ。それは衝動とともに始まり、結果が出るまで(自動的に?)進み続ける(目に見える因果の法則)。発達していく様子が感じられるだろう。

さて、思考もやはり運動(ハタラキ)である – もし思考がプロセスだというなら、運動(ハタラキ)であると言っていいはずだ。しかし、思考は自分自身を運動(ハタラキ)としてとらえず、真実としてとらえている- ただそこに存在し、物事の姿を教えているものである。、と(間違った認識をしている)。

原則として、(禅定や瞑想などを通して)思考の運動(ハタラキ)は自己認識(四分の教え)できるが、混乱状態が続いている場合は認識できない。それはまるで、宇宙を見る上で障害になっている、ラスベガスの明かりのようだ。そんな明かりがこの世で最も重要なもののように思えるかもしれない。あまりにも強烈すぎて、意識がそれで満たされてしまうからである。しかし、ごくかすかにしかわからないもののほうが、もっと重要かもしれないのだ。

この点において、いくらか目を開かせてくれる考え方が他にもある。それは思考を反射作用(ハタラキ)のシステムとして見るというものだ。反射作用とは、ある出来事(きっかけ)が起きたときに、別のものが自動的に(無意識に、心の深層-末那識阿頼耶識で)起きる(ハタラク)ことを意味している。反射作用(ハタラキ)にはさまざまなものがあり、条件づけができる。たとえば犬には、餌を見たときに唾液を出すという反射作用(ハタラキ)がある。パブロフは犬に餌を見せながらベルを鳴らすという実験を行った。それを何度も繰り返すと、しばらくするうちに犬は餌を見せられなくても、ベルの音を聞いただけで唾液を出すようになった(「餌」とはもはや関係ない(きっかけがない)にも関わらずハタラキを起こしてしまうようになる)。それが条件づけの基本形だ – 何かを何度も繰り返すということである。

反射作用(ハタラキ)の条件づけは四六時中見られるだろう – 我々が物事を覚える場合の大半は、条件づけされた反射作用を作ることから成り立っている。人は車の運転を覚えるとき、それに合うよう、自分の反射作用に条件づけをしようとするのである。

初歩的な思考は、一連の反射作用という形をとっているかもしれない。もし、誰かに名前を尋ねられたら、あなたはたちどころに答えるだろう。それは反射作用である。もっと難しい質問になると、心は(深層で)答えを求めて記憶(阿頼耶識)の中を探る。「探究反射」が作動するのだ – (八識説では)心は記憶(阿頼耶識)の中を探りふさわしいと思える(末那識を通して)答えを探す。すると答えが(第六意識に)現れて、あなたはそれが適切か否かを判断できる。こうした全体的なシステムは、一連の反射作用(ハタラキ)であると考えられる – 思考とは、限界がないと思われる、反射作用(ハタラキ)の非常に精妙な組み合わせだと。人は反射作用(ハタラキ)にさまざまなものをつけ加え、修正もできる。完全に論理的なプロセスでさえ、ひとたび記憶(阿頼耶識⇄末那識システム)に関わると、一連の(完全ではない?)反射作用になってしまうのだ。

そうした(完全ではない?)状態を私は「思考」と呼びたい – それには情動、肉体の状態、身体的反応など、あらゆるものが含まれている。

そして、思考は物質的なプロセスの一部である。思考は脳の中に、神経系に、全身に発生する – すべては一つのプロセスなのだ。思考は、ラジオの電波やテレビ、文字などの物質的なプロセスによって伝えられる。

会話においては、発せられた声が思考を伝達する(トム・アンデルセンの線画を想起)。体の中では、神経系のシグナルによって思考が伝えられる。そこにはなんらか(曖昧)の基準があるが、あまりよく解明されていない(曖昧)。思考とは物質的なプロセスであると私は考える – 思考自体が反射作用を持っているのだ。

もし、(なにかにおいて)これが真実だという洞察や認識を持っていれば、あなたは実際にその(あまりまともでない)影響を受けるだろう。そうした洞察や認識は、あらゆる反射作用を含んだ物質的なプロセスにかなり(あまりまともでない)影響を及ぼすかもしれない。しかし、起きている事象に関する我々の知識が、知的な、あるいは推論的なものにすぎなければ、あまり(まともでない)影響を与えないであろう。

