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トビングスカイ - 6

「さかなぁ! なんか海が見えると元気になるよ!」
「あいつ、なんかますます馬鹿になってない?」
 めずらしくハルが呆れているので、アツは同意した。

 発見後は病院へ運ばれたソウだったが、翌日には退院して元気に登校した。救助艇の研究所からは謝罪があり、水青端高校のプールの底の処置については後日適切な処置を行うということで事件はあっという間に収束してしまったが、彼らの日常はまだ戻ってきていない。
「飛び込めそう?」
「んー、たぶん大丈夫じゃないかなあ。飲み込まれそうになったときは怖かったけど、中入ったら、あ、これ、大丈夫だわって思ったし」
「わかるもんなのかよ」
「わかるだろ。なんかチューブみたいのも見えたし、とにかく人工のなんかだった。すぐ寝ちゃったからよく覚えてないけど」
 ふうん、とアツは頷いた。とにもかくにも、ソウに恐怖心が残っていないのなら、選手生命は絶たれなかったということだ。水青端高校は高飛び込みの強豪校だが、ハルについで成績のいいソウが水泳部を去ってしまうのは実に惜しい。そういう意味では、今回の事件が全く彼に影響しなかったのは素直に良かったといえるだろう。

「ナカジぃ、落ちんぞ!」
「落ちないよ! やっぱ海に戻りたいのかなぁ」
「ただの機械じゃねぇかよ」
「でも元気になってる!」
 なにがそんなに楽しいのかとアツは呆れた。

 母親にこってりと絞られている父親を尻目にすっかり魚型小型救助艇が気に入ってしまったらしいナカジは、無理を言ってそれを自分のものにしてしまった。ここ数日ではどこへ行くときでもそれを持ち歩いているし、授業中にも眺めているので教師に没収されかけたくらいだ。
「アツはソウのこと心配してる場合かよ」
「うるせぇな。落ちるのが怖いのは親父のせいだってはっきりしただろ。あのクソ野郎」
「原因が分かったってさぁ」
「わかってるよ」
 彼はむくれた。全くハルの言うとおりだ。落ちるのが怖い理由がわかったところで克服できるかどうかは別問題だ。
 ちきしょう、とアツは悪罵をとばした。
「なー、アイス食わねぇ?」
「あー、食うー」
「ナカジぃ、アイス食いに行くぞ。おい、あんまり端っこによると落ちんぞ」
「ちがう……あれ——さかな!」
「魚なら手に持ってるだろ」
「ちがうよ! さかな! あんこう!」
 その手に持っているものもあんこうのような顔をしている魚ではないのか、とアツは言いかけたが、隣のハルが大げさに息を吸い込む声が聞こえて口をつぐんだ。ナカジの指差す先を視線で追う。

 穏やかな内海はいつものように水紋を摩天楼に描いている。その、規則正しいようで規則正しくない模様の一部に影がさし、景観にしみができていた。

 魚だ。

 巨大な魚が悠々と水面近くを泳いでいるのだ。
「でけぇ……」
「大きいのって浮上してこないって言ってなかったっけ」
「誰が?」
「アツハルんちのおじさん」
「うちの親父のいうことは当てにならんぞ」
「あいつ、堤防の方向かってるぞ、壊すんじゃないだろうな」
 しっかりとフェンスを握りしめて、ハルが呟いた。確かに黒い影は白いレース状の波を海上に広げながら、まっすぐに内堤防へと向かっているようだ。三階から見下ろしている間にもあっという間に回遊船を追い越し、かなりの速さで泳いでいる。
 掛け声をかけたわけでもないのに、四人はほとんど同時にメインストリートを走り出していた。トビウオ橋を越え、水青端高校のグランドをつっきり、内海の際、内堤防にあと数十メートルというところで転落防止フェンスが彼らを阻むだろうとわかっているが、走らずにはいられなかった。ビル風と海風が混じり合い、体がもみくちゃになる。

