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クリエイターと健全に向き合うための思案——「セックス」MADなどを通じて

はじめに

 僕は「セックス」で客観的に問われる是非自体は正直どうでもいいと思っているのですが、その時の出来事を記録するという価値はあると思ったので記していきます。これは僕個人としてのみ、どう向き合うかという問題です。
 しかし、コンテンツやクリエイターに精神的支柱を置く僕のような多くのオタクにとって、この思案は何かしらの参考になると信じています。

「セックス」とは

 2023/5/19にDECO*27氏によって投稿されたボカロ曲「ラビットホール feat. 初音ミク」の二次創作MVが、今年2/7にchannel氏によって投稿されました。このMVはX(旧Twitter)で凄まじい大バズりをし、これを元にしたイラストなどの三次創作も多数投稿されています。

 そんな中で、例のMVのパロディとしていよわ氏のボカロ曲「きゅうくらりん」に登場するキャラクターを用いたMADが同年3/15に投稿されました。同MADでは動画タイトルで「セックス」と明示している通り、キャラクターが下半身を露出させていて、あからさまに性行為を思わせるような描写があります。

同MADを皮切りに、同様に他のキャラクターを用いたMADが次々と投稿され、このことは「空前のセックスブーム」などと呼ばれている(無論、これは当人たちが流行らせたいがために強引に、内輪的に使われるという側面もある言い回しであり、本当にブームと呼べるほど大々的に流行っているかはどうかは疑わしい)。このようなMADに対しては所々で否定的な意見も挙がっています。いよわ氏本人がR-18に該当する二次創作を禁止しているということもあり、これは特に「きゅうくらりん セックス」に関するものが多いです。

好き嫌い.com「いよわ」より

本編

 表現の対象となった人物、または一部の視聴者が不快に思うだろうと予測できるような表現は一般には投稿を思いとどまらせるものなのですが、ネットではあえてそれが投稿されることがあります。例えば、いわゆる「例のアレ」としてカテゴライズされるコンテンツの一部がそうです。こうした露悪的ともとれる態度を成り立たせているのは何か。それは、人を傷つけることにあくまで自覚的になった上で面白さを優先する「開き直り」の心理だと思います。つまり彼らは、「自分たちは悪いことをやっている」という暗黙の了解を共有した上で、そのスリルをなるべく人目につかないような、かつそれなりの人も集められるような場所で楽しんできたのだと思います。
 こうした雰囲気は投稿者と視聴者双方の匿名性によって守られてきた部分もあるのです(投稿者がその界隈において有名になることはあるが、依然として俗世間との隔たりは保たれている)が、それなりに名の通った人物が共有したり、寛容な反応を示したりすると、いわゆる「開き直り」の文脈を忘れた形でどんどん消費されていってしまうという危険性もあります。このような懸念はすでに他の方が書いたあるnoteと概ね一致するものです(ただし、対象となっている二次創作のモラルの守られかたには質的な差があることを強調しておきたいです)。

 僕が「きゅうくらりん セックス」をみてどう思ったか。
 率直に言って、不愉快な気持ちになりました。元のキャラクターのイメージが毀損されることもそうだし、こうした悪ノリが手放しで共有されていることにどこか違和感を覚えた。
 「良心の呵責を覚えないのか」と訴えても、悪ノリをする側はそんなことは分かった上でやっている。なんというか、ここに全てが集約されているような気がします。そもそも咎める側とやる側とでイデオロギーが違うのですから、議論が収まるはずもありません。
 ですがいよわ信者の僕としては、そのような悪ノリにはできる限り距離をとりたいと思います。

 なぜなら、一度露悪的になってしまったら、それ自体がまた次なる露悪の契機になってしまうからです。悪であるということそれ自体が、悪に留まり続けるという形としての悪の性質をもっている。このような負のスパイラルは「開き直り」の論理がもつ宿命ともいえます。最初に覚えた良心的な感情を無視してしまったせいで、その人のことを好きな自分と悪としての自分が引き裂かれ、やがて好きでいられなくなってしまう。これが本当に苦しいのです。

 「本当のファンならクリエイターに対する批判や悪ノリも受け入れるべき」という考えもありますが、僕は決してそうは思いませんし、正直この考えにはうんざりしています。それは自分が傷ついた気持ちを無視して批判や悪ノリに同化することで精神的に楽になろうとしているだけです。ですがそれは最終的には幸せにならないと思います。
 かといってクリエイターを徹底的に擁護し、いわゆる「盲目信者」になるべきと言っているわけではありません。それはそれで疲弊するし、精神的な距離が近すぎるがために転倒してアンチになる恐れがあります。「盲目信者」という言葉を使っているので取り違えないでほしいのですが、これは論理で筋道立てて擁護することこそにその危険があります。何もかも自分の尺度で理解しようとするような距離に近づきすぎたときこそに、自分が思う相手の理想像と食い違いが起こり、裏切られたと感じるからです。

 ではどうすればいいのか。これは「盲目信者」との区別の塩梅が非常に難しいのですが、自分の価値判断の尺度をクリエイターに一致させるという意味で「信者」になることだと思っています。「セックス」の例でいえば、先に示したいよわ氏による規約に従って、決してR-18作品を好意的に受け取らないことです。一方的に「好き」な相手と引き裂かれないためには、自分が価値観を一致させる。これしかないと思います。そのためにはやはり、露悪的なことこそ面白いといった価値観から降りるべきです。また、そういった価値観を持つ相手を尺度に置くこともやめるべきです。なぜなら、自分が他に好んでいる人物がその悪意の対象になった場合には自分が傷つくからです。
 これまでの主張を要約すると、価値判断の基準を自分の「好き」な人物・対象に置き、適度な距離感を保った信者になるということです。

 あれこれ書きましたが、結局は自分の好きだという気持ちに素直になるだけでいいのだと思います。なのにそれができないのはなぜか。きっと、界隈として、コミュニティとして、表現に対する寛容さを自分が肩代わりすることで、ある種の人徳的な体面を支えようとしてきたのだと思います。ですが、もっと肩の力を抜いて、ただ一人の人間としてコンテンツに向き合えばよいのではないでしょうか。

さいごに

 普段は露骨な界隈語りはためらわれるのですが、これは自分にも関係のある話題だと思い、つい口を出してしまいました。以上で述べたことは、いわゆる誠実・露悪論争に対する僕なりの回答になります。実はこれらの考え方は、僕が最近興味を持っているキルケゴールという哲学者から影響を受けた部分もあります(解釈が合っているのかは分からないですが)。いずれにせよ、本記事が何かの役に立てれば幸いです。

波方(@Xb9Xu