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対人恐怖は人嫌いとイコールではない (前編)

人が怖いっていう感情をことばにしてみようとすると、それが案外うまく表せない。たとえば、エレベーターで近所の人とあまり乗り合わせたくないな…というちょっとした心模様。マンションの高層階から下っているとき、液晶表示とにらめっこしながら「1階まで誰も乗ってこないでくれよ」と祈りに近い気持ちになっているのが常だ。いつも「なんでだろう?」と思う。

恐怖という感情は、身の危険を遠ざけようとする心のはたらきだという。
だったらエレベーターで他人と乗り合わせることの〝恐怖〟とか、それを予期させる〝危険〟とは何だろう? 玄関にオートロックのついているマンションなので、乗り合わせるとしても近所の人でしかない。いまどきなので近所の人の顔はほとんどわからないけれど。


近所の人を怖い(というか会いたくない)と感じてしまう理由を挙げてみた。

・人の顔がわからない(近所の人が誰だかわからない)
・親から「挨拶をしなさい」と厳しくしつけられた
・かつて挨拶をする理由がわからなかった時代の名残り
・気の利いた会話ができない
(複数の人が乗り合わせていて、その人たちが仲良く会話しているときに、えも言われぬ圧を感じてしまう)
・何かいちゃもんをつけられるんじゃないかと感じてしまう心の癖

以下はそれぞれの検証だが、理由あって、列挙した下のほうから順に取り上げていくことをお許しいただきたい。

脈絡なくつきまとう「怒られる」という被害妄想


誰といても、あからさまに「ダメ出し」されてしまうんじゃないかなといった恐怖心を感じてしまう癖がある(その状態を対人恐怖症というのだとも思うが)。

理由も根拠もないのに「怒られてしまうんじゃないか」って自動思考してしまう。それはいったい何だろう? で、そんな心配ばかりしていること自体が、実際にそういう予期せぬことを呼び寄せてしまうところもある。

アラサーの時期に住んでいた単身向けアパートで、ゴミの集積所に可燃ゴミを出そうとしたら「お前はここに出すな」とすごい形相でBBAに言われたことがある。管理人からそんな説明はまったくなかったぞ。心のやり場がわからなくなって、市役所に電話をして相談したぐらいだ(それも結局ケムに巻かれた)。

すでに支払った税金の督促がきた。調べてみたら、ちゃんと1ヶ月ちょっと前にペイジーで支払っていた。すると今度は、私の心のなかには「証拠を示さないと払ってないことにされる」という思念が浮かび上がってきて、現在それが止まらない状況になっている。滞納する私が悪いのはわかるが、工面して1ヶ月以上前に払ったものへの行き違いを、しれっと「許してにゃん」ってふうにしないでほしい。

独身時代に住んでいたアパートの家賃が3ヶ月未払いだという督促をされて、びっくりしたこともある。わざわざ通帳のコピーを用意したぐらいだが、結局は先方不動産屋のただの見落としだった。やつは笑いながら「あー、払ってましたね」ってのたまいやがった。というか、なんでそこで激怒しなかったんだろ俺。

まったく損な心性だなと思う。

疎外感が大の苦手


いまどきのマンションなんて、人の入れ替わりも激しい。まして高層マンションなのだから、近所づき合いなんてものはほとんどない。管理組合関係は、私より数段社交的なやりとりに長けている家内にお願いしている(ほんとに面目ない)。

そもそも男どうしというのは、やたらしゃべりかけ合うものではない。ジジイってのはスケベな生き物だからして、話しかける相手として女性ばかりを選ぶ。女性どうしは誰でもわりと上手に連んで、無難なやりとりをしている。

だから別に、私が進んでフレンドリー感を出す必要はない。問題は〝疎外感〟だけなのだが、その疎外感ってやつは意外と根が深い。そんなもの子供の持つ感情ではないか。我ながらそう思ってしまう。

結局は…これも思春期あたりのトラウマなんだろうな。

人はなぜ挨拶をするのか


友達でもないのになんで挨拶する必要があるのか。私自身もかなり長い間そう思っていたし、飲み会でたまたま居合わせた同僚(といっても部署は別)に対して、一緒に飲んでいた人が挨拶をしていたので、私も「おつかれさまです」的な言葉を発したら、おもむろに「誰よコイツ」と吐き捨てるように言われたことがある。殴ったろかと奥歯に指突っ込んでガタガタいわしたろかと思ったはずだけど、私にはそういう言葉を投げつけてきた人間の顔を確かめることすらできないところがある。だから誰にその暴言を吐かれたのかも実はわかっていない(そのテーブルにいた4名ほどの誰か1人だということだけしかわからない)。

友達でもないのになんで挨拶してくるのよ — といった人間に遭遇することは、これだけ生きてると何度もあった(現在の職場にはそういう人はいないので、本当にありがたいと感じている)。が、前述した誰かには心底びっくりした。呆れから怒りに変わるまでにタイムラグが生じたので喧嘩することさえできなかった。酒も入ってたことだし、まあ喧嘩沙汰にならずに住んでよかったぐらいに思った方がいいだろうな。

