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泣いていたら分からない『ミュウツーの逆襲』⑤

⑤ラストシーンについて

さてここからいよいよラスト20分の考察をしていきたいと思います。
このラストシーンは感動のシーンとして今でも語り草にされますが、冷静に見ると、何が何やら、哲学的な台詞、抽象的な表現、何が起こったのか全く説明しない描写ばかりで、おそらく観客の誰もこのシーンの意味についてその時は考えていなく、映像に感動して文字通り涙で前が見えなくなってしまいます。ただ誤解をされたくないのは、それを否定しているわけではなく前書きでも述べましたが、『ミュウツーの逆襲』という映画はシーンや台詞の意味を分からなくても面白いし、感動するのがこの映画の素晴らしいところだと断言出来ます。
そしてそれがこの映画の優れた作画とか音響といった演出の妙だといえるでしょう。

まずは、その演出について見ていきましょう。悲しい音楽とともに同族のポケモン同士による闘争のシーンが始まります。
このスローモーションの演出はおそらく『2001年宇宙の旅』の猿人同士の殺し合いのオマージュではないかと思います。なぜこのシーンをオマージュしているのかを解説するにあたり「キラーエイプ仮説」というものを説明する必要があります。
キラーエイプ仮説とはWikipediaによると
「戦争や個人間の攻撃性が人の進化の原動力となったとする仮説。人類の祖先が強い肉食性であり、それによる大きな攻撃性が他の霊長類とは異なっていたことが人類を他の霊長類とは異なった種として進化させた要因であった。さらにこの攻撃性は人類の本性として残っており、殺人本能となっている。」ということを唱えた仮説です。
この説明を人間からポケモンに変換させればわかりやすいと思います。つまり本物とコピー、生き残るのはより強い攻撃性を持って同種を殺害する方である、というのを説明するためにこういう演出になったと思います。つまり普段はポケモンバトルというルールのうえで戦うポケモンですが、その本質は殺傷本能であるという主張であると思います。それはある意味人類同士の争いや闘争を暗喩しているのではないかというのは何となく伝わると思います。これについてはその後の人間たちの台詞を聞くことで分かります。

ジョーイ「なんなのこの戦い…本物だってコピーだって、今は生きている」
タケシ「造られたといっても、この世に生きている生き物…」
カスミ「本物とコピー、でも生き物同士、勝ち負けがある訳…」
コジロウ「なんだかんだと言われたら、なんだかなあ」
ムサシ「なんだか気の毒で気の毒で」
コジロウ「自分で自分をいじめてる」
ムサシ「昔の自分を見るようで」
コジロウ「今の自分を見るようで」

人間達は自己存在を賭けた闘争に対してその無意味さを感じています。
何故なら闘争により自己価値の証明をしなくてもいいからです。
これは先ほど提示したキラーエイプ仮説の反論として荀子の性悪説の引用だと思います。性悪説とは「人間の本性は欲望的存在にすぎないが、後天的努力すなわち学問を修めることにより公共善を知り、人間の本性は根本的に変えられないとしても礼儀を正すことができる」と説いたもので、つまり人間は闘争のような欲望は持っているものの、それを抑えて倫理や知性により他人を慮ること出来る生き物であるということです。

互いに戦うポケモンの中でピカチュウとニャースだけは戦おうとはしないのもこれによるものです。
サトシのピカチュウはポケモンというモンスターボールに入ろうとしない、進化を拒否するなどポケモンという実存主義的な自由意志をもったキャラクターとして描かれています。
ニャースも同様、人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団のニャースは、自己存在について割り切っています。
つまりピカチュウもニャースも自己存在を価値を証明するための闘争の無意味さを知っており、他人を慮ることが出来る動物よりも人間に近いポケモンとして描かれている訳です。

人間達の台詞が続きます。

タケシ「ミュウとミュウツーが止めない限り闘いを終わらない」
ジョーイ「生き物は同じ種類の生き物には同じナワバリを渡そうとはしません。相手を追い出すまで戦い抜く、それが生き物です」
タケシ「それが生き物。だけど、ミュウツーは人間が作った」
カスミ「でも今はもう生き物」
サトシ「今は生き物…ミュウもミュウツーも、ピカチュウもあのピカチュウも」

ジョーイの言う通り、今のポケモンは人間ではない動物であり、それがこの後反転することでこの物語は結末を迎えます。


⑴なぜサトシの仲裁で戦いを止めたのか?

