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祈る群像 |旅のエッセイ/モザンビーク/ベイラにて

 迷い込んだ浜辺で。うだる暑さのなかのモスクで。湖のほとりで。おんぼろバスのなかで。アフリカでそこかしこに見たのは、祈る人々だった。貧しさに、飢えに、不遇に耐えるために祈る人々。アフリカの人々にとって、神はとても近くにいるのに、その光ははるか遠い。 


 わたしはモザンビーク島があるモザンビーク北部から、ほぼ最南端にある首都マプトへ行くために、バスの乗り継ぎをしにベイラへ来た。
 モザンビーク島にいる間に、困ったことにモザンビーク中のネットワーク回線が壊れてしまったので、ATMを使えなくなってしまった。(こういうことはよくあることだ、とモザンビーク人は言っていた)しかもわたしはその前にスリに遭って財布を取られ一文無しになってしまっていた。モザンビーク島で一緒にいたスペイン人とイスラエル人と別れるときに、少しだけ現金をカンパしてもらう。カンパだけでは道中少し不安があるがマプトに着くころにはネットワークが復旧しているだろう、そうしたらカードからお金が下ろせる…と見込んでいた。
 

 ベイラには、モザンビーク島へ行く前にも立ち寄って、数日海岸でキャンプをしていた。モザンビークの港町ベイラは、社会主義国の色を強く残すキューバのような様相の町だった。湿気と熱気のなか、古くくすんだ色をしてヒビが割れんばかりの旧体制の当時のビルがぞろりと建ち並んでいる。ひと気が無く、使われているのか使われていないのかわからないビルを横目に、道端で南国の野菜や果物がそろった青空市が開かれている。海沿いの常夏の街は、格調高いものと貧しいもの、温かいものと冷たいもの、気高いものと卑しいものが混在していて不規律でつかみどころがない。

 ベイラが面するインド洋は、古くからアラブ人たちが行きかっていたのだが、ヴァスコ・ダ・ガマがモザンビークに到達して以来、ベイラは主要な港町として発展した。その結果、アラブ臭のするアフリカに建設されたポルトガル植民地として独特の乾いた風合いの街が出来、そこへ社会主義ふうの見た目の似通ったビル群が乱立したりするものだから、雑多な雰囲気がしてくるのだった。
 
 モザンビーク島から、ベイラへのバスが着いたのは夜中の9時過ぎだった。マプト行きのバスは出発が朝5時とチケットに書いてある。
 モザンビーク島からのバスは、長距離バスらしい大きなリムジンバスだったが、車体下部にははちきれんばかりの荷物を詰め込み、さらに剥き出しでバスの上側にも荷物置き場があって、ロープで縛られたアフリカ柄のバッグがたっぷり積んであった。
 バスはいろんな方面から、ベイラへやってくる。ベイラにたどり着いて、ここからまたちりぢりばらばらに大小・新旧さまざまなバスが発っていく。ベイラは交通網のハブになっているのだった。わたしが降りたバスのほかにも数台バスが来ていて、その中の一台から、ひときわ多い荷物を持つ一行が見えた。

 女性が数人、男性も数人のグループで、女性はイスラム教徒が身につける黒いスカーフ…ヒジャーブを頭に巻いている。一行のリーダーであろう恰幅の良い女性が、運転手にあれこれ指図して荷物を受け取っている。しばらくその様子を見ていると、彼女らはとんでもない量の荷物を持って旅をしているのだった。ひとりあたりだと、大型バックパック5つ分ほど。バスで移動できる荷物の量では、本来無さそうだ。どこかに何かを売りに行く行商なのだろうか?

