DSC_3649_-_コピー

トビングスカイ - 2

 説教どころではないのだった。
 喚いていたハルも興奮が過ぎ去ったあとは椅子に深く腰を掛け、頭を抱えている。そのとなりにちんまりと座るナカジは目も鼻も真っ赤にして静かに泣いているらしかった。他の部員たちも青くなったり赤くなったり喚いたりガタガタ震えていたりしており、それを茶化すものは誰もいない。茶化せるわけはないのだった。

 魚である。

 それも巨大魚がチームメイトを食らったのである。逆ならきわめて平和なニュースだ。しかし現実は現実である。しかもソウをのみこんだ巨大魚はいまもなお行方がわかっておらず、海岸沿いには警戒令が発令されている。これでショックを受けないほうがどうかしている。

 アツの暮らす水青端(みおばた)は紀伊半島を南東に百五十キロメートルばかり沖に進んだ場所にある海洋都市である。もとは本格的なメタンハイドレードの調査・研究および産出のために建設された基地だったのだが、次第に拡張され海洋都市へと変貌したのだそうだ。
 南海トラフの断層を避け、比較的地盤の安定している海底を基礎にして建設された水青端を守る二重堤防は、宇宙からその存在を確認できるらしい。外殻堤防は半径およそ二十五キロメートル、高さ三十メートルにも達し、荒れた外洋から街を切り取っている。さらにその内側には内海を形成するための半径およそ十キロメートル、高さ十五メートルの内海堤防が街を隙間なく囲っている。外殻堤防と内海堤防の間の緩衝区間は巨大調査船も停泊できるようになっており、嵐の時の避難場所になっている。
 呆然としていた水泳部員たちはみな、すぐにやってきた駐在警察官と内海海上レスキュー隊によってプールから追い出された。捜索はすぐさま開始され、地元のテレビ局もおっとり刀で取材に来たが、本土のキー局は海が荒れているため、数日はやってこないらしい。今の飛び込み部にとっては唯一の幸運といえるだろう。

 日がすっかり落ち、窓から入る風が冷たくなっても、ソウどころか巨大魚が発見されたという知らせは入ってこなかった。外では水際には近寄らないようにとの警告が繰り返し、繰り返し放送されている。その声がきこえるたびに部室の空気は重くなり、みな口をつぐんでしんとなってしまう。ぽつぽつと灯る内海堤防ラインのオレンジ色の明かりがビルに反射し、内海はただしずかにゆらめいている。さざなみの連続性をきりとるように、改定を探索する小船が何艘も出て、いつもとは違う緊迫した雰囲気があった。堤防の向こう、普段なら外洋船か巡視船がたまに停泊しているくらいしかみかけない波止場にも、ボートが点々と止まって捜索をしている。

「アツ!」
 ぼんやりと窓の外を眺めていたアツは我にかえり、すばやく入り口に顔を巡らせた。
 彼を呼んだ声は母親だった。いつもどおりの普段着で、ぱさぱさの髪の毛をひっつめにまとめている。Tシャツにジーンズというラフな格好はいつもどおりだが、荷物はなにも持っていない。
「あんたたち、なんともなかった? 怪我は?」せかせかと三人の方へ歩いてきた母親は壁際に顧問を見つけたのか、軽く頭を下げた。
「ナカジくんはどうしたの。怪我したの?」
「してねぇよ。ただ泣いてるだけ」
「ああ、そう……みんな無事でよかったわ。あ、ナカジくん、今日お母さん夜勤でしょ。お母さんが迎えに来るまでうちでご飯食べていきなさい。連絡はしておいたから」
 眼鏡の奥をうるませ、ナカジはぱちぱちとまばたきをしている。アツとは小学校にあがる前からの付き合いだが、そんな小さな頃から泣いている時の癖はかわらないのだった。
「ハルも帰るよ。ああ、そうそう、お母さん、これからお父さんとお葬式に行かなきゃいけないから、マチの宿題みてやってくれる? ご飯は用意してあるから四人で食べて。カレーだからあっためるだけ。ご飯は十合炊いといたけど足りなかったら鍋で炊いて」
「りょーかい」
「それにしてもソウくんがねぇ……ハル、さっさとしなさいよ! なにグズグズしてるの」
 さっさとなんてできねぇよと泣き声でハルは応酬した。意外と繊細なところのあるハルは、順番が違っていれば自分がソウのように丸呑みされる立場だったかもしれないと気づくや真っ青になって動けなくなってしまったのである。対するナカジの涙は少し違っていて、自分が派手な水音を立てたせいで巨大魚を呼び寄せてしまったのではないかと自責の念に駆られているのだった。どちらの気持ちも分からないではない。

