DSC_3649_-_コピー

トビングスカイ - 3

 ハルは勉強こそできないがバカではない、と思う。インタビューの受け答えはそつがないし、時々当意即妙なことをいったりもする。そもそもいくら運動神経が生まれつき良くても、国際大会で記録を残すにはそれだけでは足りないはずだ。競技のこととなれば勤勉で努力家で、よく勉強するハルのことをアツはよく知っている。

「えっとぉ、いや、やりかたはわかるよ、バカにすんなって。これで割ればいいんだろ。割り算はぁ、筆算ですればいいんだよ」
「そんくらい知ってるもん」
「じゃぁやれよ」

 あらかた台所を片付け、フライパンの底の焦げを落とした頃にアツのちからは尽きた。風呂から上がったあとは完全に気力がうせ、ソファでぼんやりと時がすぎるのをまっているだけだ。かといって眠気が訪れるわけでもなく、彼はただ、抜け殻になっているだけなのだった。斜向かいのナカジもぽかんと口を開け、見るでもなくテレビを眺めている。
 バカ騒ぎしていたキー局の画面が切り替わり、背景の暗いニュース番組が始まった。幾つかの主要なニュースのあと、「水青端」の名前が出る。

 またあの映像だ。
「あれ? 八十四って七で割れる? えっとぉ」
「七かける九は六十三だろ。無理じゃね。だって七の段は九までだろ」
「あ、そっかぁ!」
 さすがのナカジものろのろと頭をうごかして、リビングの机で額を突き合わせているハルとマチをみやった。いつもの二人のバカなやりとりだ。突っ込むのも面倒くさい。しかも突っ込んだところで二人してアツが間違っていると責め立ててくるのだから始末におえない。こういうことがあるからこそ母親に宿題を見てやってくれと頼まれたことはアツもわかっていたが、今はとにかく気力がないのだった。

「……でけぇよなぁ……」
「え?」
「いや、魚」
 ああ、とナカジは曖昧な返事をした。
 よほど特ダネだったらしく、同じ映像ばかり繰り返し流れている。キー局は映像をカットして魚が出てきた瞬間からしか放送していないが、何度見ても黒い鼻面が水面を割って出てくる場面にはぎくりと心臓が縮むのだった。
「世界で一番デカイ魚って?」
「んーと、シロナガスクジラ?」
「バカ。クジラは魚じゃねぇだろ。やっぱジンベイザメかな……ジンベイザメには見えないけど」
「うん。深海魚っぽいよね。平たいし」

 キャスターはまだ水青端の巨大魚のニュースを読んでいる。地方枠のニュースとしては比較的扱いが大きいようだ。男子高校生が一人行方不明になっているのだから当然といえば当然だが、市役所の災害課にまでコメントをとっているあたり、妙に気合が感じられる。

 ニュースの場面は切り替わり、海底から基礎を築き、強固な堤防で覆われている水青端の模式図が表示されている。水面から見える堤防の高さは内海側で十五メートルだが、海底から計算すると百メートル近くになる。外海側の堤防にいたってはさらに巨大だ。もちろん海中は魚が自由に行き来できる隙間があるにはあるが、内海側は市民の安全確保のために、ある一定以上の巨大な物体が通り抜ければ管理課にアラーム通知がされるようになっており、いまだに巨大魚の存在が確認できていないのは想定外だ。
 あの魚はどこから来たのか? 魚という外見上、地中に穴をほってくぐり抜けるような芸当はできまい。となると堤防を飛び越えて空からやってきたか、あるいははじめから内海に生息していたか——
「全然魚影は見えないよなぁ」
「魚影が見えないのはしょうがないんじゃないの。深いし」
「いや、飛び出してくる直前まで魚影がみえないだろ。どんだけ速く浮上してきたんだってはなし」
 あ、そっか、とナカジは目を丸くしてうなずいた。顔の割に大きなめがねがまた鼻からずり落ちそうになっている。

