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関係のコスト

 今朝ぼんやりと夢ごこちで二度寝しようと寝ぼけていると「ピンポーン」と呼鈴が鳴った。Amazonから届く予定はない。当然、無視する。しかし、だんだんと目が冴えてきて、もう目が覚めてしまったのを自覚したので起きた。時計は11時前を指している。もうすぐ昼である。

 ぼくは呼鈴を鳴らされるのが嫌いだ。嫌いなので、呼鈴に消音の工夫をしているし、無駄なチラシを投函されぬよう「禁止」のステッカーを貼っている。道を歩くときも極めて険しい顔で焦眉し、のっしのっしと行く。警戒色的な見た目はママ有効である。

 何が嫌なのか。とにかく「損をさせられたくない」、そう思っている。言いかえれば「無関係なものにコストを支払いたくない」と考えている。

 投函される私企業のチラシ広告は、ゴミにしかならない。しかしゴミである以上、廃棄のコストがかかる。潰れて欲しいとしか思えない広告主に対して、なぜ僕が身体を動かし、不快にならなくてはならないのか。小一時間は問い質したい。

 同様に路上で声をかけるのも、かけられるのも嫌である。知人ならば問題ない。しかし、不穏な昨今、見知らぬ他人と目を合わせるのも声をかけるのも、冤罪と犯罪被害に合うリスクがある。どちらもゴメンこうむりたい。

 だからNetflix製作「BlackMiror」のように、生体コンタクトに仕込まれた技術によって、見知らぬ他人の顔にも声にもモザイク処理がかかるような社会は、それなりに便利ではないかと思う。不快な相手、その可能性がある人物とはハナから関わらなくて良い社会に魅力を感じてしまう。

 これは映画「メッセージ(原題:Arrival)」の原作小説テッド・チャン『あなたの人生の物語』に含まれる美醜を扱う短編にも通底する問題だろう。

 見知らぬ誰かの顔を見ること自体が、費用対効果赤字のコストである。見知らぬ誰かの声、主義・主張の喧伝を見聞きさせられることは、大げさながら暴力の被害に当たる。その意味では、ぼくはムスリムの知恵を称揚したい。女に限らず男も何かを被れば万事解決である。存在のみを許容する社会も悪くないではないか。

 呼鈴が鳴るたびに、チラシが投函されるたびに、こんな考えに向けようない怒りを収斂しておさめている。一方で「関係のコスト」未払いの社会においては、テロが暴力的に「加害者と被害者」関係を量産することになる。実際、呼鈴もチラシ投函もぼくにとってはテロと似ている。

 とはいえ大規模な流血を伴うテロは、遭うのも見るのも嫌だ。が、関係コストは払いたくない。せめて一矢報いたい、復讐したいと思ってしまう。そして、ほとんどお決まりのように聖書のどこかを思い出す。「復讐は主のもの」だとかナントカ。

 多発する事故から明らかなように、交通ルールさえ守れぬ人類には「関係のコスト」の貸借対照表は難しい。だから、未だしばらくは超越が要請され、神は応えて言葉を下ろすのだろう。

 コストが無意味な地点からの呼び声だけが、ぼくに貸借対照表を閉じさせる。「受けるよりは与えるほうが幸いである」 然り、アーメン。たしかに無駄なチラシを受け取る不快よりは、まだ賃金の発生するバイトのほうがマシである。

 いや、そういう話ではない。たぶん。そんなことを思いながら仕事に向かっている。雨雲る夏が車窓を流している。うまい素麺を食べたいと思った。

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