 母親が顧問と立ち話をしている間にナカジに鞄をかけてやり、ハルの背中を蹴飛ばして立ち上がるように急かす。ふたりともぐすぐすと鼻をならして、こういう時ばかりはアツのいいなりだ。小さい頃からこの関係はまったくかわらない。
「葬式って?」
「テラダさんっていたでしょう、昔うちに遊びに来たこともあったけど、調査員の——覚えてない? まああんたたちが小さい頃だったからねぇ……あの人、三日前に甲板から落ちたんだって」
「外洋で?」
「そう。甲板からだったっていうから、たぶん着水した衝撃で……しかも海が荒れてるからまだ見つかってないんだって。かわいそうに。ここ一週間ずっと時化てるからねぇ……」
 テラダさんとやらの顔は思い出せなかったが、アツはげんなりとしてため息をついた。

 水青端の内海でも落水事故はあとをたたないが、外洋に出ている調査船からの落水事故は死亡事故、しかも遺体が見つからないことがかなり多い。喫水線からの高さが五百メートル超ある大型調査船の、しかもその甲板から転落したとなれば着水時のスピードは時速二百キロメートルに達する。海面に衝突すると同時にほぼ即死しただろう。加えて外洋は波が荒いから、数分以内に引き上げができなければ遺体は波間に消え、二度と見つかることはない。文字通り骨の髄まで海の栄養となるのだ。
「ハル。どうしたの、カバン重いの? 置き勉してるくせに」
「うっさいよ、ふたりとも落ち込んでんの。ハル! ナカジも! さっさとしろよ、泣いてたってしょうがないだろ、まだどうなってるかわかんないんだし」
 でもぉ、とはなたれ声でナカジは反駁した。鼻をすすってはぐしぐしとまぶたをこすり、少し歩いては二の腕で目元を拭い、女子にいじめられて泣いていた小学生の時そのままだ。その横をのろのろとあるくハルは柄にもなく背を丸め、腕をだらんと垂れて半死半生のありさまである。アツが尻を蹴っ飛ばしても反応がない。
「お母さん、お父さんとマチを迎えに行かなきゃいけなかったからまだニュースみてないんだけど、クジラかなにか?」
「んー、大きさはクジラっぽかったけど……どっからどうみてもあんこうだったかなぁ……ぐわぁってかんじで」
「へえ、巨大あんこう」
「うん。やばい」
「それでナカジくんはともかく、なんでハルがこんなに静かなの」
「ハルが飛んで、ナカジが落ちて、そのあとがソウだったんだよ。だから自分が食われてたかもって思ってんの。ハルなんか誰が食うかよ……」
 食うかもしんねぇだろ、とまたもや涙声でハルは口ごたえをした。

 堤防に近い水青端高校の校舎を出て、内海の上を横断するトビウオ橋を渡り切ると、住居棟がのしかかるように迫ってくる。狭い水青端の住居棟は全部で五棟あるが、アツたち一家が暮らすのはその中でもっとも古い二十階建てA棟だ。
 吐きそうとぼやいているハルに母親がかまけている間に、アツはそそくさとエレベータのボタンを押しに行った。潮風に晒されているA棟は露出した金属パイプが錆びつき、壁の塗装も一部が剥がれかけていて、風がふくたびにギイギイと気味の悪い音がする。管理はきちんとされているというが、エレベータは小さいし、廊下はくらいし、古臭いポップな水色の外装ははげても塗りかえられないし、おばけ棟と呼ばれても仕方がないだろう。
 しかし古い代わりに部屋にゆとりがあるので、家族で暮らすには一番良い棟だとはいわれている。アツとハルは和室を占拠しているが、年間の三分の一程度は大会出場のため本土または海外に渡っているハルはいないも同然、実質アツの一人部屋になっている。
「てか親父が帰って来んなら早く言っといてよ……」
「お母さんだって今日まで知らなかったんだからしょうがないでしょ。文句はお父さんに言って。ハル、まだ気持ち悪い? 家まで吐きなさんなよ」
「マチ、もう帰ってんの?」
「え? ああ、うん、さっき迎えに行って……」
「ハル、荷物。ナカジも。先行ってる。鍵ちょうだい」
「ピンポン押してよ。マチがいるから」
 おとなしく荷物を押し付けるハルとは対照的にナカジはかばんをしっかりと抱えてアツにひっついてきた。普段からどんくさくて虚弱で、そのくせ妙に居丈高なところのあるナカジだが、こういうところはハルよりもずっと親しみが持てる。点滅する廊下のライトをくぐり抜け、アツは自宅の呼び鈴を押した。