 風呂あがりのせいかくしゃくしゃになっているナカジの髪の毛は色が抜けたように茶色いが、これは地毛だ。海のそばで太陽をいっぱいに浴びて育っているくせに肌は黒くならず、日に焼けても赤くなるばかりのナカジはどこからどうみてももやしっ子である。だが、そんななりでも遠泳五キロメートルくらいならあっぷあっぷしつつ泳ぎきるのだから、人は見かけでは判断できない。
「波があんまり起こってないんだよなぁ……ナカジが波かぶって落ちるとかしたらもっとなんかわかったのかもしんないのに」
「なんで僕がおちんの?」不意に声を低くしてナカジは鼻の頭にシワを寄せた。その拍子にメガネがずり下がる。「まるで僕が——」
「最後に上がったのはナカジだろ」
「そうだけど」
「すっごいスピードで浮上してきたとする。したらさ、魚の上にある水は全部上に押されるだろ。しかも逃げていくひまがないからちょうど頭上だけ盛り上がることになって、そのかわり引っ張られた分、ちょっと離れたところの水は引く。んー、わかんねぇな。マチ、いらない紙ない?」
 なにかふたりで言い合っていたハルとマチがさっと顔をめぐらせてアツを見た。宿題はそっちのけだったらしく、ノートの切れ端と思しき紙を折っている。
「え、ないよ」
「それはなんだよ。今手に持ってるやつ」
「えっとぉ」あからさまに目をおよがせ、マチはそそくさとノートを閉じた。「これはぁ、なんだろうなぁ」
「なんだろうなぁじゃねぇよ。チクられたくなかったら一枚よこせ。鉛筆も」
「そーゆうのいけないんだよ。キョーハクだよ、不良がすることなんだよ、先生が言ってたもん」
「お前、まさか学校で脅迫したんじゃないだろうな」
「してないよ!」
「ほんとかよ……いいから一枚くれ」
「もうっ! しょうがないなっ! 今回だけだからねっ!」
 はいはいとおざなりに返事をしてアツは手を伸ばした。器用にノートを一枚切り取ったマチはデコデコと飾りのついた鉛筆を一本添えてエビ反りになる。頬杖をついているハルは目を丸くしているだけで、完全に他人事だ。

「えっと、それでどこまで行ったっけ? ああ、そっか。浮上する時だ」
 うん、といつの間にか身を乗り出していたナカジが律儀に返事をした。普段は気が抜けるようなことを言ったり、腹のたつ余計な一言を付け加えねば気が済まないナカジだが、こういう時はいい聴衆だ。ハルではあっという間に飽きてしまうし、マチは子供過ぎて意味を理解できない。母親がいれば聞き役になってくれるが、父親の場合は訳の分からない持論を展開し始めて、急に職場に行ってしまったりするし、とにかくナカジはアツの話を聞いてくれる貴重な人物なのだった。

「魚は直方体とする」長方形を書いてアツは宣言した。そして長方形の上に直線を引く。「で、これがプールの水面。魚は上の方向に泳ぐ」
 長方形と水面の間の空間二車線を引き、アツは上向きの矢印を書き足した。
「ここが上に動くの?」
「うん。それ以外ないだろ」
「でも水だし、横に流れてっちゃうかも。液体だし」
「液体でもなんでも力がかかる範囲はここだろ。で、速度vで浮上してるとすると⊿t秒後、この領域はv⊿tメートル上昇する。すると、水面は連続体だからなめらかに盛り上がるはず。ただし摩擦とか粘性とかは無視する」直方体が含まれるように水面の直線上に曲線を描く。そして飛び出た分の領域に彼はふたたび荒い射線を引いた。「そうするとこの部分の体積が急にどっかから現れたことになるから、実際はその分をどこかから取ってこないといけないよな。ふくらんだところは中心の速度が遅い点に向かって動いてるから、そっちに向かって表面張力がかかるから、逆側にも力がかからないと平衡状態にならない。その時に、えっとぉ……水面は下がるのかな?」
「……なんかわかんなくなっちゃった」
「俺もよくわかんない。あと摩擦は無視できないよな。上方向に水が動いているならそれの反対方向の力がかかってるはずだから、魚の周りには下降水流が発生するはず」はじめの直方体の両側に下向きの矢印を書き足し、アツは唸った。
 高校物理の範囲ではこれが限界だ。
「……俺、なにが知りたかったんだっけ」
「いきあたりばったりは良くないと思うけど」
「うるせぇな……えっとぉ俺はなんで波が起きなかったかってことを知りたいわけで……」
「それだと波みたいに見えるよ」
「うん……」
「それに水はさぁ、こんなふうにもちあがんなくない? 絶対横に流れちゃうよ、だって水なんだから」
 横に、とくりかえし、アツは矢印を書き加えた。直感的に下から持ち上がる水が横に流れるように斜め線の矢印になったがナカジはそれで満足したようだ。
 しかし、ナカジが満足しても問題は解決しない。

