27歳になったので自分を振り返る

先日27歳になりました!
我ながら良く死なずに生きてきたなと笑
節目だし私の人生を振り返ってみます。
文章ながいです!

【幼少期】
家族は父母と兄の4人。
両親共にセルフイメージが低く
母はいつも自分は高卒で頭が悪いのだと
言っていた。

「あなたは私の子供だから、しょうがない」
何をしてそう言われたかは忘れたけれど
未だにこの言葉を覚えていたりする。

学は無いかもしれないが、
母はひたすらに人に好かれる人だった。
コミュ力がものすごく高く
誰とでも友達になるし、お節介でお人好し。
学がある事よりずっと魅力的な人だと思う。

そんなこんなでセルフイメージの低い
私が作られていった気がする。

【中学生】
部活のバレーボールしかやってなかった。
部活の為に学校に行ってるようなもの。
厳しい部活で休みはお盆と正月だけ。
今思うとよく頑張ったなと笑

入部した1年は5人いたけど
色んな理由で辞めていった。
結局残ったのは私ひとり。
辞めていく仲間を無理に止めようとはしなかった。
自分が特別になれると思ったから。
ひとりで頑張ったらみんな私を認めてくれる、
優しくしてくれる、心配してくれる。
特別になれるって思った。
私は他人に心配してほしくて、
構ってほしかったのだと思う。

おかげさまで自分の代はキャプテンに
ならざるえなかった。
だって私しかいないのだから。

厳しかったし、後輩しかいない状態は
かなり辛かった。中学生でストレスで
10円ハゲができた子は中々いないんじゃないかしら。

それでも楽しかったと思える。
練習をする度にチームが強くなっていく事が
楽しかったし、最後の試合で
県大会出場を目前で逃したけれど悔いはない。

【高校生】
バレーボール推薦で進学した。
実技のみで入ったので筆記はなかった。

6人入部した1年生は結局4人辞めた。
同級生が辞めていくのは
つらかったな。また1人になるのかって。
中学と違うのは1人じゃなく2人残ったこと。
私と彼女は真逆の性格で、
私は静かで真面目系、
彼女は大らかで明るく賑やかで
輪の中心にいる人だった。

ダブルでキャプテンという不思議な
構造で一年間を過ごした。
試合の時にキャプテンマークを
付けていたのは私だったから
ありがたいことだったと思う。

挫折や苦い思い出を負ったのが高校生だ。
入部してすぐ1年でレギュラーを取って
ずっとレギュラーだったけれど
自分が最年長になった時から
試合に出られなくなった。
そして頑張ることを諦めてしまった。

罵声を浴びせ殴る蹴る系の
顧問が怖くてバレーが楽しくなくなった。
指導に問題があったのか私が弱かったのか。
きっと両方なんだろうね。

ベンチのまま、引退が近づくころ
後輩の正セッターの怪我で私がレギュラーに。最後にこんな形で試合に出るのは
複雑な気持ちだったけれど
神さまがいるなら気を効かせたのかも。
「最後くらい頑張りなさい」って。

おかげで多少はスッキリとして引退できた。
最後の試合は覚えてないけれど
すごく泣いた記憶がある。

中高で結局わたしは同級生と同じコートに
立った事がない。

【大学生】
小学生からバレー漬けだったのが
打って変わってデザイン学科に入学した。
一般的な大学生らしい事は一切なく
ひたすらモノを作っていた。

芸術学部に集まる人は個性にあふれていて
ぶっ飛んでる人が大多数で、
私は一番学年で「普通の人」だったと思う。
おかげで就職が決まるのが一番早かった。

自由で楽しかった。
友達と学校に泊まって夜通し
あーでもこーでもないって制作するのは
楽しくてしょうがなかった。

【社会人】
デザイナーとして就職。
九州本社の印刷会社としては
1番大きな会社に入った。
2年目に東京に異動になる事は
入社の時から決まっていたから
1年で吸収できるものは何でもやってやろう!と
馬鹿みたいに働いた。
昼休みも土日もない月は心がカサカサになった。
それでも認められたくて頑張った。
転勤の前日に朝4時まで仕事してたのは
なかなかの馬鹿だったんじゃないかな笑

2年目に東京へ来て
1年半で会社を辞めた。

今は東京で転職して通信会社で
働いてます!
キレイとは言えない今までだし
中高が割と過酷だったので
多少性格曲がったと思うけど笑

この先の人生を楽しく生きる為に
もう逃げないようにベスト尽くしていこう!

っていう抱負でした^ ^

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