(ボームは物理学者でありながらも)物質とは非常に曖昧なものなのかもしれない。科学はそのすべてを解明していないし、おそらく解明することはないだろう。しかし物質とは単に機械的なものでもないのだ(機械的なものに加えて霊的なものでもある?)。したがってそれは、科学ではたどれないかもしれない。(シュタイナーは見えないものが見えているという立場から自由の本質を論じているように思う。例えば、「本当の自我(阿頼耶識=宇宙)は存在しても自我意識(末那識や第六意識)は存在していない」(自由の哲学)という表現は、ボームのいう思考や感情は存在していないものであるという風にも読み取れる)

非常に深遠かつ巧妙な方法(禅や瞑想か)で認識に対応できるだろう。そこには変化が起きるはずだ。こんな概念が成り立つ。すなわち、洞察や認識はあらゆるものに影響を及ぼすだろうというものだ。これは推測に基づいた理解に影響するだけでなく、科学的なレベル、暗黙的(霊的)なレベルにも影響する – すべてに影響を与えるのである。(このように自己受容感覚が失われていることの自覚がないまま自動的に反射作用(ハタラキ)を起こしていることを自ら覚ること=さとりが大切と思われる)

洞察という可能性が人にあることは重要な点だ。仮にこう自問したとしよう。「思考が物質的なプロセスだとか、常に認識に関与するとかいう洞察を、我々は持っているのか?」。もし、そんな洞察を持っているなら、ある程度の障害は取り払われるだろう。(このような洞察や自覚が持てないなら障害は在るまま取り払われることはない)

しかし、人の一連の反射作用(ハタラキ)や暗黙知(阿頼耶識⇄末那識)はそれに反対して、こう言っている。「思考とは物質的なプロセスではない」。人は最初、こんな反応をするものだ。「思考と物質ははるかにかけ離れたものだ(普通一般の感覚)。とにかく物質とは分離されている。思考にはなんらかの精神的な真実か意味があるのだ」。こうした概念は反射作用(ハタラキ)として、人の中に条件づけられてきた。(前述のパブロフの犬を想起)

しかし、ここで私は、「思考とは物質的なプロセスであり、認識に関与している(この章を使って言いたかったこと)」と言いたい – つまり(結語)、思考が物事の状態を語るだけだという概念は、あまりまともな見方ではない(という自覚が欠けている)のである。この洞察を得られれば、あるいは「思考に自己受容感覚的な性質はないが、それを必要としている」と洞察できれば、反射作用(ハタラキ)をつかさどる脳のシナプスに影響が現れ始めるはずだ。(本書はこのあと7章・参加思考と無限へと続きます)

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以上、唯識的考察でした。読んで(←きっかけ)頂いてそっかと思った人、そうか?と思った(←ハタラキ)人は、あなたのご意見をお知らせ下さい。(ハタラキ合い、合い照らす)

では、具体的に我々はどうすればよいのか。西田幾多郎の純粋経験を出発点として「自覚」の立場を経て辿りついた「場所の論理」の「自己を映す鏡」や、トム・アンデルセンの線画や会話哲学に見られるように、ハタラキを映し込み合い「個=自我を包む場」づくりを通して観察を深めていく。相手は何をきっかけにどんなハタラキをしているのか、それを観察した私の中ではどんなハタラキが起こっているのか、それを合い照らし、映し込み合い、相手の中に新しい自我を見つける。

そのような「場」を「チイキ」の中に創出できれば、

最後に「プシコナウティカ/松嶋健著」の終章「生きているものたちのための場所」1「地域とはなにか」を紹介したいと思います。

国家と個人の<あいだ>、集団と個人の<あいだ>

ここまで、イタリアの精神医療と精神保健をめぐって、その歴史的な経緯、精神医療からの精神保健への転換の背景にある批判的思考と実践、精神病院から地域への移行において生じたこと、現在の地域精神保健サービスの日常において行われている種々の活動と実践を見てきた。そこから浮かび上がってきたのは、<地域>の決定的な重要性である。

それは、ことが狭い意味での精神医療の問題ではないということであり、精神疾患の当事者にのみ関わる問題ではないということもできる。彼らが置かれている状況は、現在の社会を生きるなかで多くの人が感じているであろう生きづらさや居心地の悪さと同じ根に由来している。それは、精神と身体を分離し、経験というものをあたかも内的で主観的な、それゆえ個人的なものであるかのように扱う考え方と深い関連がある。

ボーム、唯識、シュタイナー、トム・アンデルセン、西田幾多郎、プシコナウティカと、会読会に参加頂いた皆さんの声をもとにさせて頂きました。心から感謝いたします。

「ダイアローグ/デビッド・ボーム著/英治出版2007年刊

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