MONDO GROSSO「偽りのシンパシー」はJ・ジュネか「危険な関係」か フランス近代恋愛小説の濃密な官能性を想起


 MONDO GROSSOの楽曲「偽りのシンパシー」がいい。

 TBSドラマ「きみが心に棲みついた」(火曜22時~)の挿入歌だ。アイナ・ジ・エンド(BiSH)の歌声が官能的なのもいい。何かを、思い起こさせる。めくるめく、濃密な「堕ちていく」感覚。この、遠い、懐かしい、既視感(デジャヴュ)——

 ドラマは、いじめのような、厳しい支配・従属関係にあった男女の関係性を描く。それは疑似恋愛だ。支配側だった男性は相手を「おもちゃ」として捉え、従属側だった女性は相手と「恋愛」しているつもりだった。

 現代日本が舞台のドラマでは、この男女関係はただのどろどろとした、「嫌ミス」ならぬ「嫌ラブ(視聴後感が嫌なラブストーリー)」にしか見えない。視聴者が感情移入しにくい類の「痛さ」だ。働いて稼いで、ビジネスで成功して、結婚して子供を持って——といった「超」日常には、過剰に過ぎる。そんな人間関係が入り込むと、普通の社会生活が破たんしてしまう。

 ただ、ドラマの挿入歌MONDO GROSSO(作詞Kei Owada、作曲Shinichi Osawa)の世界観は、はて、これはどこかで見憶えたような、きしきしと魂に食い込む愛憎劇ではないか。この既視感は、——そう。フランス近代小説における恋愛の描き方を想起させるのだ。

 「痛み 与えて/愛より 確かなもの/罰を 与えて/ずっと 離れないよう」
 「誰にも わからない 二人のこころ/あなたが 私を 憎むほどに/見えない鎖が肌に食い込む心地」(「偽りのシンパシー」から引用)

 懐かしい感じがしないだろうか。

「偽りのシンパシー」に描かれた愛は、愛するがゆえ、相手の骨の髄までも深く到達しようかという、コミットメント(関わり方)だ。まかり間違えば、相手を切り刻んで、殺してしまいかねないほどに、深い。フランスの作家ジャン・ジュネや、またはギョーム・アポリネールの、耽美的な詩や小説の世界である。差し違えるほどの、憎しみとほとんど同義語の、愛。周囲には理解されないけれど、確かに愛の一種だ。

 ある意味で究極の関係性でもある。相手を縛り、縛られる。どれだけ深く互いにコミットできるか。相手に自分の爪痕を残せるか。相手の魂に絡みつき、DNAに組み込まれてしまうほどに、きつくきつく、がっちりと互いが組紐状に編み込まれて、どこまでが自分で、どこからが相手か、その境界が分からなくなるほどに。相手と「一つになりたい」とよく言う、その謂そのものだ。

 または、ラクロの小説「危険な関係」の世界である。どこまで相手を痛めつけ、相手の身と心に自分の「印」を刻み付け、影響を与え、人生を支配できるか。その一方で、自分はいかに相手から翻弄されず、影響されずにい続けられるか。影響の非対称性を競うことで、支配・従属の関係性を楽しむ。つまりは恋愛という名前のゲーム。それは、恋愛至上主義だった時代の遺物だ。恋愛が、貴族間の高踏な趣味だった時代ならば、こうした関わり方を楽しむ余裕もあっただろう。精神的にも、時間的にも。なにより、娯楽として。

 だが、現代人には残念ながら、経済的にも時間的にも、そんな余裕はない。みな、もっと「地に足をつけて」「生活」をしている。通信手段の速度が速くなり、手紙の時代のような駆け引きを楽しむことも難しくなった。一気に距離を縮めてしまえる分、時間をかけて心の奥底に根を張らせる芸当ができない。じわじわと影響を与える技を発揮する余地がない。

 そんな現代に、激しく深い関わり方を恋愛に求めたら、どうなるだろう。
残念ながら、きっと長続きしないだろう。人は飽きるから。飽きないために、より激しく、より刺激的にと「努力」をしているうちに、今度は過剰さに疲れてしまうだろう。そうしてボロボロになってしまい、結局、激しい恋愛はそれほど長続きはできまい。

 だからこそ、現代ではコミットメントしない、あっさりした気楽な関係性がスタンダードなのだ。軽くて、薄い皮膜のように表層的で、立ち入らず、立ち入らせず。そうした関係性こそが求められるのだ。

 どちらが幸せかは分からない。ただ、骨に刻まれるほどの愛の証があった時代の方が、きっと、現代よりさまざまな意味で濃かっただろうことだけは推測できる。

(2018・2・25、元沢賀南子執筆)

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