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デビッド・ボーム Dialogue6章前半

Dialogue 第六章 「唯識的解釈()内」

SUSPENSION THE BODY AND PROPRIOCEPTION
保留、肉体、自己受容感覚

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タイトル SUSPENSION(suspendere は「吊り上げる、吊るす、中断させる」という意味であり、sub の同化形「下から上へ」という意味(sub- を参照)と、pendere「吊るす、吊り上げる、重さを量る」(PIE 語根 *(s)pen-「引く、伸ばす、紡ぐ」から派生)から構成されています。) が「保留」と訳されているので、文中の「保留」はSUSPENSIONの意で読むことが大切と思われる。THE BODY訳「肉体」も同様。
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我々(ボームとここまで読み進めてきた読者)は、自己(主体)の裏(不可視の深層)、もしくは観察者(周縁)の裏にある、全体のプロセス(八識説)の本質(意識下の末那識)をさらに深く(阿頼耶識)探ろうとしている。

一般的な問題 - 聞くこと(耳識)においても、見ること(眼識)においても -は、仮に人が「聞き手」(前五識と第六意識)を通じて聞いた場合、実は(毫も思慮分別を挟まずに)聞いていることにならない(=有りの儘を聞いていない)点である。

それは自分の中のある部分(仮に阿頼耶識か末那識とする)が数歩退いて、残りの部分(第六意識)に耳を傾けている状態なのだ。もし、聞き手(前五識と第六意識)がいなくても、(毫も思慮分別を挟まずに有りの儘を)聞くという行為が存在するなら、観察者のいない観察という行為もありえるだろう。

状況によっては誰もがそんな行為をしている(以下がそんな行為)人は行動を起こすが、その間の自分自身を(観察者のいない観察という行為がありえるのに)観察していない。ただ行動しているだけである。しかし、そうした行動をするのが困難だと気づく場合がいずれ出てくる。より深い観察を行うのに必要なものは何か、という疑問がわいてくるのだ。「(前五識と第六意識で)見る人」がいなくても自分自身を見ることができ、「(前五識と第六意識で)聞く人」がいなくても自分自身や他人の声に耳を傾けられるように。

まず、我々はこうした問題をめぐって、どんなもの(以下に正体が示される)を見ようとか聞こうかとか思っているのか?

たとえば、攻撃的な性質や反抗心を持った人がいると仮定しよう。(京アニを想起する)

もし攻撃的な人なら、その性質は最初、行動に現れる – 体や言葉で表現されるか、しぐさや表情に出るかもしれない – だろう。なんらかの形で行動に示されるはずだ。さて、そのような行動をとっているとき、彼は自分の行動についてわかっていない。自分が攻撃的になっているとは思わず、こう考えるだけだ。「私は正しい」、あるいは「私は攻撃されたのだからこうすることが必要なのだ(こうするしかなかった)」と。自分の行動が攻撃的だとは感じないのである。やがてある時点で、彼は何が起きているかに気づくかもしれない。そしてこう考えるだろう。「私は攻撃的になっている。それではいけない」。そう考えて行動を抑えても、その人は自分の意志に反してなおも攻撃的である。つまり状況は変わっていない。攻撃性を観察している人は、攻撃的な性質で満ちている。したがって何の変化も起きないのだ。

別の反応(ハタラキ)をあげてみよう。それは攻撃的になるのでもなく、攻撃性を抑えて自分の意志に逆らうのでもない(前述の例の逆)。攻撃的な行動を保留(というより SUSPENSIONの意)しておく、というものである。(阿頼耶識→末那識→)行動が現れて花開き、進展していくに任せるのだ。すると、その攻撃性の姿や、自分の心の中での真の構造(八識説)がわかるだろう。

あなたの中では動きが – 肉体(THE BODY)的な感覚が – 発生する。鼓動や血圧、呼吸の仕方が変化し(体のイタミ=前五識の身識の変化)、体が緊張状態を覚えるだろう。このような感覚とともに、思考も生まれてくる。あなたはこうした状況を観察したり、認識したりできるし、それぞれのつながり(八識の浅⇄深)を理解出来るはずだ。