「…………」
「あ? なんか言ったか?」
「ソウ、もう溶けちゃったかなぁ……」
「縁起でもないこと言ってんじゃねぇよ、バカ」
「でもぉ」
「大きな餌は消化しにくいらしいって聞いたことある。あと今は夏だから水温が上がってるし——」
 扉の向こうでけたたましい音が聞こえたのでぎょっとしてアツは後ずさった。 

「あ、やっぱアツだ! あれ、お母さんは?」
「ハル連れてきてる。どけよ、邪魔だろ」
「邪魔っていっちゃいけないんだよ! あれぇ、ナカジだぁ」
 扉を開けたのはアツの妹、マチであった。玄関のたたきにおりたくないのか、体を斜めにして扉によっかかっているマチに、アツは思わず顔をしかめた。特になにも考えずにそんな姿勢になったには違いないが、どう考えても元の倒立状態に戻れるとは思えない。いささか小生意気な妹ではあるが、そういうところは思慮の足りない小学生なのだった。
「ちょっと待って! ちょっと待ってってばぁ! 落ちるよ!」
「降りればいいだろ」
「お母さんに怒られるもん!」
「足拭かねぇから怒られんだよ」
 強引に扉をあけ、マチが玄関のたたきに降りたことを確認してハルの荷物を玄関に投げ込む。教科書もノートも完全に学校に置きっぱなしにしているハルの鞄は軽く、玄関に落下してもホコリを吐き出しただけだ。まだうるさく文句を言っているマチを押しのけ、アツは靴を脱ぎ捨てた。
「あ、おかーさんだぁ、おかえりぃ」
「こら! またはだしで降りて! 足ふいてから上がんなさいよ。お父さんは?」

 自室に行く前に洗面所へ行き、体操着とジャージと水着を洗濯機に押しこむ。甲高い声で言い訳を喚いているマチは無視して、すり足で家に上がってきたハルが扉の影から顔をだした。まだ顔は青く、腹をしきりに撫でている。もともとハルはひとの注意を引きたがるところがあってすぐに痛いだのつらいだのというが、今回は本当に気分が悪いのだろう。
「風呂沸いてる?」
「沸いてるわけねぇだろ。自分で沸かせ」
「ん……ちっくしょう、腹いてぇ……」
「とりあえず横になったら」
「んー、でもあっためたほうがいい気がする……」
 ハルにしては殊勝な態度だ、と思いながら、アツは洗濯機に洗剤を放り込み、ボタンを押した。水が流れ始める音がしたところで扉を閉め、ハルの鞄ともども自室に蹴り入れる。
 玄関はようやくマチがあがってきたところだ。その後ろ、所在なさげに佇んでいるナカジはおじゃましますと小さな声でいってそろそろと玄関に足を踏み入れた。父親が転落事故で死亡して以来母子家庭で育ったナカジは、大人が近くにいると妙におとなしくなる。
「あれ? ハルは?」
「風呂はいるって。ナカジぃ、ドア閉めて。鍵はあけてていいや」
「ああ、お風呂ね。あんたもさっさと入んなさいよ、汗臭いんだから。お父さん? 出かける準備できた? 服着替えるからちょっと待っててよ! お父さん?」
 でかけたよ、となにが楽しいのか反復横とびをしつつ、マチが返事をした。リビングをのぞくとテレビがつきっぱなしになっている。流れているのはニュースだ。

