男性用下着の歴史
ツタンカーメン(紀元前1341年頃 - 紀元前1323年頃)は145枚の下着と埋葬されていた。下着は「シエンティ」と呼ばれている。
目的は、男性の陰部を隠すことだった。
15世紀には、このような下着もあった。
そのころの下着は左右別々に長靴下のようなものを履いたため、股間を覆う布が必要だった。ところが、流行で半ズボンのようなサイズに短くなり始めたため尻を覆うような下着に代わっていくが、前を縫ってしまうと用便が不便なため「コッドピース」というものを装着するようになる。
16世紀にはいると型や腹に詰め物をして誇張するようになると、股間にも詰め物をして強調するようになる。
こうすることで男らしさを強調していた。
翻って日本では、『古事記』や『日本書紀』に「褌」の記載があるという。素材は室町時代以前は麻が一般的だったが、江戸時代以降は木綿の晒し布が多く使用された。
昭和になるとメリヤス製の猿股やキャラコ製(インド産の平織りの綿布のこと)パンツが普及したが、軍隊では越中褌が採用されていた。
話は変わるが芥川龍之介の小説で「玄鶴山房」の終わりのころに、玄鶴が付き添い看護婦の甲野さんに「褌(6尺)」を要望する。その褌を首に巻いて自殺をしようとするものの体力もなく、孫に見つかりもして自殺は失敗したけれど、その1週間後に肺結核で絶命するというシーンが書かれていた。
褌は下着だけではなく、戦地では白旗にもなった。
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