 ターミナルは小学校の教室ほどの広さだった。外にはタクシーも並んでおり、バスから降りた人たちがどんどん吐き出されて夜に消えていく。ベイラ郊外の家へ帰る人も多いようだった。しかし小さいバスターミナル内は乗り換えを待つ人たちでいっぱいである。ベイラはモザンビークのなかでは都市であるといっても、バスターミナルの一歩外へ出ると、街灯もちらちらと灯るだけで、そこがサバンナであったとしてもおかしくないような暗さなのだ。バスターミナルの外へ出るのは危険そうだ、ここで夜を明かそう。わたしはバックパックを両足で抱え込み、ターミナルの冷たい椅子で眠ろうとした。
 ふいに、バスターミナルのスタッフらしき人が群衆の前で立ち、大声で何かをアナウンスしはじめた。ターミナル内はどよめきが起こる。何か文句をスタッフに言っている人もいるが、スタッフは頑なに拒否している。しかしポルトガル語だから、わたしには何を言っているのかさっぱりわからない。わからない、もう一度眠ろう。
 しばらくすると、ターミナル内からどんどん人が消えていく。ぽつりぽつりとタクシーで街へ消えていく。歩いてどこか行ってしまう者もいる。
 スタッフへけたたましく文句を言っている人物がいた。さきほど見た、イスラムのスカーフを付けた行商のリーダーのような女性である。見ると、顔はまんまるで、目もまんまるとしていてかわいらしい、浅黒い人だった。声は甲高く、主張が激しい。主張の声が張る度に丸いからだとそれに追随して真っ黒なイスラム風ドレスが揺れている。
 どうやら彼女は英語で何か言っているようだ。彼女以外に英語をしゃべる人が見当たらないので、わたしは彼女に状況を聞くことにした。
「あのう、すみません。わたしはポルトガル語がわからなくて、スタッフがなんと言っているか教えてもらえますか?」
するとスカーフの女性はぱっと顔をこちらへ向けて、
「ああ、ひどいのよ。ターミナルを12時で締めるから、出て行けって言うのよ。ターミナルで夜を明かすつもりだったのよ、わたしたち」
と言った。
 ジョイと名乗った女性は、行商ではなかった。9人でケニアから南下しながらバスを乗り継ぎ移動していると言った。引っ越しのようである。
「だから、わたしたち荷物がとんでもなく多いの。ターミナルから荷物を移動させるなんて大変。だからなんとかしてターミナルは開けておいてほしいの。」
9人はおそらく親戚なのだろうと思われた。年齢は20代から30代前半の若者たちで、南アフリカへ行くという。ケニアからタンザニアへ下り、モザンビーク国境を抜けて、ベイラまで下りてきたのだ。彼らはスワヒリ語で会話をしており、英語を喋ることができるのはリーダー格であるジョイだけだった。(英語を操るからリーダーの仕事をしているのかもしれない。)
 わたしは自分の手持ちにモザンビークの貨幣(モザンビークの貨幣はメティカルという)が無い事情をジョイに説明した。
「あら、それならあなたもここが閉まると困るわね。わたしたちと一緒にターミナル側へ交渉しましょう。」
 しかしターミナルのスタッフも、こんな客は慣れているようで、イレギュラー対応はできない、いつもここは12時になると閉めるのだ、ホテルを探すか外で待つか、自分たちでどうにかしてくれとにべもない。ジョイはジョイで、アフリカの旅の勘どころをわかっているようで、しつこく食い下がる。大きな声で主張する。アフリカでは、品よく大人しくしていると機会を逃すのだ。
 だが、押したり引いたりを繰り返した後、とうとうジョイが鉄壁のスタッフを前に敗れた。
「しょうがない、ホテルへ行くわ」
ホテルに空き部屋が無いか、さっそく9人のうちでいちばん背の高いアモスという男がしどろもどろの英語で電話をしている。
「わたしは…」
とわたしはつぶやいた。ターミナルの外には生ぬるい暗闇が横たわっている。野犬がいるかもしれない、強盗がうろうろしているかもしれないベイラの暗い街。どうしたら。
「置いていくわけないじゃない、シスター。一緒に行きましょう」
とジョイがすぐさままんまるの目を見開いてにっこりと笑い、わたしの手を引いた。大きな部屋をひとつ借りるからね。ひとりくらい増えても、どうってことないわ。気にすることはないのよ。
 あれよあれよという間にわたしは9人のケニア人とともにタクシーに分けられ、大きな荷物とともにホテルへ移動した。
 
