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(仏)鬼についての小話

節分を過ぎてからというもの、2才の娘が
「気をつけて!外に鬼がいるかもしれないから!」と言うようになった。

あの日の夜は鬼の襲来が心底恐ろしかったようで、家の中で一番の死角と思われる冷蔵庫の角にピッタリと、気をつけの姿勢で身を隠していた。その表情は切迫していて、動悸まで聞こえてきそうで、瞳には怯えがあった(しかしそのさらに奥には困難を克服していこうという彼女の強い意思の光も見てとれた)。

大人からすれば年中行事は、通過儀礼のようなものと余裕をもって対処できようが、想像力の逞しい年頃の子供にとっては、恐怖のトラウマ案件なのだった。

今朝も、まだ布団にくるまって寝ぼけている彼女に、行ってきます、と声をかけると、目をこすりながら言う。

「気をつけて!外に鬼がいるかもしれないから!」


風の冷たい駅までの道すがら、あぁ「鬼」とはあながち、子供のための寓話や戯言のたぐいではあるまいな、と2つの事を考えていた。
1つは、<意識できる鬼>についてだ。外出して刺激されるこわさ、と言い換えてもいい。

駅へ着けば、そこからはぼくは満員電車に押し込められて、怒りの感情が鎌首をもたげる事もあるだろう。香水の香りが鼻腔をついて、情欲の炎が立ち上がるかもしれない。中吊り広告の煽り文句で、不安や嫉妬が沸き起こる時もある。これら外的要因を引き金にして、自らの内面が変質していく。自らの内に、鬼になる要素が含まれているという事だ。ライターは外側にあっても、燃料は内側にある。
「わたしは鬼ではない、鬼の要素は持ち合わせていない」
と聖人君子ぶる訳にもいかず、鬼面は抑圧すれば何かを契機に突発するだろう。


もう1つは、習慣や環境によって知らぬ間に染み付いている<無意識の鬼>について。

節分の鬼面をかぶって子供をおどかす。弱いものを意図的に怯えさせ、時には敢えて傷つけようとする。伝統文化や芸能自体を非難したい訳ではなく、その際の大人の心構えを思う。

おどかしの構造は、気を付けていないと、こらしめたい、恐怖で操って権力を持ちたい、制圧したい、に取って代わりやすい。これはエスカレートすればDV・児童虐待につながっていく心理と言える。
「子供にはかわいそうだけれど、昔からの風習だし、必要な傷だろう」
との判断は、親世代から受けた傷をわが子にも与えてしまう、いわば傷の連鎖だ。親世代も、祖父母世代から傷を受けている。敗戦から受けた傷が家族内に還元されている家庭は多いだろう。この連鎖は無意識レベルで起こっていて、ゆえにタチが悪い。
節分の日にあれほど怯えていた子の姿が甦る。

「子供にはかわいそうだけれど、必要な傷だろう」と判断をし、傷の連獄におちいっていた自分に気がついた時、ハッと我に返る。無意識で鬼と化していた自分自身に、胸を痛めるのだ。

これら鬼になる要素を包含して、ぼくらは毎日を送っている。転じれば、聖人になる要素も担保している。しかし何が災いするか、何が幸いするかわからない。
こんな我が身をどう運転していくのだろう。きっと、なるべく良い種に水をやり続けたほうが良いのだろうなとは、薄々感じている。

ここまで考えたところで、電車が構内に滑り込んできた。目の前の車両はいっぱいで、しまった、隣の車両に並べばよかったと、つかの間後悔する。寒い日はまだまだ乗客同士の上着がかさばるのだ。

今朝も大勢の人が輸送されていく。自分もそのうちの一人。一日のはじまりだ。
娘の声がふたたび耳の奥で鳴る。
「気をつけて!鬼がいるかもしれないから!」


Text by 中島光信(僧侶・ファシリテーター)

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