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「○○な子に育てるには?」「何歳までに○○しないと間に合わない」を中心に親子時間を使うのはもったいないという話①

息子が二十歳になったとき、
私と夫の子育ては果たしてどう
だったのかと考えた。

子育てを、親の「私」を主語にして
語るのは少し違うのではないかと
思い、息子本人に感想を聞いて
それをnoteに書いた。(娘の二十歳
時も同じことをしたいと思う)。

あれからまたさらに数年。

紆余曲折ありながらも
自分の人生を創造していく
ふたりの子どもたちの
姿を見ていて、親として
ぬぐい去ることのできない
「心配する」感情は常にあるが、
それよりも「面白いなー」
と思うことに溢れている。

この春、ひょんなことから
息子と旅をした。話をし、
食事をし、よい時を過ごした。
旅の終わりは、私の友人
夫婦宅にお世話になった。

息子が、私の友人や彼らの
子どもたちと話したり遊んだり
しているのを眺めながら、
「この人と一緒にいると
純粋に楽しいよな。」
としみじみ思った。

そして、彼が小さいときも、
同じように
「この子と一緒にいると
楽しいよな。」と感じて
暮らしていたことに気がついた。

かつての私は、毎晩寝る前に
「今日はほんとに楽しかった。
特に○○が珠玉だった。
こんなに楽しいのは今が
ピークかもな」と1日を
思い出すのが習慣だった。

当たり前のことだが
子育ては楽しいこと
ばかりではなく、
きついことも、心身に
ダメージを受けることも
山ほどあるのだけれど、
楽しいことはその何倍も
広く深く私に影響を与えたし、
それを毎日記憶に
刻んで生きていたかった。

大人になった息子を客観的に
見て、ただただ「なんか、
この人面白いな」と思えたことが
私は幸せである。楽しさに
ピークはなく、ずっと右肩上がりだ。

我が子の未来の肩書きを意識
しすぎて生きてきたら、おそらく
そうは思えなかっただろう。

我が子を成功させるため。
我が子を何者かにさせるため。

それが「子育て」だったとしたら、
私は心身ともに疲弊し、自分を見失って
いたであろう。それが「子育て」
だとしたら、私自身がそもそも
幸せを感じて生きられなかったことを
自分が感覚的に理解していたこと自体
幸せだったと思っている。

一緒に生きて、触れて、互いの
存在を喜び合えたらそれで
いいじゃないか。

昔も今も、そしてこれからも、
「あら、あなたといて楽しい」
の関係性を保っていたいと思う。

それは親子関係に限ったことでは
ないけれどもね。


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