 着いたホテルはかなり古く、外壁は色が剥げ落ち、ただれているようになっていた。内部も1970年代で止まってしまったような意匠のインテリアで、しかし天井は高く、一昔前はハイクラスのホテルだったことがわかる。熱海の古いホテルのような雰囲気も感じる。
 案内された先はジョイが言った通り大きな部屋で、紅い絨毯にベッドが等間隔に置かれていた。こういった大勢の一行が港町には多いのかもしれない。しかし、ベッドは6つしか置かれていない。
「あなたは、彼女とベッドを分けてね」
とジョイに促されてみると、一行のひとりで同じくヒジャブをかぶった痩せて内気そうな女性を紹介された。彼女はディアナと言った。
 部屋にはもちろん男性もいる。深夜の暗い部屋に入ると妙に緊張した。
 と、男たちが荷物から床に布を広げだした。布に座り、頭を床にこすりつける。なにかを唱える。イスラムの祈りだった。イスラムでは通常、1日に5回メッカに向かって祈る。最後は夜8時ごろの祈りだ。しかし今日はバスの中やターミナルの中で静かに祈れなかったので、ホテルに着いて落ち着いてから祈りをささげているのだった。
「シスター、ごはんを食べましょう」
言われて気付く。そういえば、今晩は何も食べていなかった。ジョイが声をかけてくれ廊下に出ると、少し開けている休憩所のようになっている一角の地べたに、ケニア人一行が布を広げ、その上に食事を並べていた。深夜のホテルの廊下は、暗い。白い眼だけがこちらでは認識できる。
 だんだん目が慣れてくると、いつの間に用意したのだろう、と思うほどにたくさんのごちそうが並んでいた。男性陣が近くの露店で買ってきたのだという。一行はこういうときのために、プラスチックの大皿小皿を用意しているのだった。こんな深夜に露店がまだ温かいご飯を用意しているのも驚きだ。
 特段大盛りになっているのは、チャーハンのようなおこわのような、茶色い色をした野菜と肉の入った混ぜご飯だった。彼等は器用に右手の指先で米をつかみ、ちいさく握っておにぎりのようにして口にいれるのだった。
「さあ、あなたも食べて頂戴」
ジョイがにこやかに促した。他のケニア人たちも、食べなさいとうなずいた。
 素手でご飯を食べるのには慣れていなかったので、油を吸った米はするするとわたしの指の間から滑り落ちていく。それを見てケニア人たちは嬉しそうに笑っている。やっとのことで口に放り込むと、何の調味料が入っているのか、どんな露店で買ってきたか分からないけれどもとにかく旨い。アフリカ人が買ってくるアフリカの露店料理は旨いのだ。
 ジョイが袋に入ったオレンジ色の液体をわたしによこした。それはマンゴージュースだった。
「その場で絞っているから、とても新鮮よ。飲んでごらんなさい」
袋には角に穴が空いていて、穴を指でつまんで閉じているのだった。口元に角を差し込み指を離せばジュースが口に注がれる。
 マンゴージュースが袋から口へ流れてくると、強い甘み、凝縮した匂いが押し寄せた。道端にはマンゴーの木がそこらじゅうに生えている。露天商は道端のマンゴーをもいで、それを絞り器で絞って、喉の乾いた者に売っているのだった。太陽の味、南国の香り。
 わたしが角をまた閉じて、ジョイに返そうとすると、次の人の手がひょいと伸びてきて、ジュースを口に注ぐ。また、次の人。それが終わるとまた隣へ。
 わたしは現金を持っていないので、食べるのを少し遠慮していると、それを察して「いいからたくさんお食べ」とすすめられる。今日は、移動とハプニングで腹が減っていた。ありがとう、といってすすめられるままに指で米を口に運んだ。
 
 遅めの夕飯が終わると、女性たちは歯磨きをしましょうと洗面台へ行った。歯ブラシをもってついていくと、女性たちは皆頭全体を巻いていたイスラムのスカーフを剥いで、顔を洗い、歯磨きをしていた。その姿を見てわたしは一瞬たじろいだ。
 彼女たちの黒いスカーフのなかの頭は、揃って丸刈りのような短い髪型だった。イスラムのスカーフは髪の毛に男性を惑わせる色気があるとされているから巻くものなのだが、夫婦間や女性同士ならばスカーフを取っても良い。わたしは見てはいけないものを見ているような気になりひるんだ。そもそも、イスラムの女性、というと奥ゆかしくて黙っている、そんな姿を想像していた。制圧されて、不自由なイメージだ。しかし、いま彼女たちはいきいきと談笑しながら、スカーフから解き放たれて歯磨きをしている。冷たい蛍光灯の光る、古いタイルの洗面所に彼女らの高い笑いが響いている。
 歯ブラシに違和感を感じて観察していると、彼女たちの歯ブラシは木の枝だった。歯磨き用の伝統的な木の枝がケニアでは一般的に売っているといい、誰一人ふつうの歯ブラシは使っていなかった。
「これでこするといい香りがして、歯がつるつるになるのよ」
彼女たちは胸を張った。
 スカーフの中身や木の歯ブラシ驚くわたしをみて、また彼女たちは嬉しそうにけらけらと笑った。
「シスター、わたしたちがそんなにおもしろい?」
いたずらにジョイが笑う。
 
