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冬の日に~宮本浩次「秋の日に」に収録された6曲についての勝手な見解~

 先頃、私の尊敬し敬愛する歌手、宮本浩次氏がミニアルバム「秋の日に」をリリースした。氏の歌唱力は元より、楽曲の構成、アレンジ、演奏、どれをとっても比肩するものが無く、全体から国士無双といった風情が漂っている。宮本氏は若い時分すでにその才能が花開いていたが、私のように最近ファンになった者からするとその若き日は未だ六分咲きだったのではないか、と思われるほど、56歳の今、花盛りを迎えているように思える。その宮本氏が本アルバムに選んだ6曲が、いかにして氏の感情に訴えかけ、また、それらをどのような意図を以てして組み入れたのか謎を紐解くため、素人が全く調査なしにそれらの歌詞について意味合いや情景を想像し、勝手に解釈してみるという形で進めていこうと思う。

①「あばよ」作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


 この歌詞の中で「あの人」と呼ばれる人物は、おそらく付き合いたての頃は優しい言葉や素振りで近づいてきて女性をことさら喜ばせていたのだろう。人は、気に入った相手に取り入るためならば誰もが最初は優しく振舞うものである。しかし、付き合う内に段々と他の女性に目移りし、自分の手近にあるものが古ぼけて見えてくる。男性(に限らずだが)は、他人より優れていたい、他人に自慢したいという欲求を少なからず持っている。突き詰めていうと、アクセサリーとして女性を存在させる傾向がある。その反対に、女性は男性に真心を求めている。女性は深層心理の中で、いつかは他人に相手を取られてしまうのではないかという不安を常に抱えている。そのような不安と疑いを心の奥底に抱きながら、相手を想っているのである。その前準備があるから、いざ相手が別な女に心変わりして冷たくされた時に「何もあの人だけが世界中で一番やさしい人だとかぎるわけじゃあるまいし」と強がりを言って自分を慰めるのだ。そして、そんな女の気持ちを踏みにじるかのように非情にも男は連絡を絶つという卑怯な引き際を決めるのである。男が考えた話し合いを避ける手段は、説明下手で面倒くさがりな自分は横に置き、どうせ物理的に距離を取れば女の方から諦めて離れていくだろうという小賢しい算段の賜物なのだ。物事は説明すればするほど深みにはまってしまい、刃傷沙汰に及ぶ可能性も考えられるのでそのような逃げの一手も人間の弱さだと思ってしまえばそれまでだ。女からしてみれば、何故置き去りにされたのか、また、今後どのように行動すればよいのか、地獄のような不安に襲われたことだろう。その結果の「泣かないで泣かないで私の恋心」なのである。人生には一体、いくつの孤独の種類が存在するのだろうか。たった一人で生きてゆく孤独もあるが、愛した人が去ってしまった孤独はさらに孤独の度合いが色濃い。恋とは自分が主軸である。対して、愛は相手が主軸である。恋を失うと書いて失恋というが、愛を失うのは何というのだろうか。恋は不如意なものである。「百年の恋も冷める」というのも、自分を軸に考え、相手が自分の抱いていたイメージと相違していることで生ずる心の現象だ。恋とは斯様に即物的な側面を持ち合わせている。

②「飾りじゃないのよ 涙は」作詞:井上陽水 作曲:井上陽水

 井上陽水氏の言葉選びのセンスは一瞬ドキリとさせられることが多い。「私は泣いたことがない」、この一行で、この主人公の背負ってきた人生が壮絶で悲壮なものに思えるから不思議だ。誰かの車に乗って乱暴な運転をされても、赤いスカーフに目をやり、まるで恐怖よりもその先の宵闇や死を見つめているかのようだ。彼女は、人間同士の繋がりを一過性のものと捉え、自分の生さえもいずれは消えると割り切っている。その一方で、いつかは自分も本当の恋をし、目の前に心を曝け出せる恋人が現れることを願っている。ただ冷めて投げやりに生きているわけではなく、真実の愛を求めながら表面的な人間関係の中でやり過ごしているだけなのだ。「飾りじゃないのよ涙は」のくだりは、彼女は自分自身に言い聞かせている。お金で手に入る真珠やダイヤの宝石のように涙は綺麗なものではなく、それまでの苦しさや悲しさをも材料にして輝きにする。そんな自分のすべてが込められている涙は本当に愛する人にしか見せないと心に決め、今日も彼女はどこかで人生を送っているのだろう。

