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〝親切〟〝許し〟の価値がデフレを起こしてる

こんな記事を読んだ。

投稿者は車酔いがひどいので高速バスの窓側を予約した。隣の席には子どもを抱いた母親が座った。バスが出発すると、子どもが「窓際に座りたい」と泣きだした。 これを見て「席を替わりましょうか」と気遣うと、母親はさも当然というように「はい、替わってください」と答えた。ベルトを外して席を譲ろうとすると、なんと母親は腹立たしげに「早くどいてください」と言い放った。

 https://news.yahoo.co.jp/articles/267bd935d705580dd0e69aa104c57745b8b0643c 

実はきのう、私自身もこれとちょっとだけ似た経験をした。

時刻表とにらめっこして、窓際に座るために接続のない電車をあえて選んだ。遠出なので何がなんでもいい座席を確保したかった。接続する電車の発車まで、たぶん20分ほどは待ったと思う。

数分で接続する後続の電車からは、かなり多くの人が乗り込んできた。

若い母親が幼い息子と連れ添って乗ってきた。その時点では、2人掛けシートの通路側にしか空きがない車内だった。

若い母親は少々苛立っているように見えた。むずがる息子を、私と通路をはさんだ向こう側に座らせ、母親が私の隣に座ろうとした。そのとき、なんだかよくわからない圧を感じてしまったのだ。

「私が向こう側に移動したほうがいいですか?」

言ってしまったよ…なんでこんなに物分かり良すぎるんだよ自分。

「ええ、そうしてくれます?」

言葉が軽い。ありがとうという言葉は多分なかった。

ここまで高圧的な言葉ではなかったかもしれない。感じ方はあるいは私の被害妄想でブーストされているかもしれない。ただ、さして感謝されるわけでもなく事が進んだのだけは確かだ。子供とトレードすることを余儀なくされた席の窓際は若い女性だった。子供との相席なら許せても、私のようなオヂが隣りだというのなら「嫌だなあ、オヤジが隣り合わせかよ」ってふうに思われても仕方ない。なるべくその女性に迷惑をかけないよう、可能なかぎり体を縮こませながら数十分座りつづけた。

親切心とか「許し」に際限を求めてはいけない — と何かで述べていたのはさだまさしさんだっただろうか(間違っているかもしれません)。たしか「償い」という歌に対するネット記事か何かで見たような気がする。

許した以上は、相手がどういうリアクションを示したかをあとから問うてはならないという意味だと私は解釈している(ここはさださんが意図していることとズレているかもしれない)。

「感謝が足りない」という気持ちに陥るたびに、自分の浅ましさに無性に腹が立った。親切にした相手にではなく、良からぬ感想を抱いてしまった私自身に対して腹立たしさを感じてしまうフシがある。結局、私自身の寛容さの欠如に対して、丸一日考え込んでしまうはめになった(泣)。

しんどそうなご年配の方に座席を譲るときも、同じようなことをしばしば経験する。現役の納税者である私が、年金世代の方々からの容赦ないリアクション(わしは譲ってもらうほど衰えていない、さっさと譲れ、等々)が返ってくるとすごく虚しい気分になってしまう。心配ない、それは滅多にないことだから。

かくいう私もあまり体調がすぐれないので、シルバーシートとわかっていながら甘えさせていただくことが少なくないのだけど、この手の出来事を思い返すとしんどい気分になる。

これはどの国にも共通のするだろうけど、施しを受けた側が感謝の意を表しないなら施しという考え自体が無くなっていくだけってふうに思うかもしれない。でも、私のように他人軸の自己肯定感を抱え続けている人間には、こういう場面では席を立たずにおれなくなるのだ。困っているけど、一体どうすればいいのやら。

最近は「謝らない」人が増えた(主観です)。
そして、感謝を表明してくれる人も減った(これも主観です)。

単にその方が器用でない人でないだけなのかもしれないから、あまり責めたくはないのだけど。私も私で、感謝されると逃げ出したくなってしまう心性に問題を抱えているので、結局は何もいえないところはあるけどね。

不機嫌である時間が増えてしまった。
加齢のせいばかりだと思いたくない。どうすればいいんだろうね。

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