 アツは口をむすんで、事件の場面を思い浮かべた。あのとき、アツはソウを、正確には飛び込み台を眺めていた。飛び込み台の白い壁に水紋がうつり、まるで飛び込んだ直後のように——
 そうだ、と彼は視線を戻した。あのとき、おかしいと彼は思ったのだった。実際飛び込んだ直後と同じように同心円状の模様ができたのは、魚が急浮上していたためだし、同心円状の影になったのはアツが紙にかきだしたように水中に複雑な力が加わったからだ。しかしそれはプールの端までは波及しなかった。なぜなら。
「どっかで打ち消し合って消えたから、か……」
「なにが?」
 違う、と頭の中でアツは否定した。彼が求めているのはプールの端に波が起きなかった理由ではない。波が起きなかったことに関してなにか引っかかったことは確かだが、理由がわからなかったせいだけではないのだ。
 ではなにが引っかかったのか?
「どったの」
「またアツがしゃべんなくなっちゃった」
「いつものことだろ」
 ナカジに対しては兄貴風をふかせるハルはケケケと喉の奥で笑い声をたてた。たぶんそろそろ彼は柔軟体操と筋力トレーニングをはじめるだろう。そしてナカジもそれにつきあわせるはずだ。アツはマチの面倒をみなければならない。宿題の残りをたしかめ、明日の学校の準備をさせ、それから——
 違う、と彼はまた思った。なにかがひっかかる。喉元まで出かけているのに、イメージが像を結ばない。波の立たなかった水面、ハルのふざけている声、それに近いなにかだ。ナカジは関係がない。関係がないということは家の中のことか?
「アツは頭いいもんなー、ナカジと違って」
「アツのことほめたってハルの頭はよくなんないよ」
「うっせえ、俺だってちゃんとやればできるし」

 違う、と三度彼は否定した。あのとき、彼はアツではなかった。アツと呼ばれなかった。あのとき——あの時とはどういうことだ?
 口の中に人差し指の第に関節を押し込んで、彼は唸り声をあげた。頭の中に枯れた霧が立ち込め始めたような気がした。確かに彼はあの時「アツ」ではなかった。小さい頃はハルとまとめて「アツハル」と呼ばれることが多かったから、「アツ」と呼ばれたことを不思議に思ってふりかえったのだ。なぜハルは呼ばれなかったのかとなかば憤りを持って、反抗心でそこにいた人物を睨みつけた。

——アツト。

 うわ、と思わず声をもらし、アツは鉛筆を放りなげた。首筋から背中まで冷たいものが駆け抜けたような錯覚をした。
 アツト。アツの名前だ。学校の教師からさえアツと呼ばれるので、大会や自分の名前がよばれるとどうにも違和感を覚えるほどだ。そしてそのたびに彼は不思議な気持ちになる。ハルの名前が「HARUTO SHIMIZU」と表示されていても、表彰台の上で彼が名前を呼ばれていても全く驚かないのに、なぜ自分のときだけは違和感があるのか? そんな彼を「アツト」と呼ぶのは一人しかいない。
 父親である。