通常、このような感情と肉体的な反応(前述の-あなたの中での動き)はすべて一つのものとしてとらえられる。そして、思考はそれと別の無関係なものだと思われている。しかし、つながり(八識説)を認識するにつれて、感情や反応および思考が、別個に存在しているわけではないことがさらにはっきりとしてくるだろう。

このような保留(SUSPENSIONの意=吊り下げて客観的に周縁から、メタ的にながめる)という行動を、人はあまりとらない。行動としてはありえそうに思われるが、(ボムーと読者の我々を超えて)人類はそうした方向にさほど進化してこなかった。むしろ、迅速な反応という性質を身につける方向(産業革命以来の生産性の向上?)に進化してきたが、それは暴力行為に好都合なものである。たとえば、あなたはよく、暴力的な反応にはあとで報いがあると考える状況に置かれるかもしれない。または、こんな言い方をすることもあるだろう。「暴力的になるべきではないと世間では言われている。だから、そうならないようにしよう」。しかし、その間、あなたを暴力的にさせる思考は働きつづけているのだ。
いずれにせよ、何の進展もないだろう。
その結果、暴力は絶えず増え続ける傾向にある。暴力的な思考は記憶(阿頼耶識)の中に「プログラム(現行熏種子)」されている。あなたが暴力的になればなるほど、暴力に関するプログラムが残され(熏習)、ますます暴力的性質がひとりでに現れるようになるのである(種子生現行)。それが主たる要素だと私は考えている。遺伝的な要素も存在するだろう。人は、力を振りかざして反応しがちかもしれない。そんな行動は保留(SUSPENSION)すべきなのだが。

とにかく、ジャングル(前項の人類に対しての自然)の中でさえ、常に力が求められるわけではない。それどころか、殆どの場合は暴力行為を保留状態にすることが求められ、暴力がふるわれるのはまれである。ジャングルで生き延びるためには、保留という行為を覚えなければならないのだ。

保留のプロセスでは、二つの点にきづくかもしれない。

一つ目は、肉体(THE BODY)的な反応が思考によって生まれるということだ。したがって、思考によって生まれなかった肉体的な反応は、意味のあるものではないだろう。もし、体がひどい興奮状態にあるとしても – 何か行動を起こすべき理由の一つに思われるが – あなたが考えていたほどの意味はない。

二つ目は、思考が感情に影響を及ぼし、感情が思考に影響を及ぼしているという直接的な証拠が、「自分」を通さなくても得られることだ。(以下に説明?)

通常、思考と感情、行動とをつなぐ唯一のものは、人の中心にある「存在」(阿頼耶識=宇宙?)である。「存在」がそれらすべてに関わっているのだ。- これはあらゆる物事がどう関連するかについての一つの考え方で、この「中心にある存在」が非常に重要だと感じられる理由を示している。すべてのものがその人間の中を通っていく。この本人がさまざまなものの源泉であり、中心なのだ。

しかし、実際は、思考と感情がそれぞれ別のプロセスとして動いている証拠がみつかるだろう。(前述:通常はすべて一つのものとしてとらえられる。)それらは「私」の中を通過していない。「私」が生み出したものでも、経験したものでもないのである。

とはいえ、全体的なシステムの中に作られた、いわゆる自己指示という概念は存在している。それは「自己受容感覚」とか「自己認識」と呼ばれる。(以下THE BODYを例に出す)

肉体(THE BODY)は自分でその一部を動かせば、たちまち気がつくものだ。もし何か外部からの力によって急に腕を動かされたら、自分で動かした場合と違うことがわかるだろう。(以上は身識の例。このように外部からのきっかけでの第六意識・思考がはたらいていることを見抜けるだろうかと以降問われてくる)神経はそうした点を見抜くように作られている。

これと関連するが、眠っている間に脳卒中の発作を起こし、誰かに攻撃されていると思って目を覚ました女性の話があった。明かりがついてみると、その女性は自分自身を殴っていたことがわかった(京アニを想起)。

