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トビングスカイ - 4

 二人は退屈していた。妹の出産のために母親が入院していたからだ。しかも今日は昼の早い時間から病室を追い出されてしまったので二人は解せなかった。母親はどこかに運ばれ、どうやら妹を出産しているらしい。しかし二人は妹との面会が楽しみだというよりは単に退屈していただけだった。
 浜で見つけた木の枝を振り回してハルは雄叫びをあげている。どういわけかアツを敵と認定して殴りかかってくるのが我慢ならない。しかもそんなアツとハルをよそに、父親は桟橋の一番端に膝をついて、海中に手をつっこんでおり、全く二人に注意を払っていないのだった。
「アツト。ちょっとおいで」
 アツは顔をしかめて父親を睨んだ。浜でぐるぐると回っているハルが桟橋へ追いかけてくるまでにはまだ時間があるが、かといって父親のそばに寄っていいことがあった試しがない。
「ほら、ちょっとおいで。面白いものが取れたよ」
 父親は両手を椀状にしている。手の中になにかいるようだ。アツは怪しんだ。
「なにそれ」
「見たらわかるよ。まあまあ、ちょっとおいで」
「痛くない?」
「痛くなんかないよ」
 父親は心なしか頬を紅潮させているようだ。アツはますます怪しんだ。父親の機嫌がいい時ほどろくなことはない。絶対に怪しい。
 とはいえ、しつこくおいかけてくるハルと遊ぶよりは父親のほうがマシなのは事実だ。彼は慎重に、怪しみながら父親に近づいた。父親は腰をかがめ、手を少し突き出している。
「大丈夫だよ。ほら、よくみてごらん、これは——」
「変なやつじゃない?」
「変じゃないよ。これはお父さんがこの間作ったやつと——」
 父親が手をつきだしている。彼の手の中にある潮のにおいに生臭い海藻の匂いが混じっている。おそるおそる顔を突き出してアツは中を覗き込もうとした。ぬらぬらとひかる水の下、なにかがうごめいて——

「うわぁ! 魚ぁ!」
 のけぞったナカジの尻が沈んだ。やわらかなソファがしずみこみ、ますますそのせいでバランスを崩した彼は悲鳴を上げながら床に倒れこんでいった。父親は反応できなかったのか目をぱちくりとさせている。
「ちょっとぉ、夜なんだから静かにしなさい! お父さんもなにやってんのよ……」
「いや、その、そんなつもりじゃ……」
「ナカジぃ!」
 静かにしなさいと声が飛んできたが、アツはソファにかけよった。
「ナカジ、だいじょぶ?」
「頭打ったぁ」
 ひっくり返った拍子にメガネをとばしたらしく、ナカジはバタバタと腕を動かしている。彼の指先より少し先のところに落ちていたメガネを拾ってやり、アツは息をはいた。ひっくり返った拍子に頭はぶつけているだろうとは思ったが、打ち所が悪くて失神せずにすんだのはめったにない幸運だ。怪我もしていないらしい。
「ああ、えっと、大変だ。ナカジくん、大丈夫? 立てる? どこか打ってない?」
「頭打ったって言ってんじゃん。ナカジ、おきあがれる?」
 痛い、と気の抜けた泣きべそ声でナカジは答えた。とはいえしっかり返答があるのだから問題なしだ。問題はそれよりも——

 それよりも魚である。

 アツは父親を睨んだ。まだ目をまるくしている父親は、ぼんやりと突っ立っている。頬骨のあたりが赤く焼けているが、海の男からイメージするものとはまったく真逆の容姿をしている。いつも見るたびに痩せたのではないかと思うが、今日はかっちりとした喪服を着ているせいかますます体が薄くなってしまったように思われるのだった。ハルがこの数ヶ月で急に筋肉がついたせいで、よけいに父親の体格が貧相に思われるのかもしれない。ナカジと同じように大きく、しかも古臭くてレンズの厚い眼鏡を指で押し上げ、父親は困惑したようにまばたきをした。
「あー、えーと……いや、そんなに驚くと思わなくて——」
「それ、あのときの魚……」
「あ! やっぱりアツトはおぼえてたか」
 ナカジの具合よりも自分のほうが優先なのはいつものことだが、アツは心底げんなりとした。しかし父親は満面の笑みをうかべて手のひらの中を眺めている。手の中にはテカテカと奇妙な光を放つ魚が尾びれをふっているが、ここは陸上、間違いなくこれは人工物だ。
 ナカジは怪訝な顔をしているが、父親はまだそれに気づいていないようだ。こんなふうに無邪気に笑っていられるのはたぶんまた頭の回路が妙なところに接続されたに違いない。そしてそういうときの父親に関わるとろくなことがないことをアツは知っている。アツは足を一歩引き、逃げる体勢をとった。
「おぼえ、え? 覚えてたって、これ、あれだよ、あれ、今日のプールの」
 ナカジの声を遮って、完全に存在を無視されていたテレビが突然、憂鬱な電子音を発した。音は二度繰り返され、画面の上部に文字が表示される。

——[速報]水青端市で行方不明の男子生徒(17)、海浜公園で無事保護。ケガもなく話もできる状態。

「ああ、よかった。やっぱりそうだった」
 父親の独り言は聞こえていたが、アツは反応できなかった。テロップはすぐに消え、また憂鬱な電子音が鳴る。再び同じ文言が現れ、そして消えるまでアツは動けなかった。テレビから流れてくる空々しいまでに明るいアイドルソングがはじまっても、しばらく彼はそのままだった。

                                                                                                     つづく

※この作品は全八回完結の予定でしたが全六回完結の間違いでした。申しわけございません。面白かったらちょいと投げ銭してやってくださいませ

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