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#97 日本・台湾友好秘話 八田與一物語


 みなさんの記憶にも残っている平成23年3月11日に東日本大震災が起こった時、台湾の人々は、日本赤十字社が把握しているだけで、200億円を超える義援金と400トン以上の支援物資を送ってくれました。これはもちろん世界一であると同時に、世界から寄せられた支援のおよそ3分の1を占めています。これだけでも驚きに値するのに、台湾の人々は、日本赤十字社を通さずにその何倍もの支援を送っていて、その合計は天文学的数字となり、もはや把握しきれないとさえ言われているほどです。
 台湾の人口が日本の5分の1に満たないこと(約2300万人)、台湾の人の平均所得が年約20000ドル(約160万円)であること、さらに日清戦争が終わった1985年から太平洋戦争が終わった1945年まで、およそ50年もの間、日本によって統治されていたことを考え合わせると、この台湾の厚意がいかに格別なものであると実感できます。


 なぜ台湾の人々がここまで日本に対して厚意を示してくれたのでしょうか。そこには、ある一人の日本人土木技師の生涯が大きく影響していると言われています。


 その技師の名前は、八田與一(はったよいち)。台湾では中学校の歴史の教科書にも掲載され、彼の命日である5月8日に行われる墓前祭には政府の要人の多くが出席するなど、台湾の人々から今なお深く敬愛されています。
 金沢で生まれ育ち、23歳で東京帝国大学(現東京大学)土木科を卒業した與一は、卒業後、台湾総督府土木部の技師として、台湾に赴任しました。そもそも日本が台湾を統治するようになったのは、日清戦争後の講和条約で、清国から日本に割譲されたからです。当時の台湾は、人口約300万人、教育制度は整っておらず、治安は不安定、マラリアやコレラなどの伝染病も蔓延していて、きわめて近代化の遅れた土地でした。日本は、台湾総督府という官庁を設立しました。総督府は、まず学校を作り、台湾の人々に教育を施しました。帝国大学も作られ、さらに優秀な学生を日本に呼び、日本の国立大学に進学させました。李登輝(りとうき)元総統は京都大学に進学しています。
 教育と並行して総督府が力を注いだのがインフラの整備でした。台湾では日本が統治していた時代に、鉄道・道路・港湾・電信・水道などの設備が次々に整えられていきました。
 そのインフラ整備の象徴とも言うべきものが、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼ばれた水利施設でした。これは川をせき止めて作った烏山頭(うさんとう)ダムと嘉南平原一帯に網の目のように細かく広がる用水路からなっていました。烏山ダムは当時東洋一の規模を誇り、用水路と排水路を合わせると長さは、約16000キロメートル(およそ地球半周分)に達するものでした。
 華南地域は、もともと台湾で最も貧しい土地と言われてきました。サトウキビすら育たず、不毛の大地と言われてきたのです。そこにダムと用水路を建設し、台湾一の穀倉地帯に生まれ変わらせようとしたのです。
 現地を視察した與一は、まず烏山ダム建設に携わる人々が、安心していい仕事ができるようにと、関係者の家族を呼び寄せ、彼らのための町作りを始めました。工事関係の施設の他に家族全員が住める宿舎や共同浴場、商店、テニスコートや弓道場などの娯楽施設、学校、医療所まで作り、千人を超える人々の生活を支えたのでした。彼らは、時には集会所に集まってゲームをしたり、お祭りを開いたり、映画を上映したり、サーカスや手品師を呼んでイベントを開催して心から生活を楽しみました。人情味に溢れ、日本人に対しても台湾の人々に対しても平等に接する與一は、工事関係者や地元の農民に慕われましたが、それとは裏腹に工事は困難を極めました。
 着工から二年ほど経過した大正11年12月、トンネル内でガス爆発事故が起こりました。この事故による死者は50余名を数え、負傷者も100名を超える大惨事となりました。與一は原因の究明を急ぐと共に、犠牲となった台湾の行員たちの家を一軒一軒訪ね歩きました。遺族を前にした與一は、多くの犠牲が出てしまったことに対し、涙ながらわびた上で、最後にこう述べたと言われています。

「それでもこの工事を続けることを許してください。このダムは、台湾の人々の暮らしを豊かにするために必要なのです。」

 與一の真心に心を打たれた遺族たちは、工事の続行を了承しました。工事が再開されると、尊い犠牲が残った人々を奮い立たせ、工事関係者の結束はさらに固くなっていきました。
 ところが、この爆発事故の翌年に予期せぬことが起こりました。大正12年9月1日、関東大震災が発生したのでした。台湾総督府は本国日本の危機に際して援助金を出さなければならず、予算を大幅に縮小する必要に迫られました。それに伴い、当然、工事費も削減しなければなりません。やむなく総督府は、工事関係者の約半数を解雇することを決め、その人選を與一に一任しました。多くの犠牲者が出たことで傷ついた與一が今度は自らの手で、職員に解雇を申し渡さないといけなくなったのです。おそらく自分の身を切られるよりも、つらかったと思います。
 この時、解雇者を選ぶにあたって彼が示した選定基準は、誰もが予想をしないものでした。今までの半数で工事を続けるわけですから、常識で考えたら、有能な者、腕の立つ者を残すでしょう。ところが、彼は、有能な者、腕の立つ者から解雇していったのです。
 彼の考え方は常識とは真逆でした。「仕事ができる人なら、解雇されても、すぐに再就職できるだろうが、そうでない者は、失業してしまい、本人も家族も生活ができなくなるのではないか。」與一は自ら選んだ退職者の一人一人を所長室に呼んで、いくばくかの賞与金を手渡しました。彼らの今までの労をねぎらうとともに、「いずれまた呼び寄せるから」と約束し、固い握手を交わしました。
 解雇される者たちにもいろいろ言い分はあったでしょう。けれども彼らはひと言も文句を言いませんでした。なぜなら、解雇される自分たちと同じかそれ以上に、與一がつらく感じていることを、全員が知っていたからです。
一人一人と握手を交わす與一のほおに、涙が伝わっていました。工事がどんなに難航しても、決して人前で弱音を吐くことのなかった彼が、周囲の人に初めて見せた涙でした。
 與一は、退職者の再就職先を探すことに奔走しました。さらに数年後日本が奇跡の復興を遂げ、予算が戻ると、彼らとの約束を守り、希望者を再び雇用しました。そして着工から10年という気の遠くなるような歳月と総工費5413万円という莫大な費用をかけて、ついに昭和5年4月、嘉南大圳は完成しました。
 これがいかに大規模な工事であったか説明しましょう。まず工事費ですが、現在の貨幣価値に換算すると、およそ4000億円にのぼるといわれています。ちなみに当時の作業員の日給の平均がおよそ1円だったことを考えれば、この4513万円と言う工事費がいかに巨額なものであったか想像できると思います。

