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宗教における誠実さについて

 宗教に関する「誠実さ」について考えている。先日、米国のとあるメガチャーチの元主任牧師が「棄教」表明とも読める長文をInstagramに投稿し、アメリカでは少しく話題になっている。

 日本語でいえば、その牧師は「転向」した。もっとも「転向」という語の重さを知る30代も少ないだろう。そして転向を経験した世代は、そろそろ墓の中である。話が逸れた。

 Instagramで転向を表明したのは、アメリカの宗教保守界隈では、それなりに有名な人物だ。ジョシュア・ハリスという。『聖書が教える恋愛講座』『聖書が教える結婚講座』『誘惑に負けないために』など邦訳もある。

 ぼくも20代前半の頃に彼の著作を読み、少しく考えた信仰青年だったので、これについて発言しても良いだろう。そう思って、これを書いている。

 20年ほど前、ミリオン・セラーとなったジョシュア・ハリスの著作の主張は、婚前交渉の拒否、コートシップ(求婚手続)の推奨という古風なものだった。後者は、男性は求める女性について、彼女の父の許可を得つつ「清潔な関係」を保ち、説明責任を果たしつつ結婚を目指すものである。

 平たくいえば「付き合うなら真険に!」というのが著者の意図だった。「男女の付き合い」がそのまま酒池肉林の乱痴気騒ぎに発展する、アメリカの一部大学文化を知る人ならば、彼が目指したところも理解できるだろう。

 著者の背景も分かりやすい。ジョシュア・ハリスは、ホームスクーリング運動の旗手であり、彼自身の出自もそうだった。ホームスクーリングとは、両親がその子供に義務教育を施すことを意味する。

 州にもよるのだが、米国において「教育権」は両親にある。ちなみに日本でもホームスクーリング運動は存在するが、アメリカほど奮わない。たしか日本では、教育権を保護者・学校・国に三分割するとした判例があるので、事情がアメリカとは違うのだろう。詳しくは各自で確認されたい。うろ覚えだ。

 アメリカの公教育の惨々たる状況を知っていれば、たしかにホームスクーリングには一理ある。世俗を極めるカレッジ・カルチャーへの宗教的対抗運動が企図されても決しておかしくはない。米国の大学トップ校がほぼ私大であることと、公教育現場の問題は表裏一体である。

 そのせいか、今回の「転向」騒ぎについては、宗教保守派からは同情の声も見られる。米国の宗教保守というのは「福音派」「原理主義」などの宗教的右翼ではなく、宗教左派とも言える人々である。

 彼らは基本的に、政治的には中道右派であり、古き良きアメリカの知性を担う階層である。宗教でいえば、カトリックや聖公会、または、かつてメインラインと呼ばれたプロテスタントである。

 代表的メディアもこの件を報じているが、小規模なメディアも意見を述べている。たとえば「First Things」が今回の件を取り上げるのは当然だろう。多少の辛さはあるが好意的である。また「The Federalist」が、かなり同情的に取り扱っているのは興味深い。ジョシュア・ハリスの転向表明を誠実なものと評価している。

 たしかに性的スキャンダルを連発した昨今のアメリカ宗教界では、問題になり騒がれただけで、結局そのまま在職している人物も多い。それに比べれば、ジョシュア・ハリスの転向表明は、はるかに善良かつ誠実かもしれない。なお一般に「転向」とはキリスト教徒においては「棄教」に他ならない。

 宗教に関する「誠実さ」を考えている。ぼくは自称「キリスト教徒」であるので、キリスト教における神への誠実さについて、教会や人々への誠実さについて考えている。

 自分自身を振り返る。可能な限り、誠実足らんとした気もするが、「あんな不誠実なヤツは神様がお裁きになるに違いない」と言われれば、なるほど、そうかも知れない、と納得もする。つまり、宗教に限って言えば、とくに人間の「誠実さ」については重きを置いていない。 

 なぜなら「誠実さ」とは、それが成立し、それを評価する社会的な文脈と共同体によって意味が変わるからだ。極端な例えだが、イケメンがやれば許される仕草もキモメンが行えば冤罪死刑である。