 アツは目を細めた。

 見慣れた巨大堤防と潮に焼けた白い校舎。水青端高校の映像である。
「なんでよ。待っててって言ったのに」
「なんかニュース見てたんだけど急に行っちゃったよ」
「止めてよ……まぁマチに言ったってしょうがないんだけどね……なんで我慢できないんだか……」
 ばたばたと和室に駆け込んでいった母親はまだ喚いている。リビングの机の上にはふくさが乱れて放り出されており、黒い葬式用のバッグもぽんとおいてある。
 父親がいた形跡はまったくない。
「……親父、荷物持って出てった?」
「んーわかんない」
「香典、忘れてってない?」
「コーデンって?」
 マチちょっと! と和室から母親が声をあげた。「チャックあげてくんない? あとネックレスとめて!」
「かーさん、あのクソオヤジ、香典忘れてったっぽいよ」
 もう! とふすまの向こうから声がした。ナカジは天井を仰いですっとぼけた顔をしている。アツの家はいつもこんなふうだが、ナカジの母親はあまり大きな声を出すタイプではないので、たまにくると見の置き所がわからなくなるそうだ。声が多すぎてついていけない、というのがナカジのいいわけである。たしかにハルもマチも母親もよく喋るから、全てに全力で立ち向かっていたら消耗するのもやむを得ないだろう。
「あーもう、香典、香典、おさいふとケータイと……よし! じゃぁ出かけてくるからお留守番しててね。遅くなるかもしれないから寝る時は戸締まりとガス栓しめるのわすれないでよ。あ、あとマチはさきに宿題終わらせなさいよ! じゃぁ行ってきます!」
 のそのそと玄関をあがったナカジはピッタリと壁に背をはりつけている。その横をどたどたと足音を引き連れて通り抜けた母親は、扉を開けたところでまたなにか声をあげた。ハルによればそれは変身の決め台詞だそうだが、十七年も聞いているはずなのに未だなにを言っているかわからない。
「……アツのおばさんって、ほんといつも元気だね」
「ん。ナカジ、鍵閉めて」
 アツはリビングにふたたび視線を戻した。ニュースの映像は、画質の荒い映像をうつしだしている。手ブレがひどく、目がチカチカするが、画面の下方は青でうめつくされているところを見るとプールの映像だろう。
「マチ、それ魚のニュース?」
「さかなぁ?」
「高校のプールだろ、それ。魚映った?」
「あ、そのさかな?」
「これ、本土のニュースだろ。誰か映像売ったのかな」
 ソファの背中を乗り越えたマチは背もたれを滑りおりてソファにおさまった。そして偉そうに足を組んでふんぞり返る。先程まで父親がいたので猫をかぶっていたに違いないが、反動でタガがはずれたらしい。
「あたし、ミルキー・モーニンの再放送待ってんのになぁ」
「誰か撮ってたの?」
 不意に肩のあたりで声が聞こえ、アツはぎょっととびあがった。アツを驚かせた当のナカジは大きなメガネを人差し指の背で持ち上げ、じっとテレビを凝視している。
「そりゃ誰か撮っててもおかしくねぇだろ。結構人いたし」
「ナカジどこいんの? アツもいた?」
 おどおどしているナカジに鞄はアツの部屋にでも押し込んでおけと指示を出す。喉の渇きを覚えたものの、テレビの中が気になったアツはソファの背もたれの上に腰を下ろした。浴室からはシャワーの音が聞こえている。
「今落ちたのがナカジ」
「ナカジ落ちたのぉ? 相変わらずだめだねぇ」生意気な口調で肩をそびやかし、なにが楽しかったのかマチはにかりと白い歯をみせた。「で、アツは?」
「さぁね。今プールから上がったのがハルだろ、そんでナカジがあがってきた——」

 ごくり、と思わずアツはつばを飲んだ。プールサイドにいた彼からはみえなかったが、プールにたつさざなみが同心円上に広がっている。水の色は変わらない——とはいっても飛び込みプールはそのまま内海につながっているので、もともと紺色を呈しているものだ。だから上から見ていた観衆も異変に気づかなかったのだろう。

 くるりと後ろをむいたソウが両手をひろげ、また下ろす。テレビの中ではアナウンサーが説明をしている。カメラの音声は消されている。

 波が。

 プールの水面が弧を描いている。対流が発生しているのか円状に白い波が立っているが、プールサイドは静かだ。異変に気づいたのだろうか、映像が大きくぶれる。インクが滲んだようにプール全体が黒くなり、そして。

 ぐ、とアツは拳を握った。口をとがらせているマチも静かになってテレビの映像を眺めている。彼らの前に——プールサイドの人影は人差し指の先くらいしかないにもかかわらず——飛び出してくる画面を半分ほども覆う黒い大きな影、はっきりと分かる白い目に、太陽の光を反射する鱗が画面に縦のノイズを作っている。