 就寝のためにベッドルームへ行き、ディアナと狭いベッドを二等分した。ベッドはややかび臭くスプリングは堅いが、眠れないほどではない。電灯はオレンジ色の小さな光を残して、ぜんぶ消された。ディアナは英語が流暢でないので話は出来なかったが、寝る前に顔を合わせると少しだけ微笑んだ。暗闇に浮かぶ白い歯は、前歯に隙間があった。
 おもむろにディアナは携帯電話をポッケから取り出した。もごもごっとわたしに何か伝えると、隣からジョイが口を出した。
「ディアナは、これからコーランを聞いてから寝るからねって言ってるわ。」
ディアナの携帯電話から、歌うような中東の抑揚づいたコーランの朗読が聞こえてきた。テレビか何かの音源を録音したのだろう、音質は、とても悪くざらざらと解像度が低い。
 ディアナはベッドに縮こまるように横になり、安い携帯電話から聞こえてくるコーランに耳をすませた。ぴったりと携帯電話に寄り添って、目を閉じてコーランに耳を傾ける。まるでコーランが恋人であるかのように、愛しそうにその音に沈み込んでいるディアナ。ケニアのイスラムの流行りなのかと思い、周りを見やるが他のケニア人が同じようなことをしているふうでもない、皆思い思いに寝る前のルーティンを済ませているのだ。ディアナだけが、コーランの録音を子守歌にしている。ベッドを半分分けているディアナの祈りは、布団をつたってわたしのなかにも入ってくるようだった。コーランを読む男の声は高くなり、低くなり、遠くへ行き近くへ来、螺旋を描いた。きっとこの声は、神への愛を、そして忠誠と救いを歌っているのだろう。
 ふいに痩せたディアナの背中がふいにわたしの手に触れた。骨ばった肋骨からコーランを聴く彼女の呼吸が伝わってくる。あたたかい。コーランのうねりに身を任せているうちに、わたしはいつの間にか眠りに落ちてしまった。
 
「ジョイ、これからあなたたちはどこへ行くの?」
まだ夜が明けきらない頃、またわたしたちはタクシーでバスターミナルへ向かった。タクシーの中から街を見ると、ベイラの古いビル群の背中に、東雲がぼんやりと光っている。つい数時間前までスタッフとすったもんだしていたターミナルへ、またやってきた。バスを待つ間、そういえば何のためにケニアから大勢で移動しているのか聞いていなかったと思い、聞いた。
「仕事を探しに。マプトを通って、南アフリカ共和国に行くのよ。ソウェトに住むの、わたしたち。」
ジョイは、目を輝かせた。
「ソウェトは、とても大きい街よ。きっと仕事が見つかるわ」
「―」
わたしは言葉を失った。ソウェト、とても大きい街。確かにそうだが…。
「ケニアは賃金が安いの。ケニアから南アフリカに移り住む若者は増えているわ。仕事は、行ってから探すの。」
 わたしが抱いているソウェトの印象とは、ジョイは違う印象で話をしている。ソウェトは、ヨハネスブルグにある20ヘクタールにも及ぶ巨大なタウンシップ―スラム街である。大小様々なトタン屋根のパッチワークが、延々と続く。白人たちが居住する地区を上から見ると、赤い瓦屋根に植木が茂り、道は舗装され整然としている。対してソウェト地区に入ると、無舗装―もっとひどいとぬかるみ―の道が、線をがたがたとさせながら網の目を描いている。
 アパルトヘイト政策のときに、有色人種が住む場所としてあてがわれた地区で、もともとは金鉱労働者の黒人が集められ暮らしていたのがソウェトの始まりとされる。隔離、差別、不衛生、貧困、軋轢の巣としてのソウェト。それがわたしが思い描くソウェトであった。
「ケニアの暮らしは、悪くはないけれど、南アフリカでもっと良い仕事があるはずなのよ。だってとっても大きい都市なんだもの。大きいビルやおしゃれなマーケットがあるのだから、素敵な仕事があるわよね、きっとね」
ジョイはにこやかである。バスはマプトへ向けて、ひたすらにまっすぐな常夏の道をぴったり120キロの速度で進んでいく。
 