「あれ? 寝てたの?」
「寝ながらむっかしいこと考えてたんじゃねぇの。な、俺そろそろ夜のメニュー片付けないといけないんだけど交代してくんねぇ? おい、アツぅ、きいてる?」
 アツは聞いていなかった。それよりも頭の底から浮上してきた記憶のほうが重大だったせいだ。
 これは嫌な記憶だ、と頭は言っている。父親が関係する記憶で楽しかったものなど一つもない。だいたい彼がアツを呼ぶなど悪い予兆としか思えないではないか。
「ああ……こりゃ無理だなぁ……マチはもう寝ろ。夜更かししてたらかーさんに怒られんぞ」
「やだよ。ドラマみるんだもん、今ねぇ、クラスでねぇ、すごいんだよ」
「あっそ。俺は夜のトレーニングやっつけてくる」
 ちらりとナカジが視線をよこしたことはわかっていたが、アツは背中を丸めたまま動かなかった。もう少しで頭のなかの靄に触れるような気がするのに、輪郭がつかめない。一瞬これだと思ったものが遠ざかり、断片的な情報が入り乱れて混乱状態が加速しているようだ。

「ねぇ、ナカジはトレーニングしないの?」
 どすどすとハルが無遠慮に足音を立てて寝室へ引き上げていった。これから筋トレと柔軟体操をして、もう一度シャワーを浴びてから寝るのがハルの日課だ。飛び込み競技は端で見ている以上に足と上半身の筋肉が必要で、世界で戦うためにはそのトレーニングが欠かせないのである。
「うん……僕はぁ、やってもつかないから……」
「なにが? 筋肉? だからだめなんだよぉ」あっけらかんとマチは言った。たしかにそのとおりだが、正論を叩きつけられても埋められない才能の差があることに気づくほど、彼女は大人ではないのだった。「アツも全然やんないんだよ! だからハルと違ってさ——」
「アツはぁ、飛び込むの怖いってのをどうにかしないとどうしようもないんだよ」

 額を指で叩いて悩んでいたアツはちらりとナカジをみやった。
 飛び込み部の部員はみな仲がいいが、そのなかでも家族ぐるみで付き合いのあるナカジとアツ、ハルの三人組は特につるんでいることが多い。たいていはナカジが怪我をしたりドジを踏んだり、時々誰かに小突かれたりして泣いているのを二人が慰めることで時間は費やされるが、しかしナカジもナカジなりにアツやハルのことをよく見ている。

 飛び込むのが怖い。
 高飛び込みの選手にとって恐怖心は重要なファクターだ。あのハルだって十メートル台はまだ怖いというが、どんな選手も必ず高所から落ちる恐怖とは向き合わなければならない。しかもどれだけ練習を重ねても着水で失敗することはあり、そのせいでけがをすることがある。怪我をすれば飛び込みのたびに恐怖を感じるようになるかもしれないし、周りで見ている部員でも影響されることもある。アツは特に、飛び込みを怖がっている一人である。
 原因は怪我ではない。怪我をした誰かを見たからでもない。小さい頃からずっと、落ちるのが怖いのだ。
「ナカジはぁ? この間は最下位だったんでしょ」
「あれはぁ、うまく回れなくてぇ……」
「回れないのは鍛えかたがたりないからだってハルが言ってたけどなぁ」
「それはぁ、そうだけどぉ……でも僕、落ちるのが怖いわけじゃないしぃ」
「じゃ、筋肉つければいいじゃん」
「そうだけどさ……簡単じゃないんだよ。体質もあるし」
 ふうん、とマチは小馬鹿にしたように相槌を打った。ナカジの説得力皆無の発言も問題が、マチのこの態度も問題だ。アツはため息をついてたちあがった。これ以上じっと頭を抱えていてもしかたがないと見きったのである。

