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ぼくの居場所の作り方

意識しないと居場所が確保できなくなったのはいつからなんだろう。サードプレイスなんて言葉もよく聞くようになった。


じゃあそもそも、みんな居場所ってどのくらい持ってるものなのかな。


サードというくらいだから3つ?
10こ持ってたらさすがに疲れちゃうかな。
もしかしたら1つもないと思っている人もいるかもしれない。


「居る場所」と「居場所」はもちろん違う。


転勤したてのあの所在なさ。
あれはまさしく「居る場所」ではあるけど「居場所」ではない状態だ。


「居場所」ってちょっと抽象的だから、意味を調べてみた。コトバンクだとこんな感じ。


「居場所」
1 人などがいるところ。いどころ。
2 その人が心を休めたり、活躍したりできる環境。


うん。
なんとなくしっくりくる。


1はさっきの「居る場所」と同じ意味だね。
今回は2の意味での居場所について考えてみようと思う。



以下はあくまで僕の場合は、という話。



まずはじめに僕は要領があまりよくない。
言われてすぐにテキパキこなせちゃうようなタイプじゃない。


考えてみると、
この事実が僕の居場所作りの根っこになっていると思う。


僕がそこを居場所だと思えるようになるには、「役割」が必要だ。
要するに「メンバーの中で自分はこういう存在なんだ」という自負がある、ということ。この感覚を持ててはじめて居場所だと感じられるようになる。


しかしそのように論立てした時、1つの問いが浮上してくる。


もし、その役割が自分にとってありがたくないものだったらどうだろう?


本当は弱音を吐きたいのに頼られるリーダーの役割になってしまった。いじられるの苦手なのに、いじられ役にされてしまった。


あるある。
たしかにそれじゃ居場所どころか余計に居心地悪くなってしまいかねない。


でも自分のこれまでを考えると、
不本意であろうがなかろうが、役割を持っている実感さえあれば、結果的にそこが居場所になっている気もする。


なんでなんだろう、と考えてみると1つの仮説が出てきた。


「役割は自分ナイズできるから。」


スポーツで例えると、サッカーではストライカー(点取る人ね)と言ってもいろんな人がいる。足が速くて相手選手を置き去りにする人、大きくて競り合いに強い人、ポジション取りの上手い人。見た目も特性も全く違うけど、みんな立派なストライカーだ。


逆に役割がないと、入れ物自体がないので自分ナイズのしようがない。これはスポーツに限らず人間関係でも同じだと感じている。


例えば僕はしっかり者ではないので、リーダーになっても、あまりリーダーシップを発揮しない。できない。
だから、もしもリーダーになってしまった時は、しっかりしていないリーダーとしての認証を周りから得るまでが戦いだ。認証を得てしまえば、そこは居場所だ。


役割がないと心がふらふらしてしまう。さっきのコトバンクの言葉を借りると「心を休め」ることができない。
当然、「活躍したり」もできない。


要領のいい人であれば、役割を自分ナイズすることなく場所ごとの顔を作れるのかもしれない。そして、そこを居場所としていけるのだろう。
しかし僕はあいにく要領が悪いため、いろんな顔が作れない。いや作れないというより、作ろうとすると居場所にできない。


だから僕は役割を自分ナイズする。というやり方で、要領の悪さを補ってきたのかもしれない。



とはいえですよ…



役割は天が与え給うものではない。
役割がないまま、ただの「居る場所」であり続けることだってありうる。


では、与えられた場所で役割を得るには、どうしたらいいのだろうか。


僕にとっての答えは、
「コミュニケーションの総量を増やすこと」
だと思ってる。中身はそれほど大事ではない。仮に職場でも仕事の話でコミュニケーション量を増やす必要は全然ない。


中身に関わらず、コミュニケーション量が増えてくれば、周りに自分の人間性や能力、趣味趣向、思想、その他諸々を認識してもらえる。そして、相手に関して認識もできる。


これは効率的にどうこうできるものではない。
量の中からじわじわと染み込んでいくものだと思う。


だから、
「豊富なコミュニケーションの中で獲得した役割を自分ナイズすること。」


これが、居場所獲得のために僕に課されたミッションだ。


それがどんな役割だったとしても、自分ナイズで受け入れていく所存である。
あんまりパソコンを使わない役割だとありがたい。



おしまい

いや、やっぱりもうちょっとだけ話させて💦
(長いな…)


僕は3ヶ月ほど前、「コルクラボ」というオンライン・オフラインコミュニティに入った。6期生で、今のところコルクラボでは1番新参ということになる。


コルクラボは「ザ・居場所」といった雰囲気の空間だ。だから、ここにいる人達の多くがコルクラボをサードプレイスとしている、と僕は感じている。
聞いて回った訳ではないので、実際のところは分からない。


では入って3ヶ月の自分は、はたしてここを居場所と感じているのか、と考えた。


居心地はとてもいい。
でもまだ居場所ではないだろう、というのが今の感覚。


ん?
居心地はいいのに居場所ではない。
この感覚はなんだろう。


もどかしさを紐解いてみると、こんな仮説が浮かんできた。


居場所作りには、その前段階がある。
それは場に「なじむ」ということ。


そうか。
僕はそこを居場所にするために、
1.場所に入る
2.場所になじむ
3.場所で役割を持つ
3.場所が居場所になる


というプロセスを必要としてるらしい。


では「なじむ」って何か。


いや長くなるので、これはまた別の機会に書いてみることにする。


一言で言うと、なじむって「ここにいてもいい」と感じられること。なんだと思う。


そう考えるとコルクラボと僕の関係は、
「なじんではきたけど居場所にはまだなってない」
といったところだろうか。


言い換えると、
「役割を持ってはいないけど、僕はここにいてもいい」になる。


うん、しっくりくるかも。


コルクラボに「ザ・居場所」感があるのは、きっとコミュニケーションを取りやすい設計になってるからなんだろうな。


3ヶ月くらいたったら、またこの文章を読み返してコルクラボと自分について考えてみよう。半年経ったその頃にはコルクラボがまた少し、居場所に近づいているのだろうか。


3ヶ月後が楽しみだ。


今度こそおしまい。










これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!