彼女の感覚神経は損傷を受けていたが、運動神経は無事だった。そのため自分で自分を殴っていることを知るすべがなかったのだ。結果として、彼女は誰かに殴られていると推測し、「攻撃者」に抵抗すればするほど、自分を打つことになった。このように、体には自己受容感覚というものが存在する – 体から発生する行動と、外部から発生する行動との区別が、機能的な違いとして認められるものだ。この観点からすると、中心としての自己があり、体が行動の中心であるという概念は妥当である。どうやら動物もこのような考え方をしているらしく、そうした識別ができている。したがって、「私」という概念がすべて間違っているわけではない。さもなければ、この概念は生まれなかっただろう。

問題は、このように自然で有益な識別が、自我という矛盾へ変わった理由である。正しくて有用なものが、なぜか間違った方向へ発展してしまったのだ。

自己受容感覚が思考から失われ、人は(へり又はメタから)思考を観察することをなんとか学ばねばならなくなっている。体を観察する状況においては、とにもかくにも観察がおこなわれているだろう – 明確な観察者がいるという感覚はなくても。

だが、思考も同様に観察できるであろうか?注意を払うことによって、思考というものの別の感覚を呼び覚まし、状態を見るのは可能だろうか?(保留状態にはできるのである)

それができれば、思考には自己受容感覚が備わるかもしれない。思考がどう働いているかを自覚することになり、混乱は生まれないだろう。もし、人が外部に対して体を動かしているときに、それを自覚しなければ、すべてがうまくいかなくなる。(と同様に)また、思考が自分の働きをわかっていなければ、多大な混乱が生じることは明らかである。そこで、さらに先を見てみよう – まずは(先に)、保留(SUSPENSION)ということについて、それから(次に)自己受容感覚について述べたい。

ここで、もう一度強調しておこう。

怒りや暴力、恐怖 – こうした感情はすべて保留(SUSPENSION)状態にできるのである。もし、怒りを保留(SUSPENSION)状態にすれば、そこには怒りを働かせ続ける、ある種の思考(源泉としての末那識)や想定(記憶としての阿頼耶識)が存在することがわかるだろう。そのような想定などを受け入れると、あなたは怒り続けたままになる。または、こんな言い方をするかもしれない。「私は怒るべきではない。実を言えば、怒ってなどいないんだ」。すると、怒っているという認識を失いながら、なおも怒り続けることになる。それは認識を抑えることである。あなたは依然として暴力的だろう。求められているのは、怒りの認識を抑えることではなく、怒りをこらえることでもあらわにすることでもない。

むしろ、不安定な地点 – ナイフの刃の上のように - (不確実性のこと?)の真ん中に、怒りという感情を掲げておく(SUSPENSION)のがいい。あらゆるプロセスが見られるように。そうした行動が要求されているのだ。

そこで最初の問題は、行動を抑制せずに、保留(SUSPENSION)することが可能だろうかという点である。もしそれが不可能だと思うなら、抑制する気持ちを抑えないで、そのプロセスを観察してみよう – つまり、「抑制していないのだ」と、自分に言い聞かせずに観察するのである。行動を保留(SUSPENSION)状態している、いわゆる観察者が存在することにも気づくかもしれない。そして、目の前に掲げられた行動を観察してみよう – 行動を保留(SUSPENSION)しようとしている努力の存在が観察できると思う。

重要なのは、こうした行為に何の公式もないことである。私はいかなる公式も処方薬も勧めているわけではなく、(末那識・阿頼耶識への)探求への旅に出発するうえでの要点を述べているだけだ。この探求の道がどこへ向かうのか、正確に語ることはできない。あなたはおそらく、行動が勝手に発生するのを止められないと気づくだろう。しかし、その後、自分が別の行動をとっていることに気づき始める。そして、ある段階で、どうにか行動を保留(SUSPENSION)状態にできるだろう。その時点で、保留状態の行動をみることができると自覚するはずだ。