この戦いで疲弊して同士討ちのようになったポケモンたちを見たサトシは「もういい、やめてくれ!やめろ!」
と戦闘を止めさせようとミュウとミュウツーの戦いの間に割って入り、石化してしまいます。
これについてはまず首藤氏の意図について引用してから考えてみます。

「サトシはポケモンを戦わせるポケモントレーナーであり、その頂点であるポケモンマスターになることを目指している少年である。
それが、彼の夢だったはずである。
バトルを否定するのは基本的に矛盾している。
しかし、身をもって戦いを止めに入る。
サトシは理屈が分かるほどの大人ではない。
おそらく彼は、自分の矛盾を意識していない。
自己存在の証明などという問いも分かってはいないだろう。
ただ、無意味で悲惨な戦いを目の当たりにして、体が動いてしまったのだ。
意識したのではなく、サトシはそう叫び、体が動いてしまったのだ。
ミュウとミュウツー戦いの間に入って、双方の攻撃を浴びてしまい倒れたサトシは、死ぬのではなく石化して動けなくなってしまう。
ゲームであろうと競技であろうといままでバトルを肯定してきたサトシは、無意識でバトルを否定してしまった。
サトシの行動は矛盾している。だから動けない。しゃべれない。石になるしかない。
「ポケモン」の世界は、ゲームにしろアニメにしろ死を避けるのがお約束だから、このシーンでサトシを死ぬ代わりに石にしたと解釈した方もいるが、脚本を書いた僕にそのつもりはない。
死んだらそれで終わりである。
みんなの祈りで死んだものが生き返るなどという奇跡や神がかりは、僕は好きではない。」

この映画はポケモン映画でありながらバトルを否定していまします。
ポケモンを戦わせるゲームを原作にした映画で、それは本当に正しいことなのか?というラジカルな問いを投げかけてくるとんでもない映画なのです。
なのでミュウツーもポケモンにバトルをさせるポケモントレーナーがまさかバトルを否定して割り込んできたため
「馬鹿な!?人間が我々の闘いを止めようとした!?」と驚いた訳です。
さて、この首藤氏のサトシが石になった理由についてはあまり納得出来るものではありませんでした。脚本上の意味はこれなのかもしれませんが、それはあくまでただの意味でしかなく、作品世界でミュウツーとミュウの攻撃を受けたサトシが石になるという理屈は全くを分かりませんし少し苦しい気がします。やはりこれは死んだという解釈の方がしっくりくる気がします。しかし、「祈りで死んだものが生き返るなどという奇跡や神がかりは、僕は好きではない。」という点には同意できます。では何が起こってこの映画の最大の謎であるなぜポケモンの涙で石化が解けたのか?についてついに考察したいと思います。

⑵なぜポケモンの涙で石化が解けたのか?

この謎を解くに当たってまず初めに断っておきたいのは、この解釈はかなり個人の憶測、仮説のうえに立てた仮説になりますので、正解ではないということです。しかしこの謎を論理的にある程度筋が通っていると思われる解釈をしようとすると、この解釈が一番しっくりきたので紹介します。

今回は探偵の推理パートのように結論を最後に言おうと思います。

まずは、状況の整理からです。
サトシはミュウとミュウツー戦いの間に入って、双方の攻撃を浴びてしまい、倒れたサトシは石化して動けなくなってしまいました。駆け寄るピカチュウの電撃による蘇生も空しく、石のままです。そんな献身的なピカチュウの姿を見た本物のポケモンもコピーのポケモンも涙を流し始めました。そして不思議な力により何故か涙はサトシの元に集まり、サトシが輝いていきました。その涙によりサトシの石化が解けて意識を取り戻します。ポケモン達は嬉しそうに声を上げました。
客観的に列挙するとこんなご都合主義な童話みたいな話はありません。

さてこの超常現象を引き起こしたのは一体何者でしょうか。この場にいる容疑者全員について一人ずつ考えてみます。

 まず、一番考えられないのはトレーナー達です。これは普通にあり得ません。彼らにはそんな力は有りません。

 本物とコピーポケモン達の可能性は一考の余地があります。彼らの「涙」には石化を解除する隠し設定があるのかも知れません。しかし、これが結論ならあまりに唐突過ぎますし、結論ありきのご都合主義が過ぎるというものです。

 トゲピーはどうでしょうか。実はこの映画で唯一コピーされていないポケモンです。これについては少し本気で考えました。原作初登場の金銀版の図鑑の説明では「カラのなかに しあわせが たくさん つまっているらしく やさしくされると こううんを わけあたえる という。」とあるように何だかそれっぽい説明がされているようにも見えます。サトシが復活した後に無意味にカスミのバッグから出てきて存在をアピールするところも怪しいです。しかし、仮に今の今まで皆が存在すら忘れていたであろうトゲピーが起こしたものだったということだとしたら、作劇上、あまりに描写不足でその推理に納得いく要素は有りません。ミステリーにおける意外な犯人という意味では確かにそうかも知れませんが、あまりに視聴者にアンフェアな結論のような気がします。

ミュウとミュウツーはどうでしょうか。ミュウはこの世界において神の存在であり、命を奪ったり与えたり出来る存在です。ミュウツーもミュウとは同一個体から生まれたコピーですので十分にその力が備わっていると思います。実は、特にミュウがこれを引き起こしたのだと当たりを付けて考察しようと思い、この文章を書き始めたのですが、もう一度観返したところそれは違うということに気が付きました。なぜならこの超常現象が起こっているのを目の当たりにしたミュウとミュウツーは、何が起こっているのか分からない様子で辺りを見回すシーンがあるためです。よってこの二体も違うのではないでしょうか。