③「まちぶせ」作詞:荒井由実 作曲:荒井由実

 この曲は、私が幼稚園児だったころにテレビで聴いた覚えがある。当時は石川ひとみさんが「プリンプリン物語」という人形劇の主人公の声をやっていたこともあり、素敵な声の持ち主だなあと思いながら観ていた。しかし、大人になり、この歌詞の主人公の情念の強さや、相手に面と向かって好きと言わない代わりに思わせぶりな態度で誘導し、更には帰り道で偶然を装って待つ、といった今だと犯罪スレスレの恋愛手管が人々から怖いと言われていることを知った。しかし、考えてもみると、相手が一体誰を好きかなぞSNSをやっているわけでもなければ、探りを入れる勇気もないところで知る由もなく、どうやって相手に近付けというのだろうか。主人公の心中お察しします。どうやら、普段遊んでいる仲間の女子が自分と同じ人物を好きで、しかも、人目に付きやすい喫茶店で抜け駆けして二人で微笑み見つめあって楽しそうにしている所を目撃した。そういえば、この頃お肌や髪の毛はイキイキつやつやしているし、服装もおしゃれになった。理由が判明して愕然としている自分。でも、絶対に諦めない、友達と戦っても彼を自分のものにしてみせる!・・・恋の鞘当て勃発である。こうやって逐一解読すると、この主人公の精神は強靭そのものである。私ならば多分、潔く諦めるだろう。大体、付き合っている訳でもなければ、仄めかされた訳でもないのに、別の人がくれたラブレターを見せてどうなるというのだろうか。この主人公は本当に相手のことが好きなのだろうか。本心では、勝負の行方は分かっている。だから、何度も「もうすぐわたしきっとあなたをふりむかせる」と呪文のように唱えるのだ。

④「DESIREー情熱ー」作詞:阿木燿子 作曲:鈴木キサブロー

 非常に軽快、ダンサブルな曲である。中森明菜さんここにあり、といった作品である。当時の衣装も、とても印象的だった。私の中で、中森さんは「セカンド・ラブ」での印象が強かったが、その後、少女から大人へと変貌を遂げた。この曲から垣間見えるのは恋の倦怠期だ。私は恋愛経験が少ないので何とも言えないが、恋愛は会話、即ち言葉が重要なポイントだ。相手を退屈させないように世間話や流行、趣味や自分の夢を語っている内は上り坂である。しかし、一旦下り坂に差し掛かると、話題にも事欠き、無為な時間がやってくる。もしかするとこの男性は他の女性と浮気をしており、スキャンダルが主人公の耳に入ったのだろうか。それまでの情熱が徐々に冷めていく感覚に孤独を抱きつつも、恋を再び燃え立たせようと「Get up〜Burning love」というフレーズが頭をよぎる。彼女は、皆が笑いさざめくディスコで気不味い雰囲気に陥り会話が途切れた相手をよそに無我夢中で踊る。恋に溺れきることができないリアル、そして終わり始めた恋を忘れるために。

⑤「愛の戯れ」作詞:橋本淳 作曲:筒美京平

 一人きりの部屋で、ベッドに顔を埋めて相手のついた嘘に気付いて泣く女。男性は基本的に嘘が下手である。女性はそれを敏感に察知する。女の勘は鋭い。そんな事を知ってか知らずか、男は女に接吻をする。男にしてみれば罪滅ぼしのためか、または嘘が未だばれていないと思っているのだろうか。いつもならばタバコの香りでさえ愛しいのに、今日は一層、苦く感じるのである。昨日まで二人の頭上には青い空にカナリヤが飛んで美しく鳴いていたのに、真実を知った今、曇り空にもうカナリヤは鳴かなくなってしまった。ああ、いっそのこと私はこの男に言ってやりたい。「もう少し上手に嘘をつけ」と。嘘というものは便利なようでいて罪深い。嘘に気付いても相手を失うことを恐れて話を切り出すことが出来ずに一人ベッドで音楽を聴いて泣いているのに、当の相手は呑気に「一日中突っ伏して寝ていて愚かなものだ」とのたまうのである。

⑥「恋におちてーFall in loveー」作詞:湯川れい子 作曲:小林明子

 切なさ、とは人間の精神の中のどの部分から生まれる感情なのだろうか。逢いたいのに逢えない、ずっと一緒に居たいのに居られない。そのように、事情のある不安定な状況下における男女の心情は古くは源氏物語から連綿と続いている。不倫、不貞は良くないもの、という社会通念があるからこの物語は成立する。おそらく、江戸時代は不義密通は完全なる罪だった。人々の脳細胞にその記憶が刻み込まれていることも理由の一端だろう。主人公は、主に平日の夜に相手と逢瀬を重ねている。だから、逢えない土曜の夜と日曜にも一緒に居たい、即ち、離婚して私と一緒に暮らして欲しいと願っているのだ。しかし、男側はというと、平日の夜、自宅の妻には仕事で遅くなる、飯は食べていてくれと嘘をついて難を逃れようとしている。恋は本当に不如意、それに尽きるのである。

 以上、私なりに穿った見解を展開した訳であるが、あくまで解釈の一つである。歌い継がれる歌の中には物語があり、人生が流れている。宮本氏は宮本氏で全く違った心情と解釈によって歌っているはずである。他者の解釈に対し、異論や別な視点をぶつけてみて、より新たな解釈が生まれるのである。解釈の連鎖反応である。私は歌の主人公やそれを取り巻く人々や風景を想像しながら、目には見えない人々の思いの糸をほぐして楽しんでいる。


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