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(仏)麒麟もうめば大悟の渡し

夜も更けてきた頃、渋谷で昔馴染みと杯を呷っていると、一人がぽつりと「仕事を始めて10年。そろそろ倦んできた。」話の口火を切った。
促されるように自分事にも思い巡らせてみると、あぁ確かにわたしの今の閉塞感は、仕事に倦んできた表れなのかもしれないなと深く頷いてみた。
僧侶になって同じく10年と少しが過ぎ、今年に入ってから史上最大の仏教倦怠期が訪れているのは間違いなく、読経にも坐禅にも、まったく気乗りしないのだ。

その日は、渋谷西武で開催されていた「樹木希林 遊びをせんとや生まれけむ 展」に足を伸ばし、故人の生前の足取りに触れてきたばかりだった。会場には女史の含蓄に富んだ文言の数々が展示されていて、中でもとりわけ目を引いたのは、何気なく手に取った関連書籍のうちの一文だった。

わたしは芸能人です。法華経の『薬草喩品第五』に、この世に生まれる者は、必ず何かの役をもっているのだ……とあります。突然地面に花が咲くのではなく、根があり、くきがあり、葉があり……という具合に、それぞれ役があるということです。そして、雑草であったり大きな木であったり、くねっていたり、まっすぐであったり、と様ざまに人の姿をたとえているわけです。そうしてみると、人の値うちは己の役をどう見つけ、どう果たすかによって決まってしまうようです。だとしたら、わたしらの此の世の役目は何なのでしょうか。      
         ――エッセイ『樹木希林のあだダ花の咲かせかた』より


教養人として仏教の教理に触れる素地もあっての言葉だろうが、ここにはまったく嫌味がなく、経典を自らの「糧」としている様子が伺えるのだった。

わが身を振り返れば、経文を引用しては、高説を垂れることばかり考えている始末。いつでもどこでも法話の種を採集するのがもはや業になりつつある。気づかされて面目ないが、これは仏の教えを次から次に浪費しているようで、自らの糧にしていこうとする心構えではないだろう。

この数ヶ月わたしを覆っている仏教倦怠期は、省みると、自らの<取り組み方>への辟易なのかもしれない。他人への説教にばかり気を取られ、自身の修養がおろそかになっているなど、とんだ愚かな話…いつどこで目的と手段を履き違えたのか、はたまた…

樹木希林氏のように「平常心是れ道」といった姿が理想なのだが、そのように軌道修正できるものか。こまった事に、平成の終わりに大きな壁にぶつかってしまったようなのである。

Text by 中島光信(僧侶・ファシリテーター)

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