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烏山頭水庫と嘉南大圳の主な灌漑水路 www.wikiwand.com


 さらに嘉南大圳は台湾の耕地面積の約14パーセントを潤すわけですから、その水量も桁違いでした。完成した烏山ダムを満水にするのに、二つの河川から取水してもひと月以上かかったと言われています。ダムの水門が開き、水が勢いよく噴出されると、幹線から支線、そして分線へと水がゆっくり流れ込み、すべてに行き渡るのに二日以上かかったと言われています。

 嘉南大圳は、台湾に莫大な利益をもたらし、経済を一変させましたが、計画の段階で、與一には、たとえダムと用水路が完成しても、この広大な土地に必要な水量の三分の一しか供給できないことがわかっていました。そこで、彼は嘉南地域の農民たちに、ある提案をしています。
 嘉南平原を三つに分け、各地域に三年に一度だけ水を供給します。各地域は水が供給された年には水を大量に使う稲作を行いますが、水が供給されない年は、さほど水を必要としないサトウキビと、ほとんど水がいらない芋や雑穀を順番に栽培していきます。これが與一の提案した三年輪作でした。この三年輪作が成功すれば、水不足も解消でき、生産性は飛躍的に上がるでしょう。けれども、そのためには農民たちが作る作物を守ることが必要で、互いにエゴを捨て協力し合わなければいけません。
 農民たちの間では、収益性の高い米を求め、三年輪作に反対する意見も出ました。それに対して、與一は一部の農民だけが恩恵を受けるのではなく、同じ嘉南に住む農民みんなが貧しさから脱却することが大切であり、そのためには利益も痛みも分け合うことだと説きました。
 この與一の提案を守り、農民たちが三年輪作を行った結果、農業生産性が飛躍的に上がり、工事が完成して7年後の昭和12年には、生産額で比較すると、米は工事前の約11倍、サトウキビは約4倍と予想をはるかに上回る実績を上げました。やがてこの地域で収穫された農作物は、日本への一大輸出品となり、それによって得られた外貨がその後の台湾工業化の資金になったと言われています。

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 こうした自国の歴史を知る台湾の人々の中には、「今、台湾が先進国でいられるのは、日本のおかげ」と考える人が多く、彼らは與一を父のように慕い、日本に感謝してくれているのです。
 このような歴史的背景を持つ、台湾と日本の関係に、新たな一ページが加わったのが1999年に起きた台湾中部の大地震でした。この時日本は世界中のどこの国よりも迅速にレスキュー隊を派遣し、早くも地震当日には救助活動を開始しました。がれきの山を前にして、なすすべもなく泣き叫ぶ人たち。たとえ生存の可能性がきわめて低いとわかっていても、日本の隊員たちは、家族の思いに寄り添い、丁寧にがれきを取り除いたそうです。そして願いもむなしく、がれきの下から遺体が見つかると、まるで生存者を救出するかのように抱き起こし、全員で整列、目を閉じて、頭を垂れ、黙祷を捧げました。
 この日本のレスキュー隊の姿を、多くの台湾の人々がテレビやインターネットで見て胸を打たれたと言われています。台湾は日本と同じく、地震や豪雨など自然災害が多い地域です。台湾で大きな自然災害が起こるたびに、日本は多額の義援金を送り、レスキュー隊を送り、仮設住宅を提供するなどして、復興に協力してきました。
 それを目の前で体験した台湾の人々は、いつか日本に恩返しがしたいと心に誓っていたのだそうです。その気持ちがあの東日本大震災の際の天文学的数字に上る支援となって表れたのでしょう。
 東日本大震災に際しての台湾の支援にはすてきな後日談があります。台湾の華視新聞などが台湾で実施したアンケート調査によると、
「あなたにとって2011年の最高に幸福な出来事は」という問いかけに対して、第一位に選ばれたのが、この答えだったそうです。

「日本への義援金が世界一になったこと」


 人生には、いい時(晴れの日)もあれば、悪い時(雨の日)もあるものです。いい時には笑顔ですり寄ってきて、状況が悪くなるとスーッと離れていってしまう人が多い中、どんな時も思いやりを持って接してくれる人、例えば、雨の日に、何も言わずにそっと傘を差しだしてくれるような人が、本当の友だちといえるのではないでしょうか。日本と台湾はそんな「雨の日の友だち」といえるような素晴らしい関係が今も続いていることは奇跡に近いことだと思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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