 開け放した窓から潮のさざめきが聞こえる。
「ナカジ、なんか飲む?」
「うん」
「麦茶でいい?」
「うん」
 あたしものむぅとマチが腕を振った。机の上には紙片が散乱しており、下手な落書きが書き込まれているようだ。アツはため息をついた。
「ちゃんと宿題やったのかよ……」
「やった!」
「なんか怪しいこと言ってなかったかぁ?」
「でもハルが見てくれたもん」
「ハルが算数なんかできると思うのか?」
「できるでしょ? 高校生だよ」
 冷蔵庫をあけると冷気が流れ出してくる。アツは肩をすくめ、麦茶ポットをひっつかんだ。夕食後に補充はしておいたが早くも残量は半分、新しく麦茶を水出しせねば絶対に足りない。
「……かーさん、帰ってくんの何時だって言ってた?」
「えっとねぇ、遅くなるって言ってたよ」
「そうだろうけど何時になるとかさ……ナカジはどーすんの? 泊まってく? 泊まってけば?」
 ソファの背もたれに顎をのせ、ナカジは目をきょときょとと動かしている。いつもならすぐに首を縦にふる軟弱なナカジにしてはめずらしいことだ。アツは口をとがらせ、彼に向かってグラスをつきだした。
「……んーとぉ、アツのおじさんはどこに寝るの?」
「ああ、そっか、親父帰ってきてんだった……ま、ソファで寝るんじゃねぇの?」
「んー……でも悪いから……」
 もごもごと口を開いたナカジは言いよどんだ。ほんとうのところ泊まって行きたい——一人で夜を過ごすのが寂しいのだ——のだが、だからといって帰るとも主張できないのが彼の悪いところだ。
 いじわる心をつい刺激され、アツは目を細めた。
「で?」
「えっとぉ」
「どーすんの?」
「……んっとぉ……」
「自分で決めな」

 が、アツのいじわるはそこまでだった。
 ガチャン、と玄関で不穏な音がする。がちゃがちゃとさわがしい金属音を立てた扉は耳障りの悪い音を立ててあいた。と、同時に母親の一方的なおしゃべりが始まる。
「あ、おかーさんだ! おかーりー!」
「ただいまぁ。あら、マチはまだ起きてんの?」
「ドラマ見るのぉ。いいでしょぉ、あたしだって六年生だよ。起きてられるもん」
 ほっとしたように肩の力を抜いたナカジはさすがに顎をソファの背からもちあげ、玄関の方へ顔をめぐらせた。
「あら、ナカジくん。ご飯食べた? シャワーは?」
「えっとぉ」
「泊まってくんでしょう。お母さんに連絡した?」
「まだです……」
 これだ、とアツはあきれてナカジを睨みつけた。こうやってなんでもかんでも決めてもらえるから、ナカジはいつまでたってもアツとハルのあとをくっついて回っているのだ。高校卒業まではそれでいいとしても、その後は一体どうするつもりなのかとひとごとながらアツは憤った。
 ハルは間違いなくどこかの大学で飛び込み競技を続けることになるだろうし、アツは大学へ進学するつもりだ。しかしさして成績優秀でもなく、選手としての実績もなく、かつ本土で一人暮らしができるほど裕福でもないナカジはたぶん、採掘の作業員か調査員として就職することになるだろう。いつまでも二人のあとにくっついているようでは彼のためにならない。
「お父さん! あれ、お父さんは?」
「しんない」
「もう、お父さん! なにやってんの……え? なに? バスルームじゃだめなの? 湿気? だから置いてくればいいって言ったのに、ベランダでいいでしょうよ……」
「いやぁ、ベランダだと飛び出しちゃうかもしれないしなぁ……」
「じゃぁ枕元においとけば? 今日はナカジくんがとまっていくからソファで寝てよね」

