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トビングスカイ - 5

「なんでなんともなかったのにアツが死んでるの? ねー、邪魔ぁ!」
「ほっとしたんでしょ。それより宿題は終わったの? ドラマ見たら寝なさいよ」
 腹がぐるぐるする、と目をつむったままアツは思った。壁を隔ててハルが明るい声で誰かと話しているのが聞こえる。多分部員の誰かと電話で話しているのだろう、声はすっきりと晴れわたり、時々笑い声もする。ソウが無事だとわかった途端すっかり元気になってしまったのだ。
 アツも安堵を誰かと分かち合いたかったような気がするのだが、腹がぐるぐると唸ってトイレとソファの往復しかできない。しかも第一報の直後に胃の中のものを全部吐き出してしまったので、猛烈に腹が減っている。
「いやぁ、ニュースの映像を見た時にこれは絶対って思ったけど、すぐに見つかってよかったなあ」
 はあ、とナカジが締まりのない相槌を打った。ハルともアツとも違って、彼は安心と同時に腹が減ってきたらしく、カレーライス四杯目に挑戦中だ。
「あれってあれじゃないの? なんで内海にいるんだか。ノナカさんとか明日大丈夫なのかな」
「今、外洋向けの検証テスト中で内海に入れてるってさっき言ってたよ。外洋だと一般船舶だけじゃなくて作戦中の艦船もいるからぶつかったら大変だし、クジラにぶつけたら大問題だし、長安試験なら内海のほうがいいんじゃないかな。本格的な検証ってなると船尾から船首まで五秒以内に移動してしかも推定時速二百キロメートルで向かってくる物体を受け止めるとかするから多分内外洋でやると思うけど——」
「でもだからってなんで高校のプールに入り込むわけ? 穴空いてたの? 空いてたんなら公団の非だけど、あーあ、ソウくんのお母さんにあとで電話しなくちゃ」
 ぼそぼそと口の中で言い訳をして父親は黙り込んでしまった。高校のプールに入り込んでいたのは確実に誰かの落ち度だったということだろう。そして父親はそれには興味がないのだ。

「でもぉ、なんでアンコウなんですか?」
「え? 知りたい?」
 ああ、とアツは声に出さずにため息をついた。ナカジもバカな相槌をうたなければいいのに、あれでは完全にターゲットにされる。
「みてごらん。口が、ほら、上向きについてるだろう。今回は飛び上がったみたいだけど、飛び上がらなくても口を開けて待っていればかなり広い的になって人間を受け止められるんだ。それと、この体は結構弾力があって、よく伸びる。見えるかな? ここが伸びて袋状になるんだよ。袋の中にしっかり人を保護して、安全に陸地まで運んでいけるようにこうなってる。これは模型だから人間は飲み込めないし、昔のタイプはちょっと違うんだけど——」
「クジラのほうがでかく見えるんですけど……」
「ああ、クジラね。クジラもいいんだけど、場所を取るし、他の船や設備にぶつかりやすくてね。あと座礁されると困る。こいつは平たいから浅瀬に入っていけるし、体が引っかかってもクジラよりは脱出できる確率が高いんだよね。あと船体にぴったり張り付けるしそれに空気抵抗が少なくて——」

 ぐるぐると落ち着かない腹を抱えてアツはため息をついた。
 父親が持ち帰ったのは、魚型落水者救助艇の模型だそうだ。魚——というよりもアンコウそっくりの面構えをしており、内部にはクッション材と人間を保護するための構造が収まっているらしい。今回ソウが襲われた——というより救助をされたのは、高飛び込みの飛沫を落水と認識してしまったかららしかった。つまりは、ソウの直前に落水したナカジのせいで、救助艇がプールに侵入したというわけだ。
 高校の高飛び込み用プールに侵入してしまった理由はわからないが、とにかくソウは救助艇に飲み込まれ、海中を運搬されていたらしい。ニュース映像をみた関係者が試作機であることに気づいて海浜公園をゴールポイントに指定したので、彼はそこで発見された。

 事情は理解した。
 理解したが、もっと重大なことを忘れている気がする。

「これってぇ内海にもいるんですか?」
「これは内海用だね。内海は船舶の往来が多いし、入り組んでるから大きな救助艇を放つと事故が起きるかもしれない。もちろん避ける機構はあるけど、もしもってこともあるからね。それにヒレが大きいから、ちょっとぶつかるだけでも船に穴が空くかも」
 ああ、とナカジは気の抜けた返事をした。
「内海は波がたたないし、海流もないからどこかに流される心配がないだろう。だから浮袋になるか、引っ張り上げて海浜公園あたりまで連れて行くもののほうがいいんだ。これは歯がないタイプで、救助対象者を見つけたら服にかみついて泳ぐようになってるんだよ」
「へぇ」
「救助対象者がなにかに絡まってて救助できない時用に、ものを噛み切る用途のやつもいて、そいつはすごい歯がついてるけどね」
「えっ」
 ぐるぐると腹の主張がまた激しくなっている。しかしアツは思った。この違和感、なにかと思っていたが既視感によるものだ。
 濁った白い目が彼を見ていた。
「いやあ、前にアツトに見せたときはびっくりして桟橋から落ちたから、今回は歯なしのを持ってきたけど、やっぱり持ってくればよかったかなあ」
「桟橋から落ちた?」

