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時間泥棒 time eater

自分を変えたいと思っている人に対してアドバイスするとき、ときどき引き合いに出すのは「〝意識〟を変えようとするよりも、引っ越し・人間関係・時間配分の変更を試した方がよい」という古(いにしえ)の言い伝えである。

「自分」にせよ「人生」にせよ「意識」にせよ、見ることも触ることもできない形而上学的なシロモノだ。精神論である。だから、仮にそれらが変わったとしても変わったかどうかは実感しにくい。また、何かの拍子に元に戻るかどうかもわからない。それよりは環境転換や行動変容を試してみた方が、少なくとも自分が「自分を変える」ということで何を念頭においていたか、イメージがハッキリする、解像度があがるという点ではよいだろう。

この言い伝えの中でもっともわかりやすく有効なのは引っ越しであろう。なぜならば、引っ越しすれば必然的に他の二つも少なからず変更されるからである。一方、単独ではなかなか変えにくいのは時間配分だ。とはいえ時間配分の重要さはブルジョア近代経営学者のピーター・ドラッカーだけでなく、古代インドの王国運営コンサルタントのカウティリヤも説いている(『実利論』)。しかも両者とも自著の第一章をそれに割いているのだから、知的に自由で自立した存在(カウティリヤならインドの王様)にとって時間管理がいかに重要であるかは古今東西変わらないのかもしれない。

私自身は何に時間を割いているだろうか? 残念ながら、まず賃労働を上げなければならない。今の職場環境は私にとって理想的なので、環境が理想的なまま労働時間だけを半減させるようなちょうどいいフェードアウトのやり方があるといいのだが、日本ではなかなか難しいようである。私としては健康寿命を無限に延伸することを望むが、人生が有限ならば、生計のための賃労働は社会経験のために数種類もやればたくさんである。

次に睡眠である。これはもしかするともっとも有意義な時間の使い方かもしれない。スマホアプリでひたすらクリックするだけのゲームでヒマを潰すよりよっぽどマシだし、健康的である。欠点は眠っていいときに可能な時間だけ眠るといった小刻みな運用ができないところだ。

あとはそんなにまとまった時間を使っているところは無いかもしれない。プライベートなコミュニケーション、サークル幹事としての事務作業、健康や頭の体操のための習慣、オセロなどである。移動時間やスキマ時間、手作業だけで頭脳がアイドリングしている時間を、どうにかして執筆する時間、執筆記事の構成を考える時間、計算や推論を検討する時間、オセロの勝ち方や方針を考える時間に変換していきたい。あるいは生まれて初めての体験を積むための時間を増やしていくのもありだし、自分の人間関係のなかでどんな企画や協力が可能かアイデアを出し、とにかく声をかけてみて、実行に移していく。そういうことに時間を傾けたい。

(1,181字、2023.12.07)


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