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ほのぼの生きる  097_20230421

忘れ物は事故につながる

昨日は、父方の祖母の命日で、久しぶりに父と電話で話をした。
実家の母とは1週間に1回は話をするのだが(電話をかけないと拗ねる。寂しいを超えて怒る。なかなかやっかいな人である)、父とはほとんど話をしない。
父の様子は母から聞いているので安心はしているが、電話の向こう側に確実にいるはずなのに、なぜ代わろうとしない。娘の方が寂しいぞ(あっ私が代わってって言えばいいのか。そういうとこ、母と似てるぞ!)。

というわけで、父と電話で話をするのは年に数回。
めずらしいから、今日は父との思い出を書いてみようと思う。

ちなみに、うちの父はとっても静かな人で大人しい。でも内心はとてもひょうきんで、面白いことを言っては私たち子どもたちを笑わせてくれていた。私たちが笑う前に、自分が面白いことをいって先に笑っちゃうものだから、つられて笑ったと言った方が正解かもしれない。そんなお茶目なところがある。
こういうところが夫(うぉんばっとくん)にそっくりだ。

私はおじいちゃん子で祖父のことが大好きだったが、結婚相手には絶対に祖父のような人は選ばないと思っていた。案の定、父に似た人を選んだ。

夫は、自分はおじいちゃんの代わりだと思っているらしいが、どう見たって父に似てるよ、あなた。おじいちゃんには全く似ていない。強いていえば、お料理が得意で私の生命維持装置(食べ物がかり)であるというところかな。

そんな父との思い出だが、これまた苦い思い出である。

あれは小学4年生のある日、私はいつも着ているジャンパーを学習机の椅子にかけたまま、別の上着をはおってでかけてしまった。
そのジャンパーには名札がついていた。
洋服に名札をピンで刺して登校するのは学校の決まりごとで、名札をつけていない生徒は誰もいなかった。いわゆる「忘れ物」だ。

私は割と手のかからない子だったと自分では思っている。
周りのみんなはどうやって次の日の支度をしていたか知らないが、両親は私を基本的に放置していた。時間割を見て教科書を準備するのも明日着ていく服も自分で準備して行くのだが、私は忘れ物が多い子だった。

朝の学活が始まるまで、私は体育館でクラスメートとボール遊びをしていた。
チャイムが鳴り、教室に戻ろうと廊下を歩いていると、廊下に人だかりができていた。
大勢が並ぶ廊下の隙間からなんとか皆が騒いで眺めているものを確認した。

車が横転している。正確には、用水路に片方が突っ込み、斜めに落ちていた。
うん?あれは???
そう、うちの車と似ていた。でもその時はまさか自分の父が運転している車が、学校の正面玄関まっすぐに向かっている道の用水路に落ちているなどと思うはずもない。

担任の先生が、私を呼び出して、私が忘れてきたジャンパーをそっと前に出した。
「あなたが忘れ物をしなければ、お父さんは事故を起こすことはありませんでした。いいですか」
と厳しく私を指導した。

私は何を言われているのか、よく分からなかった。
父は今日は仕事のはずだ。学校に忘れ物を届けに来るはずがない。
あの車はうちの車のはずはないし、父のはずもない。

先生に怒られている「忘れ物」のことなどどうでもよかった。
ただ、私は確かに横転していた車を見たということ、目の前に忘れてきたジャンパーが届けられていること、でも父はいない・・・

その日は父はたまたま仕事を休んでおり、ジャンパーの忘れ物に気がついた祖父が届けてやってくれと父に頼んだのだそうだ。
用水路にはまったのは助手席側で、大きな衝撃もなく、父は怪我もせずに、運転席からおりて、歩いて学校まで来てジャンパーを届けてくれたとのことだった。
私には会わずに、レッカー車を呼んだりして、放課後には車はなくなっていた。
お昼の給食時間にはまだ車があったから、私はその車を目にし、ひどく胸が締め付けられた。父が安全だったのは分かっていたが、その車が朝の衝撃と忘れ物をしたことへの責めを長い間、私に突き付けた。

父に責められた記憶はない。
「心配かけて悪かった」と逆に謝られたかもしれない。
父はそういう人だ。温かい人なのだ。

以後、私は忘れ物をしなくなった。
・・・なんてことはなく、いまだに忘れ物が多い。

でも、忘れ物をした時に、時々、忘れ物をすると大変な事故が起こるということをしみじみと思い出し、反省するのであった。

おわり


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