「あいつ、ぶつかるぞ! 壊す気かも!」
「堤防より先にあいつのほうがぶっ壊れるだろ!」
「あの大きさだそ、頑丈かもしんねぇ!」
「んなもん外海に泳いでたら、ぶつかった船が沈没するだろ!」
 じんじんとしびれる胸に大きく息を吸って、アツは腕を振った。吹きすさぶ風の中を走るのは、水の中を泳いでいる時のようだ。だが、地をける感触は確からしく、前に進んでいることがはっきりとわかる。一歩踏み出すたびに心臓が飛び跳ねては元の場所に戻る。喉を往復する空気の塊が心地よい。
 潜った! と再びハルが素っ頓狂な声を上げる。ナカジは三人についてくるので精一杯なのか、一言も声を発していないが、三人ともいつものようには彼に声をかけなかった。トビウオ橋から見下ろす海はうす青色にゆれ、魚の影はもう見えない。
「海底に戻るのか?」
「わかんねぇ……」
 平穏なゆらめきが世界に満ちている。四人はめいめいに欄干にもたれかかり、眼前を眺めた。
 波しぶきの音が遠い。ごうごうと吹き付ける風の中で、それは唯一静寂を破る不規則な音であり、彼らが慣れ親しんだ騒音でもあった。ただ、静かで、そして平穏な午後がきらめいている。堤防の向こうに少しだけ見える内外洋では今日は白波が立っているから、外洋にでれば大嵐だろう。
「やっぱ、り、海底に、戻ったんだ……」
「……なんもねぇな、なんか起こると思ったのに——」
「まぁでも堤防が、壊されちゃう、よりは……」
 二人の会話には口を挟まず、アツは海面を凝視した。水中で揺らめいていた黒い点が水ににじむインクのように一気に広がり、そこだけポッカリと影が落ちているように暗くなる。
(さかなが——……)
 魚が急浮上している。あの平べったい形の体をくねらせ、なにをしようとしているのか、一直線に空に向かって登っている。見上げる水紋、聞こえるのは気泡が上っていくかすかな音だけ、その世界を割るようにぐいぐいと——

魚が。

 てのひらに爪が食い込んでいる。軽口を叩いているハルの声は全く耳に入ってこなかった。来る。あの魚が、来る。

(アツト!)


「うわ……」
 カッと射し入る光に目が眩んで、アツはよろめいた。
 一体どれくらいの助走をつけたのか、勢い良く水面から飛び出してきた魚は、軽々と宙を浮き上がり、彼らののしかかるように巨体をゆっくりと回転させた。
 全身の力を振り絞るように体を捻った魚は、堤防の方へと倒れこんでいった。潮に焼けて白い堤防の上にくっきりと魚の黒い影が落ち、水しぶきが派手にあたりに飛び散る。
「——越えた!」
「うわ、あ、だめだよ! さかな! 魚が逃げた!」
「魚! 越えた!」
「ちがうよ!」
 ほとんど悲鳴のような声で叫んだナカジにはっとアツは我に返った。フェンスから身を乗り出しているナカジの両手から、この数日しっかりと抱きかかえられていたあの魚が消えている。
「おちた! 飛び出してっちゃった!」
「なんでしっかり持っとかないんだよ!」
 喚いているハルとナカジには答えず、アツは眼下を覗きこんだ。
「さかなぁ!」
「お前、紛らわしいからちゃんと名前つけろ! アツ? アツ、何してんの、おい、飛び込む——待て、早まるな! 相手は魚だぞ!」
 考えるより先に体が動いた。咄嗟にカバンを放り出して欄干によじ登ったアツは紺青色にたゆう海面をみおろして息を呑んだ。高さは八メートル、試合で飛び込む七・五メートル台よりはわずかに高い。
 魚型小型艇が直下で白い水しぶきを上げる。
「アツぅ!」

 ひゅるひゅると耳元で空気が渦巻いたのは一瞬だけだ。ぐんぐんと迫ってきた水面と衝突するときだけ、彼はギュッと目を閉じた。激しい水音が消え去った後は恐ろしいほどの静けさがある。橋の上で騒いでいる声が遠い。耳の中で泡が揺れている。

 彼は腕をかき、ヒレを揺らしている小型救助艇を掴んだ。ぼやけた視界の中でも魚は口をパクパクとさせ、慌てているようにも救助対象を見つけようともがいているようにも見える。しかし水底に引き込まれるように沈んでいるのだけは間違いない。
 腕で水を掻く。不規則な海面の網が目の前に迫り、白い泡の層を一息に突き抜けると、わっと音が耳にねじこまれた。
「なにやってんだよ! びっくりすんだろ!」
 取れたぁ、と彼は小型救助艇を大きく振った。ソウが顔をクシャクシャにして笑っているが、ハルは珍しい呆れ顔だ。ナカジもからだを半分まで乗り出してなにか喚いている。
「バカか! なんでいきなり飛び込むんだよ!」
「わかんねぇ!」
「まじかよ、バカか!」
「だって——」
 彼らは同時に顔をあげた。 大きな水音、そして内堤防の外側に水柱が立ったのが見えた。アツの手の中の小型救助艇はまだ口をパクパクとさせて盛んに尾びれをふっている。
 水音とともに黒い影が空気をきしませて飛び上がる。黒い巨体にガラスのような水の飛沫をまとわせて、軽々と跳躍する。体長は十数メートもあろうかという扁平で不格好な形、救助艇だ。救助艇が堤防を飛び越えている。後から、後から飛び越えて内外洋へと移動をしている。内海にいた研究試作品が内外洋に移されている。
「アツ! 海浜公園で待ってるからな! 泳いでこいよ!」
「一番最後についたやつがアイスおごりな!」
 わあ、と橋の上の三人が歓声をあげた。アツはもう一度大きく手を振った。

                          おわり

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