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トビングスカイ - 1

 ひときわ大きな歓声があがったのでアツはますます不機嫌になった。
 おもしろくない。
 なぜなら歓声を浴びているのは自分ではないからである。
「どっから湧いてきたんだ、あいつら……」
「だってハルが大会近いってみんなに」
「知ってるよ」
 思わず声を荒げ、アツは隣のナカジを睨んだ。
 いま、飛び込み台の上で気持ちよさそうに歓声を浴びているのはアツの双子の弟、ハルである。国際強化選手に選出され、国際大会でも実績を積んでいるハルは水泳部の中の傑出した飛び込み選手、どころか日本高飛び込み界の次期エースとして期待を浴びている男だ。ファンがいないわけがない。ないのだった。
 が。

 おもしろくない。

 これでもしハルが家族でなければ——いや、双子の弟でなければアツだってこれほど嫌な気分にはならなかっただろう。せめて歳の離れた弟か兄であればと夜中に枕を濡らしながら何度か考えたこともある。おもしろくない。
 手を振って歓声に答えたハルは七・五メートル飛び込み台の上で大きく深呼吸をした。そしてほっそりとした長い腕を広げ、程よい緊張感のある表情で天を仰ぐ。
「……アツだってあっちから飛び込めばいいんじゃんか。それかさぁ」つん、と鼻をそらして、ナカジは茶色い目を細めた。「どうせ怖くてできないんだから、高飛び込みはいい加減諦めたら?」
 アツは無言でナカジを睨んだ。小さい頃からアツの金魚のフンよろしくついてまわっていたくせに、最近生意気なナカジである。これもまたおもしろくない。
 さて、そんなアツの心中はしるよしもなく、にっと不敵な笑みを浮かべたハルは胸をいっぱいに膨らませたかと思うと、飛び込み台の床を蹴った。日に焼けたからだが体が宙にとび上がり、くるくると回転しながらアツとナカジの前を通り過ぎて落ちていく。コンマ数秒後、揺らめく水面が反射する光を体にまとい、ハルは音も立てずに着水した。
 前三回半えび型ノースプラッシュ、高校生大会の決勝でようやくちらほらとみかける難易度の高い技を、ウォーミングアップの飛び込みで、しかもノースプラッシュでやってのけるハルの才能は悔しいながらも認めざるをえない。

