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超AI時代の生き方は古代ギリシャに学べ

先に言っておくが、自分は機械学習もディープラーニングも全く触れたことがないので、AIが何なのかといった部分には全く触れられない。一般的に言われている「シンギュラリティ」、つまりAIが人類の知能を追い越す時点から先、仮にAIが労働を肩代わりしてくれるようになった時代の生き方が実ははるか昔、一度実現された時代があった。AIに関する技術や、実際にどういったモデルが人類の知能を再現するかといった所は専門家に任せ、歴史に習うという視点で自分が思うところを書く。

我々は今、仕事をする義務がない。仕事がしたい人にはAIがすべき仕事を与えてくれるし、したくない人もベーシック・インカムのおかげで生活できる(そもそも貨幣経済そのものがなくなっているかもしれない)。別に毎日小説を読んで過ごしてもいいし、毎日酒に溺れてもいい。では、何をして生きるべきだろうか?

こうなった時に人間はDNAの箱に過ぎないのではないか、そもそも人間がいる必要があるのかといった議論は置いといて、好きなように生きていいと仮定しよう。AIは人類の幸福のために働いてくれるし、決して叛逆することもない、これも仮定に加えよう。

実はそんな時代がかつて一度だけあった。それは、古代ギリシャ・ローマである。これらの時代の中でも特に繁栄した時期は奴隷制の上に成り立ち、今AIに肩代わりしてもらおうとしている労働は、全て奴隷が行った。当時は奴隷といっても戦争で得た捕虜や、破産した元貴族などが奴隷になり労働に従事したが、生活は市民と共にあり、また医者や弁護士などの高度な専門職に従事する奴隷もいた。どのような労働においても代替可能な点で、当時の奴隷をAIになぞらえるのは適当だろう。そんな時代において裕福な人々はどう暮らしていたのか?そこからは我々が学べることも多いだろう。

古代ギリシャの人々は主に哲学や政治の議論を好んだ。哲学では万物の根源=アルケーを問い、ミレトスのタレスがアルケーは水であると論じた時点から哲学は始まった。ソクラテス・プラトン・アリストテレスといった偉大な哲学者たちも輩出した時代である。また、芸術も秀でており、アイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスの三大悲劇詩人に代表される詩作は演劇として毎日公演が開かれ、また彫刻はミロのヴィーナス・サモトラケのニケ・ラオコーンが代表作で、現代でもルーヴルに展示されているほどである。

一方古代ローマの人々は学問に加えて娯楽も求め、コロッセウムでは剣闘士たちの戦いを楽しみ、テルマエ(公衆浴場)に度々足を運んだ。あるいは上級貴族であればワインと共に美食を極め、果てには食べたら吐きを繰り返したそうだ。そんな古代ローマ人の豪快な生活は「パンとサーカス」という言葉に象徴される。そのほかには建築技術が発展し、ローマ・コンクリートは現代では再現できないロスト・テクノロジーであり、またガール水道橋は中世になっても使われ続け、中世ヨーロッパの人々は悪魔が作ったと信じていたそうだ。

どちらの時代も裕福な人々は自らが働く必要はなかった。そして両者の時代に共通して言えるのは、人々は仕事がなければ好きなことをして生きていく、ということだ。持論だが、人間ができること全てをAIが代替可能になった時が来たとしても、1つだけできないことがある。それは、芸術だ。もちろんAIはピカソやベートーヴェンの作品を作ることはできるが、作品を完成させることはできない。人間が芸術作品を鑑賞して感動する時、その感動には作品の巧拙だけでなくその作品ができるに至る背景・作者の伝えたかったもの・そして作者の人生までもが含まれる。そして特に最後の人生、これだけは生身の人間でないと表現できないものである。つまり少なくとも芸術は人間が関わり続けないといけない。もちろんAIが何でもできるからといって人間は何もするなという決まりは流石にできないだろうし、何をしてもいい。

ここで言いたかったのは人間が仕事をしなくてもよくなった時、それが何であれ自分の楽しみがあれば従来通り、果てには従来よりも格段に幸せな人生を送れるということだ。逆に言うと、ただ生きているだけの人にとってはそれはディストピアかもしれない。技術がいくらあっても社会がそれに対応しきれないのは往々にしてよくあることで(例えば自動運転技術がまさにそれだ)、我々が生きているうちに誰しもが不労所得だけで生きていけるようになるとは思えない。しかし仮にそうなった時の道しるべが1つもないのでは路頭に迷う人も出てくるだろう。こういった議論は今後20年間ぐらいはいくらでも出てくるだろうが、まず1つ歴史に習うという視点を紹介できていれば幸いだ。現代人の老後もまた同じように趣味に生きることになりそうなのでここに記しておいた。

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