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芸人さんの人権感覚

ヘコんでる時、笑ってりゃどうにかなるだろう!と、すがるように「お笑い番組」を見るようになった。以来マイブーム「漫才」が到来中。となれば実際の舞台が見たくなるというもの。そこで先日、大阪での所用に合わせて「なんばグランド花月」で2日連続(!)、新宿の「ルミネtheよしもと」で生のステージを見てきた。

人を笑わせるってすごい事で、試しに自分でもネタ(らしきもの)を書いてみた。すると、このネタで顔の見えない相手が笑ってくれるとは到底思えない!そんな経験をすると、昔は何が面白いのか?ちっとも判らなかった新喜劇のすごさも解るようになった。
ところが週のうちの3日も劇場に通ったことで、見えてきたものがあった。

1つは、
「コンセンサスの取れている事を、敢えてズラす」
ことで生じさせるたぐいの笑いは、今後、多様化するほどに難しくなっていくなぁ
という事。

たとえば、
【<肌の色も違って、見るからに外国人風貌の人物>が、序盤は異国語を話しているのに、「ワタシ日本語喋リマス」「なんや喋れんのかい!」で客席ドッと笑う】みたいな構造。

またたとえば
【特徴的な容姿をイジることで笑いをとろうとする】ような構造。

どちらも分からなくはないけれど、さすがに古すぎやしないか。もう令和ですよ?2020も目前ですよ?人権感覚に乏しすぎるだろう。
笑う観客も観客で、片やテニスの大坂なおみ選手や、ラグビーW杯日本代表選手のルーツの多様性は賞賛する、その両義性に気づいているんだろうか。

「この国は単一民族だ」とか「同質性が最優先だ」とか、まだ思い込めた時代には、それ以外を排斥するようなネガティヴな笑いが通用したかもしれない。でも現代はムリだ。

旧態依然で・分かりやすく大雑把にすればする程、顔の見えない大多数にはウケる気がするのかもしれない(良く解らないが)。しかしそれだと、取りこぼれていく感情がいっぱい出てくる。疎外されたと思う人々も今後ますます増える。そんな世界を舞台の上で体現していきたいのか?
ヘコんでる時、笑ってりゃどうにかなるだろう!と、すがるように「お笑い」を見ている人を、さらにネガティヴにさせたいのか?
私が舞台に立つならば、そこは目指したいところじゃあない。

その会場で、その時に、居合わせたお客さんとの間に、その場限りのコンセンサスを形成しなければダメだ。

以前この連載でも触れたように、かつてある中学校で授業をした際、
開口一番「おうちの宗派、何宗か知ってる?」と訊ねてから授業をはじめた。終わって先生から「今日参加していた子、1人ムスリムで、また1人はクリスチャンなんです」と明かされ、呆然とした経験がある。この質問からその日の授業は進んだので、彼・彼女らにとっては、その授業を通じてよそもの気分を味わわせていたのかもしれず、二度と同じ鉄は踏むまい、と諭されたものだった。

こうした苦い経験をふまえて、〈宗教も・価値観も・見えている世界もまったく異なる不特定多数の聴衆〉を前にした時、どこにコンセンサスを位置づけて話をしていくのが是か。
人前で喋るという点では、漫才師も宗教者・僧侶も同様だ。人権感覚、人間観が丸裸になるという怖さを、肝に銘じておかなければならないだろう。

いやぁ奥が深いぞ、話芸。


Text by 中島光信(僧侶・ファシリテーター)


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