行動を保留(SUSPENSION)するためのもう一つの方法は、怒りを爆発させ、それを落ち着かせるというものである。爆発した怒りは静まるだろうが、なおも存在している。もっと重要なことが起こるからと停止状態にしたとしても、怒りはまだ消えず、表に出てこようとしているのだ。

その時、怒りの原因になった言葉を探し出して、わざと怒りを呼び起こそう。そして、実際に現れた思考をよく調べてみる。強い力を持つ思考が表れたら – 誰かに脅かされたり、傷つけられたりして、「私は傷ついた」とあなたが言ったとしたら – 何が起きているかを見てみよう。これはもっと力の弱い思考を眺めるよりも、ずっと骨が折れる行動である。

傷ついたという気持ちの裏には、「私は傷ついていない。とても気分がいい」と言っている、以前の思考が存在する。すべてはある種の感情によって成り立っている。つまり、「友人たちは私をこう思っているに違いない。これは、こんなふうだろう(などなど)。だから、私はとてもいい気分でいられる」といったものだ。そうした感情が背景にある。それは自覚されていないが、確かに存在する感情なのだ。そこれ誰かがこんなことを言うとしよう。

「君は愚か者だ。まったくいいところがない」。こうして入ってきた新しい思考は、これまでと正反対の不快な感情を生み出しショックを与える。最初のうち、あなたはそれが何なのかわからない。よく見てほしい。ショックを受けた気持ちの裏には、「いったい何が起きたんだ?」という思考がある。あなたはこんなことが珍しくもない出来事だと見なし始める。傷つけられたのだと、自分に説明する。それ説明は痛みという形で表される。自分にとってきわめて重要なことだったため、痛みもかなり大きい。以上のようなことがすべて瞬時に怒る – 据えられた機械装置が爆発を起こすかのごとくに。実際に起きたときにこうした状態を観察できなければ、あとで観察してもいい – 思い返してみよう。言葉にして思い返すのだ。すなわち、自分が傷つけられた言葉を検討し、何が起きたかを考えるのである。

あなたは初めに傷つけられたのと同じ言葉に、ふたたび傷つけられることに気づくだろう。それがどのように起こるかはわかるはずだ。状況に付随するさまざまな思考が、こんなふうに表れてくるだろう。「私は彼を信じたのに、裏切られた」。「僕はすべて与えたのに、彼の行動ときららこのざまだ」。このような思考は数え切れないほどある。今の状況を表す言葉を探し、そうした言葉がどう働くか(きっかけとしての言葉による内的ハタラキ)を見るべきだ – 目的は言葉の内容を調べることではなく、言葉がどんな影響を与えるか(どんな内的ハタラキが起こるか)を見ることである。

苦痛について考えることとは、苦痛が「外部」にあるという意味であり、まるでテーブルでも作るかのように、それについての抽象概念を作ることだ。したがって、自分が何かをしているわけではない。なぜなら、苦痛はテーブルのようなものと違うからだ – それは「自分」なのである。

もう一つの、苦痛そのものを考えることのほうは、思考を調べ、思考が生むものは何であっても、生まれるに任せる行為だ。つまり、抑制したり行動に移したりせず、体や意識の中に思考をそのまま置くという意味である。どの方向にも進まないように行動を保留(SUSPENSION)し、ただ思考が現れるに任せ、それを見守るということだ。

自己受容感覚の意味をより明確にするため、まず「一貫性のあること(コヒーレンス)」と「一貫性のないこと(インコヒーレンス)」について、さらに思考の暗黙的なプロセス(末那識?阿頼耶識?)について、語ろうと思う。

インコヒーレンスとは、意図と結果がかみ合わない状態である。行動が期待通りに運ばないことだ。そうなると人は矛盾や混乱を感じ、インコヒーレンスを隠すために自己欺瞞を行う。知識は完璧な存在ではないから、避けることが無理なインコヒーレンスというのも中にはある。どんな知識も抽象的概念であるため、限界は免れないだろう。知識とは、その時点までにあなたが学んだ事柄から成り立っているにすぎない。(過去の現在化)このように知識には限界があるため、一貫性のない(インコヒーレント)存在になる可能性をはらんでいる。知識が適用されたとき、人が知識に従って行動したときに、インコヒーレンスが姿を現す。または、知識を通じて何かをしようとした場合にも。