 やはり、魚だ。

「……すっご……でかっ! でかくない?」
「でかかったよ」
「これほんと? CGじゃないの?」
「いや、ほんとにあれくらいでかかったと思う……」下唇を親指の背で口の中に押し込みながら、アツは目を細めた。マチはまだすごいすごいと騒いでいるが、なにか心のなかで引っかかったような気がしたのである。
 ぱくりとソウをひとのみにした魚は、アツの記憶と同じように体を捻り、プールに着水した。十メートル飛び込み台のてっぺんにまで到達する水柱があがったところで、映像がスタジオに切り替わる。ローカル放送に比べて無機質な六時のニュースだ。テロップも凝っている。
「あれ、クジラ?」
「バカ、クジラに鱗があるかよ」
「あれ、そっかぁ」
 あ、そっかぁ、とマチとまったく同じ調子でナカジが感嘆の声を漏らしたので、アツは呆れた。ハルと同じで成績があまり芳しくないナカジは時々こういう気の抜けたことを言う。
「あれ、おいしいのかなぁ」
「バカ。腹減ってんのか?」
「へったぁ! だって今日さぁ、あれだよ、競泳の授業あったんだもん! ねぇ、何位だと思う?」
「うっせえ」
「ねぇナカジぃ、あたし何位だったと思う?」
 あとはナカジに任せておこうとアツは立ち上がった。ハルよりも運動神経がいいマチは水泳競技ならなにをやらせても飛び抜けている。丘の上を走るとすぐにへこたれてああだこうだと文句を垂れるくせに、水の中ならいつまでも泳いでいるのはどうにも納得がいかないとアツはいつも思っていた。
 たぶんマチは中学に上がったら、どこかの水泳部でエースになるだろう。そしてハルと同じようにしょっちゅう大会だの遠征だのといって家に帰ってこなくなる。

 おもしろくない。

 対立を好まないナカジは、困惑しきった声で、「一位かなぁ」などと言っている。推測するまでもなくマチが上機嫌なら一位以外は考えられないのだから、至極簡単な問題だ。
「おい、マチ! 勉強しねぇで泳いでばっかいるとハルみたいにバカになんぞ!」
「泳いでなくたってナカジみたいにバカかもしんないじゃん」
「おまえなぁ……」
 マチはへらへらと笑っているが、その斜向かいでナカジは目を糸のように細めてマチを睨んでいる。しかし反駁はできないらしかった。

 確かにナカジはバカだ。成績の悪さとは別の点で、遺憾なく頭の悪さを発揮する才能がある。今日のように飛び込み台の上からわざと落ちて痛い目に遭うのもそうだし、尊大な態度をとって人の反感を買うところもそうだ。アツはナカジのことを物心ついた頃から知っているから慣れているが、万人に好かれるタイプではない。
「ナカジがかわいそうだろ。宿題教えてもらえねぇぞ」
「宿題はアツに見てもらいなさいっておかーさん言ってたもん」
「俺は忙しいの。ナカジに見てもらえ」
「ずるい!」
 ばたばたとマチは枝のような腕をふりまわした。しかし実害はないのでうっちゃっておくことにする。

 薄暗い台所の電気をつけると、流しにボウルと白いまな板がつっこまれていた。よほど慌てていたのか、シンクの中には野菜の皮が散らばったままだし、作業台は濡れている。おまけに台ふきがくたりと床に行き倒れていたのでアツは目を細めた。
 立ち上がりの遅いLEDライトの下、台所はひっそりとしている。ガスレンジ台の上にある大きな銀色の鍋の中におそらくカレーがあるのだろうと見当をつけて、アツは床の台拭きを拾った。リビングではまだマチが文句をわめいており、ナカジがそれの相槌をうっているようだ。二人は精神年齢がほとんど同じだから、放っておけばそのうち仲良く悪巧みでも始めるだろう。
 だが。
 赤いランプが灯っている炊飯器のふたをあける。もわりとたちあがった白い湯気のなかにぴっしりと米粒が並んでいる。十合、育ち盛りの男子高校生が三人もいるの対して、少々不安を覚える量だ。その上今日は帰るのが遅くなると言っていた両親が夜遅くにかるく食事を取るかもしれないと考えると、これでは間に合わない。
 念のため銀色の鍋の蓋をあけ、アツは中身を確認した。こちらはだいたい五人前の量だ。明らかに足りない。鍋の蓋には大粒の水滴がついている。蓋の中に隠れていた弱々しい湯気が薄暗い台所の隅に逃げていった。
「アツぅ! 料理はおかーさんがしてたよ!」
「うるせぇな、とっとと宿題しろよ」
「なにしてんの?」
「焼きそばつくんの」
「勝手に冷蔵庫の中のもの使ったらお母さんに怒られるよ」
「しょーがねぇだろ。これじゃ絶対足んねぇもん。明日補充する。ハルが出てきたら洗濯物ほせって言っといて」
「もぉ! 話聞いてない! そういうとこおとーさんとおんなじだよねっ! アツってさっ!」
 マチの癇癪はいつものことだと右から左に流し、アツは冷蔵庫をあけた。

