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議論するのは何のため?

こんにちは。あすぺるがーるです。


Twitter上では日々、様々なやり取りが行われています。


真面目な話題を真面目に語るとき、議論が加熱することもあるかもしれません。


議論が加熱するだけならまだしも、語りが進んでいくうちに、重要なことが見落とされていることがままあります。

今回は、議論において起き得る二次災害、それを避ける方法、そして議論をするうえで忘れてはならないことを書いていこうと思います。


討論の授業での体験

今回は、すぷりんと(@External_WM)さんの小学校時代の討論の授業で感じたことについてのツイートをお借りします。


前提条件
・議題「タバコは良いものか、悪いものか?」
・1対1での議論、反論できなくなったら負け
・賛成派は反対派、反対派は賛成派として主張

すぷりんとさんは反対派なので、「賛成派」として主張することになったのですが…


勝った方にはチョコが出ると聞いた私は、喜び勇んで「タバコはリラックスできる」とか「フィルターがあるから、そんなに害がない」とか主張し、相手も「リラックスした分だけ禁断症状もある」とか「副流煙はフィルター関係ない」とか反論した。
不思議な感覚だった。お互い相手の言うことに心の中では、その通りだ!と思いながら反論しなくてはならないので、まるで自分の主張の粗探しをしているようだった。議論はヒートアップしつつも、気持ちは乗らないので、心はいたって冷静なのだ。
結局は、口が達者で生意気小僧だった私が相手を言いくるめることに成功したが、あとに残ったのはタバコは良いものだ。という結論なので、「私は負けたのではないか?」と気がついた。

最初はタバコ反対派だった、すぷりんとさん。


しかし、討論に勝とうとして本心では思ってないことをまくし立てるうちに、自分の考えが真反対にすり変わってしまったのです。


勝負には勝った。

けど、自分の考えは本意から離れた方向に向かってしまった。


心がモヤモヤします。



そんなすぷりんとさんに、先生はこう言いました。


討論の討は探し求めるという意味です。
つまり、討論相手とは戦っていながら、真実を一緒に探す仲間なのです。実際、裁判でもこの方式が取られています。
今回はすぷりんと君が途中から相手を言い負かす事に、ご執心してしまったので真実とは呼べないところに着地してしまいました。実際、今いい気分ではないんじゃないですか?


それを聞いて、すぷりんとさんは悟りました。

全くその通りだ。お互いに合意へ行き着くために、最後まで冷静に論を戦わせなければいけなかったのだ。
そうか、議論とはそういうことなのか!


引用ツリー↓
https://twitter.com/External_WM/status/1087266666675724288?s=20


「議論」が起こす禍い

本来、議論に勝ち負けはありません。


ふたつの考えが著しく相反しようとも、どれだけ極端であろうとも、どちらかが100%正しくてどちらかは100%間違っている、なんてことはありません。

(考えが「考え」に留まっている限りですが)


討論の討は探し求めるという意味です。
つまり、討論相手とは戦っていながら、真実を一緒に探す仲間なのです。


どちらにも多かれ少なかれ正当性があり、両方の正当性を互いに尊重しつつ、納得のいく妥協点を見つける。

それが本来の議論の目的のはずです。


しかし、そこに「相手を打ち負かしたい」という感情が入り込むと話は一気に変わります。

今回はすぷりんと君が途中から相手を言い負かす事に、ご執心してしまったので真実とは呼べないところに着地してしまいました。


こうなってしまうと、辿り着くはずだった「真実」は失われ、代わりに「負かし合い」が始まります。



「負かし合い」は、黙らせたもの勝ちです。


相手を黙らせるためなら、誹謗中傷や罵倒さえ辞しません。



それは、目的が見失われ、互いに言葉で傷つけ合うだけの「戦争」です。



戦争を望む人は、いません。


──と言いたいところですが、実のところ、武器販売などの「死の商人」は、戦争が長引くことを望んでいるようです。

その方が儲かるので。



「負かし合い」にも「死の商人」にあたる存在がいます──



「議論」の対象だったはずの、改められるべき実情に乗っかって過ごす人々です。


それは悪しき政治家だったり、メディアだったり、一見「普通」に見える一般人だったりします。



しかし、彼ら以外の者にとっては、「負かし合い」は苦痛でしかありません。


罵倒や誹謗中傷を受けた当人はもちろん、「負かし合い」を見た多くの人々も、重い被害を受け得るのです。



そして、罵倒や誹謗中傷をした本人も、知らず知らずの間に少しずつ傷ついていくのです。



このように「負かし合い」と化した議論は、傷つく者こそ増やせど、何も生み出しません。

むしろ、事態の収集から遠ざかっています。


「議論」を「戦争」にしないため

このような「悪しき議論」を生み出さないためには、どうしたらいいのでしょうか。


ここでは、議論をするときの最低限のマナーや、私が議論するときに個人的に気をつけていることを紹介しようと思います。


他者を傷つける言葉は使わない

まず、罵倒や誹謗中傷は止めましょう。

ものすごく当たり前のようなことですが、残念ながら一部の人には当たり前ではないようです。


罵倒や誹謗中傷まではいかなくても、「議論」を発するときは、受け取った人が傷つくようなリスクのある単語を使うのは差し控えることをオススメします。


特に、ネット上では言葉しか伝わりません。

そのため、ネット上では、言葉遣い=発信者の品格とみなされる、といっても過言ではないでしょう。


本当は大切なことが言葉遣いの悪さによって悪く伝わってしまっては、誰も得しません。


どんなことでも丁寧に話せば丁寧に伝わるし、雑に話せば雑にしか伝わらないのです。


主語と述語の大きさに気をつけよう

主語の大きい主張は、主張を真実から遠ざけたり、関係のない人を巻き込んで誤解を生むことがあります。


「主語が大きい。例外がある」という反論を叩き潰すためには、「ドイツのベルリンの◯◯通りに住む50歳のマイヤーさんは優しい」と完全に『個』に限定しなくてはいけないんです。
表現方法を気をつけるべきというのはそのとおりです。主語大きくして決めつけるのは語弊がうまれやすいですから。「海外では」とか、どこの海外だよアメリカかよインドかよアルゼンチンかよアゼルバイジャンかよっていうね。
でも主語を小さく限定すればいいのかといえば、そうともいえません。主語を限定すればそれは身内話になり、「社会」や「傾向」といった大きな話ができなくなるので。「主語が大きい」という批判はまっとうなのか - 雨宮の迷走ニュース