もし、あなたがしかるべき態度をとれるなら、こんな言い方をするだろう。「わかった、一貫性がないことを認めて、過去の知識は忘れるよ。状況を調べさせてくれ」。そして悪い点を探し出し、それを変えるはずだ。しかし、もしも自分の知識を守ろうとすれば、見当違いの方向へ進むことになる。守るべき理由がないのもかかわらず、人は知識(過去の現在化)を守ろうとすることが多い。

一方、コヒーレンスには秩序や美、調和が感じられる。

だが、そのようなものにしか目を向けない人はともすれば自分をごまかすことになり、すべてが順調に動いていると言いがちである - 何もかも秩序が保たれ、調和が取れて美しい、と。そこで、インコヒーレンスという「ネガティブな」感覚が必要になるのだ – それがコヒーレンスへ通じる道なのである。もし、ある人がインコヒーレンスに敏感であれば、その状態を認識し始め、やがて原因を探し出すだろう。コヒーレンスが我々に多大な価値をもたらすのは明らかである。そうあらねばならない。インコヒーレントな機能というものは実に危険だからだ。

それに加えて、なぜか人はコヒーレンスを好むようにできている。それは人生の一部なのである。もし、人生があまりにもインコヒーレントな状態なら、さほど価値がないように感じられるかもしれない。すなわち、人には生来の価値観というものが備わっているのだ。しかし、それが混乱した状態になってきた。長年にわたって発達した結果、思考はインコヒーレントな価値観を生み出しており、そのせいで我々は混乱している。

つまり単にコヒーレンスを強要しようとするだけで、インコヒーレンスを探し出して、取り去ろうとはしない。これは一種の暴力といっていいだろう。その結果、インコヒーレンスがさらに広がることになる。

コヒーレンスへの動きは人間本来のものと思われるが、思考のせいで混乱させられている。きわめてインコヒーレントな反応は、記憶のプログラム(阿頼耶識)の中に存在する。それをどうやって突き止めたらいいのか、どんな意味があるのかはわからない – そして時が経つにつれて、状況はいっそう込み入っていく。コヒーレンスには心の全プロセス(八識説)が含まれている – 思考の暗黙的なプロセスも。したがって、本当に重要な変化は思考そのものの、暗黙的で具体的なプロセスの中で起きなければならない。抽象的な思考の中だけで起きるのではだめなのだ。

実を言えば、この暗黙的で具体的なプロセスとは知識のことであり、コヒーレントかもしれないし、そうではないかもしれない。たとえば自転車に乗る場合だが、あなたが自転車の乗り方を知らなければ、それに関する知識は正しくない – つまり、自転車に乗ろうとする状況での暗黙知はコヒーレントではなく、あなたは意図した結果を得られないというわけである。インコヒーレンスであることは明白だ – 自転車に乗りたいと思っても、あなたは転んでしまうのだから。物理的には、行動が生まれるところに暗黙知は存在している。そして身体的な変化は、暗黙的な反応がどう変化するかにかかっているのである。

したがって、抽象的な思考を変えることは第一歩だが、それによって身体的な反応も変わらない限り、充分ではない。こんなことを言う人もいるだろう。「君のやり方は正しくないよ。間違った方向に曲がっている。転びかけているほうへハンドルを切るべきなのに、とっさに逆のほうにハンドルを切っているじゃないか」。こうした助言はどれも役立つだろうが、いずれ暗黙的な部分に入ってこなければならない。あなたは実際に自転車にまたがってみた経験(きっかけ)により、必要な暗黙知を得ると、これまで持っていた知識をいわば修正する(過去の非現在化)。その暗黙知の中のある流れが、あなたが目的としていた方向へ動いて(ハタラキ)結果を出す。そうした動きが継続していき、目的の方向へとさらに向かう。そんなふうに暗黙知は学習していき、あなたはいつの間にか自転車に乗れるようになるのだ。理論的な裏付けも指針になるだろうが、人には暗黙知も同様に必要である。

ここで疑問が生まれる。自転車に乗る場合と同じようなことが、思考においても可能なのか?