 南アのケープタウンにいたときのことが思い起こされた。南アフリカはアフリカのなかでも白人が多い国である。アパルトヘイトは無くなったとはいえ、未だに職業には格差がある。かつてトイレや列車など、使用する部屋を分けられていたのが「カラード」と呼ばれた有色人種のひとたちである。カラードは、白人以外というような意味あいで使われていた(る)が、多くは黒人たちである。
 そして「カラード」の南アフリカ人とは一線を画してそこに在る人々。それがジンバブエ人、マラウイ人、コンゴ人、ザンビア人…。「素敵な仕事」を探しに来た人々である。出稼ぎの人々は、駐車場の警備をしたり、レストランの給仕をしたり、メイドをしたり、駅の掃除をしたり、道路工事をしたりして稼いだ金を故郷に送る。南アフリカは他のアフリカの国よりは豊かだから、周りの国からも遠く離れた国からも、出稼ぎ労働者がたくさんやってくる。彼等はよく働く。うっかり仕事をクビになって故郷に帰るのは避けたいので、一所懸命に働くのだ。南アフリカ人よりも、元気そうに働く。そのために南アフリカの働き口は減る。そうして軋轢が生まれるのだった。
 ケープタウンのウォーターフロントの警備をしていたガボン人のもうおじいさんと言って差支えないくらいの見た目の男性は、10年以上故郷には帰っていないと言った。妻も子供も、ガボンにいる。警備の仕事も、年が年だからいつ失業するとも知れないけれど、そこで働くよりしかたがないのだ。
 出稼ぎ労働者たちも、南アフリカの「カラード」たちも、住んでいる場所は、ほとんど皆タウンシップと呼ばれるスラム街である。ケープタウンにも郊外に巨大なタウンシップがあり、古びたトタン屋根が延々と続く光景が、空港からの幹線道路沿いに見ることができる。 
 ヨハネスブルグのタウンシップ・ソウェトは南アフリカでも一番広大だ。そしてヨハネスブルグは世界一犯罪が多い街として知られている。
 
「シスター、あなたに会えてよかったわ。あなたも気を付けてよね」
ジョイは目を真ん丸にして微笑んだ。
 長距離バスが目的地に近づいてきたころ、わたしは前方のほうに乗っていたジョイのところへ行き、バックパックから南アフリカの貨幣を取り出した。モザンビークのメティカル紙幣は全部ひったくりに遭ってしまったけれど、南アフリカランドは数万円分、とっておいてあったのだ。
「これ、ホテル代とタクシー代。南アフリカに行くなら、使えるでしょう」
わたしはジョイに昨日世話になった分に少し色をつけた金額をランドで差し出した。出稼ぎに行くほどの人たちだ。お金に余裕があるわけではないだろう。モザンビーク貨幣は持っていないが南アに行くならランドで返そうと思ったのだった。
 それは一瞬の出来事だった。
 わたしはジョイの目が、ランド紙幣を見た瞬間は素早く上へ下へぎょろぎょろと動いたのを見逃さなかった。ランド紙幣をありがとうと言って受け取るか、いらないと断るか。取るか、取らないか。電光のようにジョイの脳内で攻防が繰り広げられているのが分かった。
 刹那の思考のあと、ジョイはわたしの申し出を断った。
「シスターは、わたしたちのシスターだから。あのターミナルで出会ったときから、わたしたちは家族になったのよ。だからお金はいらないのよ。」
弱き者を助けるイスラムの教えなのか、ケニア人の礼儀なのか。とにかく、ジョイのなかのなにがしかの道徳が勝った。きっぱりとジョイは、それを言った。何万年も前から決まっていたかのように、先程の脳内の攻防など、無かったかのように。
 わたしは旅の途中で見た、祈る人々のことを思い出していた。マラウイで出会った親切なおじいさん。いつも神のことを考えていると言った。教会で何十分もひざまづいて祈る女性。草原で輪になり踊るペンテコステの白装束たち。誰もいない海岸でひれ伏してメッカ祈る人。ひれ伏している先には、波しかなかった。
 アフリカの人々は、不遇なとき、祈る。それだから、いつも祈っている。祈るから、刹那に良心を取り出せるのかもしれない。少なくとも、彼女の場合は。
 
 バスの中では、モザンビークで流行っているけたたましい速いテンポのアンゴラ音楽が流れている。わたしはひとり、自分の席へ戻り窓の外を見た。
 日が暮れかけていた。目的地に着くのは夕方か、それとも夜か。ベイラの海から遠ざかり、ひたすらにまっすぐに続く直線道路の脇には、朝からほとんど変わらない景色―低い灌木群が広がっている。
 この道は、いずれ南アのヨハネスブルグへとつながっていく。わたしは次の目的地で降りるが、9人の一行は、またさらにバスを乗り継いで行く。


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