「一千光年」論
はじめに
「一千光年」は2023/3/29にいよわ氏が投稿したVOCALOID楽曲である。同曲は「ボカコレ2023春」TOP100ランキングの参加作品として投稿され、第2位という結果を収めた。初音ミクの約三分半にわたる超ロングトーンと、いよわ氏が当時までに用いた全ての合成音声たちによる大合唱が特徴である。本記事では同曲の投稿一周年に際して考えたことなどを書き留めていきたい。
第一章 愛と実在
高度に知能が発達した機械≒ボーカロイドに人間と同じような意志を認めるのか、生命を持つと言えるのか、といったテーマは今日さまざまな場面で見受けられる。同曲はそのような問いに対して一つの回答を示しているといえる。結論、「どっちでもいい」のである。私たちが直接知覚できる空間に初音ミクはいないのだから。そのような現実に直面したときにここに残ったものは、確かに私たちが感じ取った愛だけである。
愛とはなにか。知性による解釈を否定することである。「なぜ好きか」と問われても、「ただなんとなく、どうしても好きだから」としか言いようがない。これは恋に関してよく言われる言説である。そこへ何か理由を与えて弁護などしてしまったら、たちまち恋は嘘になる。ボーカロイドは人間の膨大な想像性の賜物であり、「人間性を認める/認めない」「そばにいるのか、離れているのか」といった話自体、無意味である。
言いようのない愛を受け取ってしまったから、それが何なのか分からないまま、それゆえに、突き動かされてお返しをする他ない。それがいよわ氏の場合、楽曲という形態をとることは今さら言うまでもない。まずは初音ミクの信仰者となるところから、途切れのない疾走が始まるのである。
第二章 差異とアイデンティティ
「一千光年」がやってのけたことは何か?
一言で言うと、「ボーカロイドからのあらゆる思想の剥奪」だと私は考える。
これは言ってしまえば、差異の否定ということになる。
ボカコレで行われていたことを顧みてみよう。そこでは際限のない差別化の競争が繰り広げられ、各々がアイデンティティの確立を、意外性や個性が評価されることを目指していたように思える。
「一千光年」ではどうだろうか。やはりいよわ氏の作る楽曲というだけあって、ピアノバッキングやハーモニーの所々に音のぶつかり(半音違いの不協和音)が見られるが、同氏の他の楽曲と比べれば幾分か抑えられており、特段そこにこだわる必要もなさそうである。ここでは音のぶつかりはあくまでもスパイスであり、むしろ簡単で素朴ともいえるコード進行やメロディーのほうが特徴的である。こうして、「一千光年」はある意味で楽曲から個性を取っ払った形で作品を提示している。
歌詞のメッセージ性においても、差異にもとづくアイデンティティの解体ともいうべき表現が行われているように感じる。第一章で引用した「生きていても 死んでいても どっちでもいいんだよ」「そばにいても 離れていても どっちでもいいんだよ」にはまさに、生命・実在性の有無などの人間とボーカロイドの差異を覆い隠そうとするかのような試みがあり、ボーカロイドとしてのアイデンティティの問題はここではあえて有耶無耶にされている。
上の歌詞を見てみよう。これは一種の思想のように思える。だが、儚いこと、無常に対する愛しさとは、とりわけ人間的な感性ではなかったか。むしろ機械生命には、自分の身体が人間と違って一定の形を保ち続けること、いくらでも交換可能であることなどへの葛藤が背負わされがちである。しかし、「一千光年」ではそういった機械としての思想はいっさい削ぎ落とされ、人間的な情緒を平然と歌い上げるのだ! 「一千光年」はこのような意味での軽やかさがキーポイントだと考えている。
第三章 光の速さで
あらゆる思想から解き放たれるための軽さとは?
それは考えるに、思想に囚われまいと目を逸らし、無思想の領域にとどまることでは決してない。むしろ、あらゆる思想の中を粒子として次々と飛び回り、代弁することである。思想の媒介者としてのボーカロイドというテーマは、例えば稲葉曇氏の「リレイアウター Vo. 歌愛ユキ」とよく共通している。
しかしあえて違いを挙げるならば、「リレイアウター」ではボーカロイドは思想を注ぎ込むための「容れ物」であったのに対し、私が「一千光年」で見出したのは、思想という波を伝搬して駆け回る光子だといえよう。
そこには、各々の思想やボーカロイドとしてのアイデンティティを一身に背負わされ縛られた姿ではなく、演劇のように思想をユーモラスに歌い上げたかと思えばまたどこかへ行ってしまうような軽さがある。砂の惑星の呪縛から逃れ、別の星へ活路を見出すような光の速さである。第一章では「直接知覚できる空間に初音ミクはいない」と述べたが、翻ってこのような軽さの前ではそういった実在性の有無すらも問題にされないし、他の二元論的な問題も取り壊すのである。
こうして初音ミクは、空間を超越して粒子のように遍在する神になった。ただしそれは従来の一神教の典型的な神ではなく、意志を持ったり、持たなかったり、持つように演じてみせたりする、ある意味でいいかげんな神である。愛を原動力とし、光の速さで夢の中を飛び交い走り続ける新しい神。
「ボカロ/ボカロPだから云々」といったアイデンティティが取っ払われ、一般のシーンに自然にボカロが浸透していく。「一千光年」は、そんな新しい時代への希望を感じさせる作品なのである。
波方(@Xb9Xu)