 実に面白くない。

「アツハルって双子なのにほんと——」
「さっきからいちいちうるせぇなっ! なんだよっ! なんか文句あんのかっ」
「だってぇ、アツはぁ、五メートル台でぐだぐだしててぇ、うしろがぁ」
「お前だって五メートル台からじゃないと飛び込めないだろうが、うっせえんだよ!」
 苛立ってアツはナカジを小突いた。しかしここは狭い飛び込み台の上だ。広く安定したプールサイドではない。ただでなくても運動神経の良くないナカジをこんなところで小突いたら、事故が起こらないほうが奇跡である。
「ナカジ——!」
 案の定よろめいたナカジはなにをどうしたのか五メートル台の上にひっくり返ったかと思うと、そのままごろりと後転してプールに落ちていってしまった。あっと声を上げる暇もなく、姿が見えなくなる。
 慌ててアツは台に飛びついた。下を覗き込むとちょうど白いしぶきが盛大にあがったところだ。飛び散った水滴からにげるようにハルが黒い腹をみせてプカプカと浮いている。
 やってしまった。
「ナカジぃ!」
「おい、お前らなにやってんだっ! アツハル! ナカジ!」
 ぎくり、としてアツは首をすくめた。七・五メートル台から降ってきたのは笑い声だが、プールサイドから飛んできて彼の耳をひねりあげたのは大人の怒号だった。アツはぎゅっと体を縮めた。
「アツハル——じゃない! ハル! 違う! アツとナカジ! こっちこい! おまえらなにふざけてんだ!」
 プールの中ではハルがナカジを捕獲したところだ。腕を振り回して水面を叩いているナカジだが、わめき声を上げているところをみると元気いっぱいなのだろう。ひとまずほっとしてアツはため息をついた。
 低い方の飛び込み台とはいえ、ナカジが落ちたのは五メートル台だ。着水時のスピードもそれなりにあるので、下手な着水をすれば骨折などの大けがをすることもある。顧問が怒鳴るのも仕方がない。
 まだ怒鳴っている顧問に返事をして、アツはしぶしぶ階段を駆け下りた。プールサイドに向かって泳いでいるハルは非難するように目を細め、アツを睨んでいる。その小脇に抱えられたナカジはすでに暴れるのをやめていたが、かわりに激しく咳き込んでいた。たぶん落水時に水でも飲んだのだろう。
 アスファルトが足の裏を焼いている。おとなしく頭を垂れ、アツはハルに詫びた。
「ほんと気をつけろよなっ」
「ごめん」
「ナカジもどーせわざとなんだろっ! 下見てからにしろよ!」
 しかし、怒髪天を衝くハルそっちのけでナカジは背中が痛いとうめいている。そうやって呻く元気があるなら心配いらないが、背中一面が真っ赤に腫れ上がっているから、後で念のため保健室に連れて行ったほうが良さそうだ。アツは素直にナカジにも詫び、彼の腕を掴んで引き上げてやった。
 プールサイドはじりじりと焼けている。
「ごめん……」
 悄然としてもう一度アツが謝ったその声に、ふたたび沸き起こった歓声が重なった。
「あ、ソウだ」
「ん?」
「珍しいな、あいつがいきなり七・五からなんてさ」
 プールサイドに立ち上がったハルはぺちんと音を立ててキャップとゴーグルを頭から剥ぎとった。まだプールサイドにへたり込んでいるナカジは意地になったようにぐずぐずと鼻をならしている。こういうときのナカジは優しくするより強く、時には尻を蹴っ飛ばしてでもせかしたほうがいいと長い付き合いでアツは心得ているが、かといって叱られに行くのも億劫だったので、ハルの視線を追って空を仰いだ。
 七・五メートル台の上の人影がプールサイドを見下ろしている。二人が顔を上げたことに気づいたのか、人影はくい、と顎をしゃくった。たぶん笑っているのだろう。
 贅肉をそぎ落とし筋肉だけをはりつけたようなシルエットから表情は伺えない。しかしその佇まいから、みなぎる自信はひしひしと感ぜられるものがある。ソウはこの一年で急速に成長し、今ではハルと一緒に全国大会の決勝に残る有力選手までになった。挑戦的な態度は、ハルへのあてつけだろう。
 両腕をだらりとさげ、彼はその場で二度軽く飛び上がった。そしてくるりと踵を返すとプールとは逆側に顔を向け、飛び込み台の縁ギリギリまでにじりよる。騒いでいた観衆はしん、と静まり返り、隣のプールから聞こえる女子シンクロナイズドスイミング部の掛け声が、佇立する摩天楼の間に響いている。飛び込み台の側面に浮かび上がる紋様は水面が反射する光——

 アツは目を細めた。

 パターンの見えない波が崩れた。一点を中心に同心円上の輪が繰り出し、影が規律を見出したようだ。好き勝手にはねていた光は細い線となり、飛び込み台に縞模様を作っている。そんな模様は何度も見たことがある。選手が飛び込んだ数秒間だけ見ることのできる美しい文様だ。しかし、いまにも飛び込もうとするソウがいるのに、なぜだ?
「…………?」
 アツの疑問をよそに、ふわり、とソウが伸び上がった。空中に体がめり込み、一息に腰を折ったソウの体が線になる。
 はっとしてアツは水面をみやった。彼の視線を待っていたように心なしか盛り上がった水面がはじけ飛んだ。そんな錯覚をした。
「! ! !」
 それは砕け散った水しぶきをまとい、にゅっと空中に顔を押し出した。黒々とした巨躯。体にはりつく鱗にはまだ水がしがみつき、白い膜に覆われた小さな目がぬらぬらと光っている。あえぐように開いた口は飛び込み台の横幅よりも大きく、その口のヘリにびっしりと白い小さな歯が生えているのがはっきりと見えた。重力を歪ませ、魚はぐいぐいと空をかきわけている。ながい胸びれを回転させながら、しぶきの破片を撒き散らし、しかし目はしっかりと獲物を——ソウを見定めている。
「ソウ!」
 ソウが宙を掻いた。しかし落下中の彼の体が浮かび上がるわけもない。まるで最初から決まっていたように、彼の体はゆっくりと魚の口の中に消えていく。動けない。手を伸ばしても届かない。
「ソウ! ! !」
 とっさにアツはハルとナカジの腕をつかんだ。空気を歪ませて背中から着水した魚が水柱をあげるのとほぼ同じタイミングだった。湾曲したプールの水面が破れ、大波が迫ってくる。

 悲鳴と怒号が残った。

                           つづく

※この作品は全八回です。面白かったらちょいと投げ銭してやってくださいませ

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