 ふいに母親が声を放った。トーンがいつもよりも低く、反射的にぎくりと腹の底あたりがこわばる。アツはおそるおそる目をあけてソファ越しに様子を伺った。

 桟橋に行ったことは覚えている。退屈していたのも覚えているし、父親に名前を呼ばれ、魚のせいでなにか嫌なことがあったのも思い出せるのに、その先が思い出せない。父親はもしかして覚えていたのか?
「聞いた覚えないけど」
「あ、いや、昔の、こと、で」
「昔? 昔にアツが桟橋からおちたってこと? あなたのせいで?」
 やば、と小さくつぶやいてマチがソファから滑り降りた。ついでにテレビの音量も少し下げる。足は遅いくせに逃げ足は妙に早い。
「聞いてない。どういうこと。いつよ」
「えっと、その」もごもごと父親は言い訳した。隠していたことを完全に忘れていたらしい。

 桟橋とはおそらく海浜公園の桟橋のことだ。水面から五十センチメートルもないので落水してもたいしたことはないが、水深は深いので幼い子供が落ちたときは即座に引き上げてやらねばならない。もっとも浜から泳いでいけるし、泳ぎのうまい水青端の子供なら事故になることはめったにないだろう。
「いつ」
「……マチが生まれる前に……母さんが入院しててアツトもハルトも退屈してたから……」
「あきれた」
「いやあ……ハルがすぐに……」
 ハルがぁ? と母親が素っ頓狂な声を出したのであわててアツとマチはソファの影に隠れた。この状態からはどんなとばっちりが来るかわかったものではない。姿を消して気配も殺し、とにかくおとなしくしていることだ。
 それに——
「だからあなたに子守を頼むのは嫌なのよ! マチが生まれたときって言ったらアツハルはまだ五歳でしょうよ! もしものことがあったらどうするつもりだったわけ? なに考えてんだか」
「うん」
「うんじゃないの!」
 ハルが、とアツは眉間に手を当てた。

 濁った白い目はハルではないはずだ。かといって父親でもないだろう。桟橋から落ちた彼を救助艇が浮きとなって海面におしあげたとしてもどこにハルの要素があるのか?

 でも、ハルの声を聞いたような気もする。

 水の温度は低く、腕にまとわりつく泡がゆらゆらと揺れなが、静かな海面に向かって上っていくのを見ていた。腕をかけば体が浮き上がることはわかっていたが、彼は動けなかった。引きずり込まれるように、深く暗い海の底へと体が沈む。海面は遠く、冷たい水が足首を掴んで——
 違う。
 そうではなかった。
 アツの腕を誰かが掴んでいた。力強く水をかいて空を目指していた。頑強な意志を持って静寂の中を泳ぎ、空を仰いでいたハルが——

 バツン! と鼻先で火花が散った。いや、鼻が火花を散らしたのかもしれなかった。これは危険だとしらしめるために、神経が発火したのかもしれない。
 とにかく火花が散ったのだ。アツは悲鳴をあげ、とっさに飛び下がった。実際には体が先に動き、脳が飛び下がったと判断したに過ぎなかったが、六歳の彼にとっては順序の違いなど些細でどうでもいいことだった。問題は飛び下がった先に地面がなかったことだ。
「アツト!」
 きゅっと髪の毛が逆だった錯覚をした。彼はしゃにむに腕で宙をかいたが、重力がしっかりと背中を掴んでいた。
 落ちている。
 一回、二回、まぶたの影が視界を覆い、そして光が消えた。泡はまだ彼にしがみついているのに、冷たい塩水が一息に体の中に流れ込んでくる。ぼやけた視界の中、暗い水の底が抜けていることだけがわかった。腕が目の前を横切る。なにもつかめない。手応えがない。口からも鼻からも水が侵入する。泡が視界を遮り、上下の感覚がわからなくなる。
 濁った白い目。暗い水の中、ぼやけた視界の中でも白い鋭い歯が光っているのが見える。アツを取り囲み、噛み付こうとするなにかに彼はパニックになった。

 沈んでしまう。

 暗く深い死の淵に沈んでしまう。

「アツ!」
 水の上から、彼を呼ぶ声が聞こえ、アツは我に返った。体をすっぽりとつつむ水の中、耳の中でコポコポと泡がぶつかって音を立てている。水面には黒く丸いなにかが円を描くように泳いでいるが、その軌跡をぶち壊して黒いものが飛び込んでくる。
 ハルだ。彼のまわりに黒いものがまとわりついているが、それを払い除けてハルはしっかりとアツの腕を掴んだ。からだに浮力が戻り、音が近くなる。
 アツはもがくのをやめた。水はおとなしくなり、彼の手のひらの中にある。揺れる白い泡はもう不吉な音を響かせてはいない。彼は海の子だった。他の子どもたちと同じように、海に抱かれて育つ水青端の子供なのだった。

                            つづく

※この作品は全六回完結の予定です。面白いなとおもったらちょいと投げ銭してやってくださいませ

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