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 「誠実さ」を支える文脈と共同体は、平たくいえば教会的マナーと敬虔仕草であり、時代的で相対的なものである。だから、それは基本的に場当たり的で恣意的なものである。大胆にいえば、誠実さなど「欲望への忠実さ」の別名に過ぎない。何か絶対的な「誠実さ」を測る基準があるわけではない。

 一方で、ジョシュア・ハリスと同じように、ぼくも以前属していた教会の関係者には感謝もし、申し訳なくも思う。だから謝罪ではなく、ぼくなりのケジメはつけるつもりでいる。ぼくの場合は、キリスト教内での「転向」または変化だ。似たような事例は多い。

 たとえば、米ソ冷戦期に流行した神学に当てられて「21世紀など来るはずがない!世界の終末が迫っている!」と信じて日本に来た宣教師を知っている。たしか「2000年問題」あたりは備蓄食糧をもって避難したとか、しないとか、そんな話をしていた。言うまでもなく21世紀になったので、いつの間にか、より伝統的なプロテスタントに鞍替えしていた。

 他にも有名どころでは、ルター派から正教会へと転じた神学者ヤロスアフ・ペリカンだろうか。

 実はジョシュア・ハリスの転向も内実としては大差ないのだと思っている。シンプルな話、キリスト教文化圏において、あのレベルの変化は「転向」どころか「棄教」として扱わざるを得ないのだろう。しかし、本人の内在的一貫性を含めて論じなければ、あまり意味がないのではないか。無論、本人に聞いて見なければ判らない。

 20代前半の、若き日の信仰告白としてジョシュア・ハリスはその著作で有名になり、中年期、壮年期を迎えるにあたり、その日々を「悔い改めた」。結果、彼は教会を辞して、離婚し、転向し、教会内外から、様々な声が上がっている。

 このストーリーの全体において「誠実さ」とは何だろう。誠実なのは誰だろう。信仰を棄てたジョシュア・ハリスか。それとも彼を批判する教会か。または、彼のようなものを生み出してしまった“pop American Christianity(いま流行りの米国製キリスト教)” だろうか。

 教会説教ならば、ここで「唯一、誠実なのは神様です」と宣うところだ。しかし、ぼくは神学とキリスト教学を学ぶ者として言わねばならない。たしかに神の態度は変わらない。その一貫性において誠実である。が、それは「終わりの日まで、人間の意思と行為に関して態度決定を留保する」という意味で誠実なのだ。

 究極的な責任者であるがゆえに、神は現場において無責任である。もちろん、聖書と聖伝という呼びかけがある。これらは人間の現実への神の介入であり、招きだ。しかし、それでもなお生の現場における判断は、人間各自に任されている。

 言うなれば、人間に尊厳ある人格を求め続けることにおいて、神は誠実なのだ。神はその無責任さにおいて誠実である。

 当たり前だ。コンビニで勝手におにぎりを食べ、支払わずに出たとする。その責任は、神にはない。食べた本人が支払い謝罪するか、警察の世話になることでしか、彼の尊厳は回復されないのだ。しかし、これも法治が機能しているに限る話だ。

 正直、そうなると「誠実さ」が宙に浮いてしまう。深海でメタンを食べ過ぎた蟹のように、催事の子供が手放した風船のように、浮いてそのまま見えなくなっても良いと思うが、それも困る気がする。

 宗教における「誠実さ」とは何か。キリスト教における「誠実さ」とは一体何なのか。日曜礼拝に行かなくなって久しい「不誠実」なキリスト教徒のぼくは考えてしまう。そもそも日本語における「誠実さ」は、多分に一所懸命さなどを含んでいないだろうか。日本人の多くは元農民であって武士とは関係ないだろう。

 そろそろ皆が起きてくる。今日も生き難さを誰かに与えられた人々のグループホームで炊事洗濯掃除の仕事である。関西全域が炎暑となるという天気予報のとおり、外は晴れている。夏だ。

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