人はなぜ挨拶をするのか

丸腰であることを相手に示すためなのだと私は思っている。

両親からしつけられた「ご挨拶」


これは当たり前のことなので「ご近所さんに会ったら、ちゃんと声を出してご挨拶しなさいよ」というのは不条理なことでも何でもない。

ただ父親が口の悪い人間なので、笑顔で会釈して玄関に入ったあと、その人の悪口や陰口をまくし立てることがしょっちゅうだった。「あいつの目つきおかしいで」「あいつゴルフの練習を(裏の空き地で)やってるとき革靴履いとる。アホちゃうか」「あいつキライ」

あれは何々教の人だとか、あれは⚪︎⚪︎人だとか…ついさっき普通に挨拶した人間のことを玄関を閉めた途端に言い出すものだから、正直なところしんどかったんだよな。一周まわって毒親の話になってしまいました(苦笑)。

私には人の顔の区別がつかない(そのくせ表情から喜怒哀楽を読み取ることは人一倍敏感だったりする)という困った特性があるが、それ以前に人の目を見ることができないところがある。

私は人の目をみることが極度に苦手


人の顔がわからない(相貌失認とよばれる症状だそうです)という私自身の特性に関しては機会を改めたいので、まずは「目」「視線」というものに関する話にとどめることにする。

目が見れない — 私ははたして他人の〝目〟に恐怖しているのか?

ポートレートやグラビアを見ているときの被写体の「目」に恐怖を感じることはない。むしろ、神々しくさえ感じる。つまり、リアルな人間の目を窓口にして相手の心のうちを見ようとするから怖さを感じるのだろう。

学生時代、友達に対してどういう視線の置き方をしていたのかは覚えていない。社会人になってからは、ハキハキした口調とは裏腹に、ほとんど相手の目を見ずに話しているという自覚がある。ちょっとはマシになっているかもしれないが。

思春期のころには「オマエ、メンチ切ったやろ!」といった、主にヤンキーたちの間での挑発の様式があった。危なそうな人と目を合わせるといちゃもんをつけられたり、殴られたりするぞといったもの。ただ、その意識から視線恐怖になったとは考えにくい。

女性恐怖から派生したという仮説


思春期に怖かったのはヤンキーか女子かと問われたら、まちがいなく女子のほうだった(笑)。ここでヤンキーを見ることと女子を見ることの違いは何かと考えたら、その答えは明快だ。キーワードは〝羞恥心〟だ。

私は小学6年生で転校を経験している。
対人恐怖の発症もほぼこのタイミングと一致している。

振り返れば、羞恥心は人一倍強い子供だった。
「はずかしい」という気持ちは一体何なのかと問われると一層むずかしい。

恥ずかしいとは、自分の行動や状況が他人に見られることにより、心理的な不快感や困惑を感じる状態を指す言葉である。この感情は、社会的なルールや規範に反する行動をとった時、または自己の期待に反する結果を引き起こした時に生じることが多い。恥ずかしいと感じる状況は人それぞれであり、文化や個々の価値観により異なる。恥ずかしいという感情は、自己の行動を修正し、社会的なルールや規範を遵守するための重要な役割を果たしている。

https://www.weblio.jp  より

なるほど。たしかに私は自身が他者から「観察される」ことが苦手で、これはいまだにそうかもしれない。幼少時に思い当たる〝はずかしさ〟は何かと考えたとき、たとえば「歌声を聞かれること」だったり「裸体を見られること」だろうか(家内にでさえ一糸纏わぬ姿を見られるのは苦手です)。小学生のころは母親譲りの泣き虫で、学校でしょっちゅうべそをかいていた。高学年になってもまだ同級生の前で泣いていた記憶があるので、そろそろ泣かされることもまた恥ずかしいことになっていたはずだ。

転校して私自身が一番変化したのは「人前で泣かなくなったこと」だ。そして周囲が一番変化したのはきっと「女子の体つきがかわったこと」だっただろう。転校する前は男女問わずふつうに誰とでも喋っていたのに、突然女子と喋ることすら忌避するようになってしまったのだ(赤面恐怖症をともなっていて、特定の女子の名前を想像するだけでも顔がほてってしまうという、実にイヤな症状だった)。かりにこれが性的な羞恥心だったとして、こんな突然に発症するものなんだろうか?

羞恥心が醸成された場所といえば … 毎度毎度〝毒親〟〝機能不全家族〟の話になって辛いのだけど、やはり家族関係の中に思い当たるあれこれがある。父親も母親も、私がはずかしそうにしている場面を眺め下ろしてからかうことが大好きな人たちだったから。毒親系の話はしょっちゅう記事にしているから、ここでは深入りしない。

なぜ女子が恥ずかしさの対象だったのだろう?


小学生のころから、特定の男女が仲がよすぎると相合傘みたいのを書いてからかうといったものはあったわけで(私は執拗に標的にされたことはなかったと思う)、そういう意味では女の子を意識するという心模様には、私に限らずどの男子にもデリケートなところがあるかもしれない。事実、転校直前にある女の子を「好きだ」って思った記憶が残っている。名前はフルネームで覚えているが、その子との間に果たしてどんなエピソードがあったものだかまったく覚えていない。

ただ転校を機にまったく泣かなくなったぐらいなので、そう努力させるに十分な動機があったのだろう…というか、あったのか(?)。すごく平たくいうなら、泣くことへの恥ずかしさは、同じくすぐに泣く癖のあった(後期高齢者化した現在でさえ変わっておりません)母親の心性から憑依してきたものとしかいいようがない。羞恥のむず痒さは…やはり両親からのいじめ(いじり)によって悪化したのだろう。

長いので続きは後編で。

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