「ああ、アツト」
 ガラスのコップを戸棚から出して数をかぞえていたアツはぎょっとして声の方を振り返った。

 まただ。

 また、喉元まで正体の掴めない記憶が登ってきている。

 口をあまり開けずにしゃべるくせのある父親の言葉はいつもくぐもっていて、しかも自分の好きな話となると一方的に言葉を履き続けるマシンガンになる。いつもその標的にされるアツは、できるだけ父親に近づきたくなかった。
「おかーさん、ご飯食べるぅ? アツがねぇ焼きそば作ってた」
「あら、足りなかった? 全部食べちゃっても良かったのに……ま、でもちょっとおなかすいちゃったしもらおうかな」
「いーよぉ」
 アツは顔をしかめてマチを睨んだ。雲行きが怪しいことをいち早く察知するマチがうらめしかった。なにより両親が帰ってくる前にさっさと部屋に引っ込んで筋トレに励んでいるハルのことはさらに許せない。
「お父さん、遊ぶのは先に着替えてからにしてよ。絶対汚すでしょ。喪服はクリーニング代高いんだからね」
「ああ、でもこいつはどうしよう……」
 右手の人差指の背でメガネを持ち上げたナカジがぐい、と首を伸ばした。アツの目の前を走り抜けていったマチは上機嫌に母親にはなしかけている。父親と話したくないのである。
 一年のほとんどを調査船ですごす父親のことを、マチは知らないおじさんだと言っている。概念的に父親だということは理解しているようだが、彼女にとっての父親役はアツやハルだ。しかしアツとハルにとっての父親は少し違っている。彼らが小学校に上がるまで父親は陸上で働いており、一緒に過ごした時間が長いからである。もっとも会話が咬み合わないのは昔から、声をあらげることはないがなにごとにも至極マイペースな父親はハルよりも子供っぽいから、ものごころついたころからアツは父親のことが好きではなかった。
「それなんですかぁ?」
「あ、ナカジくん。こんにちは」
「こんばんはぁ」
「これはねぇ、見る? これ、ちょっと壊れやすくてね、昔アツトには見せたことがあるんだけど、今日ニュースを聞いてたら思い出して……」
「ニュース?」
 ああ、と顔をしかめ、アツはグラスを机の上に置いた。こつん、と音をたてたグラスはすぐに静かになり、わざとはしゃいだ声をたてるマチの声がその上にふたをする。ゆらゆらとゆれる麦茶の水面がある。

 また、水面だ。
 あの時も水面は静かだった。

「そうそう。こういうことは解決が早ければ早いほうがいいからね、気づいてるなら問題なかったんだけど状況からしてこれしかないだろうと思って、だけど水中監視のコアコントロールパネルにアクセスしたりだとか監視カメラを見たりだとかはいくら昔職員だったからって言ったってなかなか許可はもらえないし、とにかく——」
 なんの話だといわんばかりにナカジは目を丸く開いている。すこし頬が膨らんで見えるのはいつものことで、別段ふてくされているわけではない。だんだんしゃべるスピードが上がってきた父親の言葉は彼の耳に半分も入っていないだろう。アツは鼻から息を吐き、右掌で机を二度叩いた。
「で、なに持って帰ってきたんだよ、いちいち話がなげぇなっ」
「アツ」
「だって長いんだもん」
「だからってそんなきつい言い方することないでしょうよ……え? さっきまで死んでたの? あ、そう、あんた、もしかして反抗期? やだわぁ」
「ちげぇよ! うっせぇな」
 視界の端ではナカジが首を突き出している。アツの悪態などにはまったくこころをかき乱されない鉄面皮の父親はといえば、彼に向かって両手を突き出している。顔は笑みをたたえて輝いており、話を聞いてくれる人間がいることがうれしくてたまらないという顔だ。犬のように鼻の先でつん、と空中をつついたナカジがぱちりとまばたきをする。

 あの時もそうだった。
 ほとんど反射的に差し出された手のひらの中身を覗き込もうと、彼は顔をつきだしたのだった。顔の先頭にあるのは鼻だ。だからいつだって鼻は犠牲になる。油が飛んできたり、泥をかぶったり、とにかく尖った鼻はそんなふうに可哀想な偵察隊の役目を担っているのだ。彼はあの時それを思い知ったのだ——
「あ——!」
 父親の手の甲はやわらかく弧を描いている。親指がしっかりと手のひらの割れ目を塞ぎ、中にあるものを隠している。その暗闇の中で牙を研ぐ、本当は恐ろしいものを隠している。そしてまるでそうとはさとられないようににこにこと笑顔を顔に貼り付けて、「なんだと思う?」と白々しく尋ねるのだ。あの時もそうだった。思い出した!

 前のめりになったナカジの頭が後ろに吹き飛んだ——ように見えた。アツは走った。無我夢中だった。大して広くもない部屋のはずなのに、ナカジが遠ざかっていくような錯覚をする。彼の可哀想な鼻面めがけて黒い影が飛び出してくる。飛び出してくる。飛び出してくる——

「ナカジ! あぶない!」


                            つづく


※この作品は全八回です。面白かったらちょいと投げ銭してやってくださいませ。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?