いや、そこまで小さくする必要はないです…


問題は、「海外の人は~」とか「女性は~」とか、属性1単語の主語です。

とある属性をひとくくりに「~だ」と言ってしまうのは、その属性に対する差別や偏見や誤解を生んでしまうことが多いです。


そのため、「とある属性の人」について語る場合を除き、属性を主語にするのは控えた方が望ましいです。



では、「とある属性の人」について語るとき以外で「ある人々の集合」を表すには、どうすればいいのでしょうか。


そのときは属性ではなく、「(行動)をする人」を主語にすればいいのです。


英語だとThose whoという言葉の後ろに行動をつけると「~をする人々」という意味になります。

ただ、それを日本語でやろうとすると「~をする人々」という長い表現を使わざるを得ません。


しかしそれでも、Those whoの後ろを意識することで、主語を適切な大きさにするだけではなく、自分の主張を再考することもできるのです。



一方、「とある属性の人」について語るときは、述語に工夫をすることをオススメします。


「〇〇な人は✕✕だ」ではなく、

「✕✕な人が多い」

「✕✕であることが多い」

「✕✕しがちだ」

「✕✕する傾向がある」


文字数はかさみますが、これだけでも「無理なひとまとめ感」を大幅に減らすことができ、共感の得られやすい主張にすることができます。


普段の言葉遣い・主張の量を再考しよう

このようなことを書くと、「トーンポリシング」、話者の話し方の非難によって議題を逸らしている、とよく言われます。

しかし、ひとつのツイートだけならまだしも、普段から丁寧に言葉を使うことができない人の「強い言葉遣い」は、乱暴にしか伝わりません。


現に、言い方ひとつ変えるだけでも他者への伝わり方は大きく変わるのです。


トイレの張り紙で、

「トイレを綺麗に使いましょう」

「いつも綺麗に利用していただき、ありがとうございます」

とでは、利用者の態度が大きく変わると言われています。


後者の方が、トイレが清潔なことが多いらしいのです。



丁寧に話すことは、強く伝えることを放棄することではありません。


地震が起きた瞬間のニュース番組のアナウンサーの言葉は、丁寧ではありますが、決して弱くしか伝わらないものではありませんね。


アナウンサーが普段、視聴者に「~してください」ということはないに等しいですが、この動画では「~してください」を連発しています。



「強い言葉遣い」は、本当に大切なときにだけ使うと大きな効果を発揮しますが、毎日のように使うと威力は低下してしまいます。


重要な文書にハイライトを引くとき、全部の文にハイライトを引いても、あまり意味がないでしょう。

言葉遣いも同じです。


私の場合、

① ~してください / ~しないでください
~しましょう / ~は止めましょう
②(名詞1単語)+です
③ ~ですよね(問いかけ・断定ともに)~でしかありません
④ オチの明示がない反語表現
⑤ (中傷にならない程度の)煽り

このような言い回しは、普段使いにせず、いざと言うときにだけ使うようにしています。


上のような表現は、

① ~して頂けると助かります / 嬉しいです
〜しない方がいいです
~するのはお勧めできません
② ~だと思います / 思われます / 考えます
~だとされています / 考えられています
おそらく~でしょう(推測)
③ ~ではありませんか? ~だと思いませんか?
④ オチを明示する / 反語にしない

などの表現で置き換え可能です。


これは、主張の内容そのものにも言えることです。


人間の理解能力には、どうしても限界があります。

一定の文字数以上の文章の中で終始強い主張をし続けるのは、ステーキを何皿も食べさせようとするのと同じことです。


そのため、「強い言葉遣い」を使ってでも言いたい「強い主張」は、ある程度短くしておくことをオススメします。

私の感覚だと、ひとつの段落あたり60~120字程度ですかね…


的確な言葉遣いと的確な強さで主張できるようになることは、自分の意見を多くの人に伝わりやすくする第一歩なのです。


「三方よし」の議論をしよう

先ほど、議論を「戦争」にしないためのテクニックについて紹介しましたが、そのどれよりも大切なのが「三方よし」の考えです。

「三方よし」とは、自分・相手・周りの人の「三方」、どこから見ても「良いもの」であるということです。


もちろん万全の気遣いは無理ですが、それでも、「人としての最低限のマナー」を守ることは必要です。


もしそれを破ってくるような相手と遭遇してしまったら、ミュートやブロックで速やかに視界から消した方がいいでしょう。

マナーを破った対応を返すぐらいなら。



ってか、平然とマナーを破って反省もしない人と議論するのは無理です、もう。


このような人の批判や注意喚起はブロック後、スクリーンショットでやることを強く勧めます。

リプや引用リプは、粘着したり中傷してきたりする可能性があるので止めた方がいいです。



ただ、最低限のマナーを守って「真実を探す」という目的から逸れない限り、それは「いい議論」と言っていいでしょう。


マナーと目的の範囲内である限り、全ての人による全ての主張・議論に価値があることを、忘れてはなりません。


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