 外洋に出ていてほとんど家に帰ってくることのない、しかも帰ってきたとしても変わり者すぎてとても会話が成り立たない父親と、市内の研究所で働いていて事故があれば夜でもでかけてしまう母親を持つアツにとって、マチとハルの世話をするのはいつものことだ。ハルはしょっちゅう遠征に出ているのでそれほど世話はかからないが、マチは正真正銘の子供、小さい頃は食事から風呂、寝かしつけまでやってやらなければならなかった。
「三人前……三人前で足りるかな……」
「えっ、ナカジ、なんで泣いてんの? またハルにいじめられたの?」
「今日は水曜日だから……明日はアサヒスーパーが安い日か……ま、キャベツ全部使っても——」
「ねえ、大丈夫? どっか痛いの? 座ったほうがいいよ、絶対座ったほうがいいってば!」

 マチの声のトーンが深刻になったことを察知して、アツは振り返った。冷蔵庫の冷気はすずしく、日に焼けてほてった体にはありがたい。
「アツぅ! ナカジがぁ! 泣いてるぅ!」
「いつものことだろ、ほっとけよ。うっせぇな……」
「でもぉ!」
「今日はしょうがないんだよ」
 でもでも、とマチは喚いた。が、だからといってどうにかできるものでもない。ソファの背もたれに浅く腰をおろしてるナカジは眼鏡の奥の目をいっぱいにひらいて、唇を噛み締めていた。いつものように両手で目をこすることもなく、ただ静かにぽろぽろと涙を落としている。歳の割に幼い顔は頬が赤くなり、そのせいでますますこどもに戻ってしまったようだ。ぎゅっと手を握りあわせているところも昔とまったく同じ——

 ナカジの父親の葬式の日と、まったく同じだ。彼の父親も落水事故で帰らぬ人になった。

 あの頃のナカジはもっと小さくて、ソファの背もたれにこしかけるには大人が抱き上げてやらねばならなかった。でも表情は同じだ。他の誰の声も彼の中には届かない。

「あたしのせいじゃないんだよ!」
「知ってるよ。焼きそば作るから手伝いな」
「でもぉ」
「いいからこっちこい。そのうち泣き止むから」
 ぷくりと頬を膨らませ、マチはナカジに一瞥を送った。しかしそんなふうに覗きこんでもナカジがなにも答えないことくらいわかりきっている。気が済むまでそっとしておいてやるか、暑苦しいハルにまかせるしかないのだ。
「いいから来いって」
「アツさぁ、冷たくない?」
「うるせぇな……しょうがないだろ。目の前で見てたんだから……」
「アツは全然平気な顔してんじゃん」
「平気じゃねぇよ、バカか」

 不意に腹が重くなったような錯覚をしてアツは口をつぐんだ。

 直後はハルが錯乱していたし、ナカジも泣きべそをかいていたのでアツには余裕がなかった。そのあと、部室で待機している間も喚いて感情を発散させるハルをなだめつつ、自分のせいだとべそべそと後悔を口にするナカジに忙しくて、すっぽりと自分の気持ちが抜け落ちていた。キャベツを片手にアツはため息をついた。

 人口が制限されている水青端に生まれるこどもたちは皆、小さい頃からの知り合いだ。時折転出・転入はあるにせよ、ほとんど変わらないメンバーで十七年を過ごしてきたのだから、その中のひとりの安否がわからないとなれば誰だって動揺する。

 だめだ、とアツは奥歯に力を入れた。考えてはいけない、感傷にひたっていると動けなくなってしまう。

「……アツ?」
「…………」
「あれ……どしよ……ハルぅ! ねぇ、ハルぅ!」
 ハルに助けを求めても同じことだろう、とアツは腹の中で毒づいた。しかし、うるさいマチがハルのところへ行ってしまったのならそれはそれでありがたい。ハルは繊細ですぐに喚くが、そのかわり気分の切り替えは早いほうだ。
 鼻をすすり、息を止める。

 動かなければ、とアツは思った。動かなければソウが生きていると信じ込めなくなる。大丈夫という呪文が解けてしまう。動かなければ。

「アツ……」
「ん」
「ソウ、まだ消化、されてないよね」
「たぶんな」
「うん」
「やめな、泣くの」
「うん」

                             つづく

※この作品は全八回です。面白かったらちょいと投げ銭してやってくださいませ。これより下には特にコンテンツはありません。


ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?