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O・ヘンリーのあのパン屋さんは果たして「善女」なのか「悪魔」なのか

むかしから、人間どうしの距離感をつかむことが上手になれないところがある。

喋りすぎたり寡黙すぎたり、親切にしすぎたり、反射的におうむ返しをして別れてからひどく後悔しすぎてしまったり。私はどちらかといえば…いや、どちらかと言わなくても、すぐに余計なことをしすぎて失敗してしまうタイプ。母親譲りだ。

いつまでも厨二病の自分なのに、少しだけ精神的にオトナになったかな…と思うのは、お節介には(見返りどころか)しっぺ返しが訪れることもあるというリスクを受け入れることができるようになったことかもしれない。いろいろやらかしているが、誠心誠意謝ることはできると思う。

先方が望んだ物事を助けることと、先方が望んでもいないのにおせっかいを焼くこととはまったく別物なのだ、自分よ。それでも、そういう行動パターンから抜け出せない。母親がそういう人だったので、私の脳にもきっと何か地雷みたいなものが埋め込まれている。そうにちがいない。


O・ヘンリーの「善女のパン」


青空文庫にも置かれているが、邦題は「魔女のパン」となっている(お節介にもアンダーライン部分にバターリンクを仕込んであります)。わりと有名な短編小説なので、タイトルや作者を知らなくても、あらすじを話せば「ああ、あの話か」ってふうになると思う。

親切なミス・マーサのおせっかいは、若い男をとんでもない窮地に追い込んでしまう。短いながらもよくまとまった、ほろ苦くてちょっと皮肉なお話。

青空文庫の翻訳者 山本ゆうじさんの「作品について」

以下の引用部分はネタバレになってしまうのでご承知おきを。

マーサは小さなパン屋をやっている独身女性。
常連客の中年男性がいて、いつも(焼きたてではない)安い古いパンを2つずつ買っていく。いつも指が汚れているその男性を、マーサは売れない絵描きだと思い込んでいた。礼儀の正しいあの画家が、固くなったパンをなにもつけずに食べている姿を想像しては、それを気の毒に感じていた。
ある日、マーサは親切心で古いパンに切れ目を入れてバターをつけ、それをいつものパンを買いに来たかの紳士に手渡した。彼女は胸をときめかせていた。

しばらくして、彼はすごい剣幕でパン屋に戻ってきて、汚い言葉で彼女のことを罵った。彼は設計士で、古いパンを消しゴムがわりに使っていたのだ。

青空文庫の翻訳テキストをもとに要約しました

たぶん小学生のころに読んだと思うが、これがもうトラウマといっていいほどの衝撃を受けた。小学時代は泣き虫だったけど、ひとりで小説でガチ泣きしたことなんてそうはなかったと思うのだ。

誰の翻訳文でこの短編を読んだのかはまったく定かではない。何せ、小学生の中学年か高学年のころの話だ。

原題は Witches' Loaves


エイゴシャベレマセーン

そんなわけで辞書で調べた。witchは「魔女」「醜い老女」、loaveは「選択」「チャンス」といった意味だそうだ。この文章を私は、おそらく子供向けの書物で読んだはずだ。

この拙文をあげてからだいぶたって、ミポリン(80年代アイドルのひとりである中山美穂さん)の曲に「witchs」というのがあったことを思い出した。下線部にリンク仕込んどきましたが…私自身も期せずしてたぶん30年ぶりぐらいに聴くことになりました。横道にそれてすみません。書いてみたくなっただけです。

この一連のできごとを、O・ヘンリー(1862〜1910 47歳没)は単に悲劇として扱っているだけであって、登場人物に対する主観はほとんど述べていない(英文をChatGTPに訳してもらった)。ヘンリーが語るところ、それほど紳士かマーサのどちらかに肩入れしているわけではなさそう。ただ、パンにバターをはさむくだりで、その行為を「愚か」と表現しているセンテンスはあったかも。

以前に記事にしたときに、世間がこの短編をどうみているのかを知るために、Yahoo知恵袋とか個人ブログとかを物色した。支持率では圧倒的多数で、この物語におけるマーサを「愚か者」と評していたと思う。幼少時の私には、マーサを愚か者だとは見なせなかった。母親がまさに、この手のお節介を私に次々と繰り出して、私が怒ると「なんでわからないのよ!」と泣くような人だったのだ(苦笑)。

母親とこのストーリーについて話し合ったことなんかはない。ただ、もしこの短編小説を当時の母親に読ませて感想を尋ねたとしたら、それこそ血相を変えて
「まあっ!!! ひどいおじさんやねっ!!」と言ったにちがいない。