思考- 考えること – は、実を言えば自転車に乗ることよりももっと実態をとらえにくい、暗黙的なプロセスだろう。思考に具体的なプロセスは、非常に暗黙的なものだ。暗黙的なプロセスの中で生まれる実際の段階において、思考は一種の運動(ハタラキ)である。原則として、その運動(ハタラキ)は自己認識できるだろう。思考を自己認識することが可能だと、私は考えている – 運動している(ハタラキの)具体的な実際のプロセスを、思考は自分で認識できる。それを認識している「自己」を持ち込まなくても。

「自己受容感覚」とは専門的な言葉である- これを「思考の自己知覚」や「思考の自覚」、または「思考は自分の活動を認識している」と表現してもいいだろう。どんな言葉を使おうと、私はこう主張したい。

思考は自身の運動(ハタラキ)を知覚し、自分の運動(ハタラキ)を認識できるはずだ、と。思考プロセスには、そうした運動の認識や考えようとする意図、考えることによって生み出される結果が存在すべきである。さらに注意深くなれば、自分自身の外で思考がどんなけんかを生むかに気づくようになるだろう。そして、自分の中で思考が生み出す結果にも気づくかもしれない。おそらく、(第六意識での)思考が(前五識の)認識にどんな影響(ハタラキ)を与えるかということも、即座にわかるようになるだろう。

もし、あなたが体を動かせば、動かしたことにたちまち気づくはずだ。それは意識的な認知ではなく、ほとんど無意識の認知である。体を動かしたのは自分であって、他のものによって動かされたのではないとあなたにはわかっている。体を動かそうという衝動と、動かしたこと自体との間に覚識(アウェアネス)があるのだ。

物理的に言えば、思考が働かなくても、また何も考えなくても、人は動いたとたん、行動の結果を知っているべきである。反応に時間のずれがないように。もし動いてから結果がわかるまでかなり時間を要するなら、体はうまく機能しないだろう。これは生存のために必要不可欠な要素である。このように、肉体の動きには自己受容感覚が備わっている。そして、それは向上させることが可能だ- 運動選手やダンサーは自己受容感覚を向上させることを学んでいる- が、誰にとっても完璧な状態というわけではない。なぜなら、多くの人は自覚を持たずに運動しているからである。だが、自己受容感覚は確かに存在しているのだ。

思考についてはどうだろうか?

あなたは考えようとする衝動に襲われる。そして思考が発生し、あらゆる事態が起きる – つまり「感情」が発生したり、体が緊張したりする。しかし、思考とそうした事態とのつながりがわからなければ、自分で自分を打っていても、誰かに殴られていると思った、あの女性と同じだろう。彼女は行動を起こしたのに、思考にはそれがわからなかった – 他の誰かの行動だと思ったのだ。そのように誤ったとらえ方をされたつながりのせいで、世の中のすべてが変わってしまう。たとえば、嫌いな人にあなたが出会ったとしよう。あなたはこう考え始める。「あいつはなんていやな奴なんだ。あいつには我慢できない」。言葉にする必要さえなしに、そういった考えがほぼひとりでに生まれてくるだろう。あなたは胃に痛みを感じ、こんなふうに言う。「胃の調子がなんかおかしいようだ」。心拍数が変化し、他にも変化が現れるかもしれない。自分を傷つけ、まったく敬意を払ってくれない人のことを思うと、あなたは感情的になるだろう。そしてこう言うのだ。「心の奥で何か直観が働いている。これは根拠のあることに違いない」。そのような状態こそ、思考において自己受容感覚が失われたことを示している。

(トム・アンデルセンが言う、「僕らは話すときにまず自分自身に話すよね」という感覚が失われているので、自己受容感覚取り戻す為の言語活動でもあるのかも)


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