生活レベルでこの価値観を持ち込むと …


風情がないが令和のこの時代だったら、それこそ訴訟モノだろう。

でも … 私には本当に悲劇にしか思えないのだ。
心ってそんなものだろ?と。
いろんな裏切りに遭い、いろんなものをむしり取られて … 人生からあんなこんなの洗礼を受けたいまだって、このO・ヘンリーの文章を読むとどこか胸の奥が痛む。

母親が呆け始めたぐらいのころに、銀行で大立ち回りを演じたという伝説を父親から聞かされたことがある。定期預金などで長年ずっとお金を預けてきたというのに、見返りが何ひとつない(おそらく特段の挨拶とか粗品あたりを期待してしまったのだろうな)とキレたらしい。まあバブル期あたりだったら、投資信託の勧誘とかで、ちょいまとまったお金?を預金している人に声をかけて、ささやかな粗品つきで資産運用を勧める…なんてことはあっただろうけれど。いまや小口の預金者は、これっぽちもありがたいものではないというのはよく言われることだ。

いや、銀行さまの言い分も聞いておこう。ATMの設置コスト(最近は台数を減らしている)もバカにならないだろうし、都度の電子取引にもコストは生じているだろう。何よりシステム開発と保守・管理にもお金がかかっている。それらを計算に入れていけば、結局は預金している我々のほうがトクをしている可能性もある。

そもそも普通預金口座というのは公共サービスなんかではないのだ。

母親は呆けるべくして呆けたのかもしれない。令和のこの時代、老若男女とわずアップデートできなければ生きられない。キレる老人と揶揄してしまいがちだが、自動レジやらスマホやら…わからないものばかり押し付けられてキレる気持ちもわからなくはない、これマジでね。

感情を麻痺させる術が欲しい


お節介と忖度の違いは果たして何なのか。
衝突が起こったときのこのごろの解決策は、対話ではなく分断ってのは何よ。

政治家たちの立ち回りを見ながら、不条理だけど「配らなければならない配慮」ってやつを探りあてなければならない。

俺ら政治家なんかじゃないんだけどな。とほほ。

会社組織でも最近は、チームワークというものが「体育会系」的なものとしてよりは、はるかに「機械の歯車」的なものとして語られるようになってきた。否、体育会系として活動していてもちゃんと歯車的な役割分担はある。だけど、このごろは「言われた以上の余計なことはやるな!」と怒られてしまったり。

仕事に創造性がほとんど持ち込めなくなった。言われたことしかできない。
納税世代が元気を失ってしまったことだけは事実だろう。24時間戦っていたころの仕事ってのはやはり楽しかった一面もある。
やはり感情で動いているんだよ、人間はって言いたくなるのをさんざこらえながらもせっせと楽しくもないのに働いてる。

いや、お節介も焼きたくなるし余計なこともやりたくなる。
それが人として生きていることなんだと思う。いやここまで開き直っちゃうと、逆に反感を買ってしまうかもしれないから、このぐらいにしておこうか。

趣味は最後の砦だと思っている


前職で干され友達が絶滅して久しい私だが、ひとりだけ中学時代からの友人がいる。私は名古屋住みで、彼は東京住みである。長いこと年賀状だけのやりとりだったのが、ふとした間違い電話(調子悪かった私の携帯電話が、彼の電話番号に着信させてしまったのだ)からLINEのともだち登録をすることになり、現在もわりと頻繁にネタ系動画の情報交換とか鉄オタ系の話とかをLINE上でやっている。本当にありがたい。ほんと助かってる。

彼としばしば話すことは「趣味が最後の砦だな」ということ。おたがいに加齢とか男性更年期とかを抱えている同士。彼は上場企業のサラリーマン。退職金はおそらくビッグだろ?って冷やかせば、そんなものマンションのローン返済でプラマイゼロだとぼやく。みんな戦っている。令和ってのはある意味、ちょっと意味合いは変わったけど、呑気な昭和の常識をアップデートしつつ生きていくために〝24時間戦っている〟時代だ。お金のストレスが夢にまで出てくる。たしかに24時間戦ってる。牛若丸三郎太(時任三郎)さんにあの歌を歌ってもらわなくてはならない。

https://www.youtube.com/watch?v=MmHlyCaqLws

さあ、それぞれの趣味にいそしみながら戦っていきましょう。
私も来週からいよいよ今年度の仕事がウイークリーで回っていくし、兼業のための面接も控えている。無事に仕事にありつけるだろうか。

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