では一体犯人はだれなのでしょうか。そろそろくどくなってきたので、結論を言います。

サトシの石化を解いたのは、アイツーなのではないでしょうか。

②においてアイツーはどこに行ったのかについて考察しましたが、アイツーはミュウツーの潜在意識としてミュウツーの中に生きているのではないかという仮説を立てました。そしてこれを起こし得る能力を持っているミュウやミュウツーがやっていない以上、ミュウツーの中に潜むアイツーの意識がミュウツーの能力を使ってそうさせたというのが僕の結論です。それに気付かないミュウツーを見るにいわば、ミステリーでいうところの二重人格トリックなのではないかと。
何度も言うようにこれはあくまで個人の見解でしかないので、正解ではないですが、一応根拠らしきものを見つけたので説明します。
それは下の画像のシーンです。

石化したサトシへポケモン達の「涙」が集まってくるシーンですが、こことは別にこのシーンと同じことが起きているシーンを見つけました。
それが次の画像です。

アバンのミュウツーのテレパシー世界からアイツーの意識が消え掛かっている中、街から無数の光が天に昇っていくシーンが描かれています。そしてここのアイツーの台詞を抜粋します。

「ミュウツー、生きてね。生きているってきっと楽しいことなんだから」

つまり消滅する中で、アイツーはミュウツーに生きることを願ったシーンなのです。上のシーンでサトシに生きることを願ったと考えられないでしょうか。
しかしそれだけでは、先程の氏のコラムの「祈りで死んだものが生き返るなどという奇跡や神がかり」という言葉そのままに見えます。しかし、今のアイツーはミュウツーの中の潜在意識として存在しています。そしてミュウツーはミュウと同様の力を持っており、石化したサトシを戻す超自然的な力を持っていると考えられるのではないでしょうか。

そしてキーワードは「涙」であるという点。
ここはアイツーがミュウツーに教えるシーンです。
生き物は体が痛いとき以外は涙を流さない、悲しみで涙を流すのは人間だけであると。
つまりここでのアイツーはミュウツーに涙についてもう一度思い出して欲しい、そしてサトシを甦らせることで生きてることが素晴らしいことだというのを伝えたい、という思いでこの現象を起こしたのだというのがこのシーン謎に対する僕の答えです。
また、作劇としても初めのアバンで見せたシーンをラストでまた見せるという円環構造も美しく、とてもしっくりくる解釈だと思います。


⑶なぜミュウツーは去って行ったのか?

この理由についてはここまでの考察を踏まえて考えれば自明です。この一部始終を見て、ミュウツーはこの映画で何度も繰り返される自己存在への問いかけについて答えを出したからです。
その答えをミュウツーはこう語っています。
「確かに、私もお前もすでに存在しているポケモン同士だ」
その答えは言うまでもなく、ポケモンも人間と同じく悲しみによって「涙」を流すことが出来ることに気が付いた、思い出したことにより、そう結論したのです。
ミュウツーは常に自分がポケモンなのか人間なのか、コピーである自分の存在価値とは何なのか、ということについて考えていました。
しかし、本物もコピーも関係なくポケモンは悲しみで涙を流すことの出来る、つまり人間でも動物でもない自分達はポケモンとして産まれ、そこにコピーも本物も垣根は存在しないということに気が付いたという訳です。


⑷なぜミュウツーは記憶を消したのか?

これについてはジョーイさんの記憶を操作していたことからもこの描写に疑問を挟む余地は有りません。しかしその理由については少し考える余地があります。
これは自分たちの存在を忘れて欲しいという解釈も出来ますが、それよりも、ミュウツーもミュウも本物もコピーも同じポケモンであり、そこには違いがないのでこのコピーの存在を誰も知る必要がないというのがあると思います。これは『ブレード・ランナー』と『平成たぬき合戦ぽんぽこ』を思い出しました。それは自分たちが何者であるかということに存在価値があるのではなく、生きているものとして本物も偽物もなく世の中に紛れて生きていくことを選んだという割り切りが記憶を消した理由であると思います。
サトシの「みんなどこへ行くの?」という問いかけの対して、

「我々は生まれた。生きている。生き続ける。この世界のどこかで。」

これはアイをはじめ、ポケモン達の戦いの中、人間達が言っていたことに他なりません。
「私は誰だ」というこの映画で幾度も繰り返されたこの自己存在の問いかけに対し、やっとミュウツーは答えを出して飛び去って行ったという訳です。



まとめ

記憶を消されたサトシ達は港に戻っています。そこでの会話がこの映画のまとめという事になります。基本的に小説にしろ映画にしろ物語を締めくくる台詞というのがその作品の一番伝えたいことです。
サトシ「でも、なんでこんなところにいるんだ?」
カスミ「さあー、いるんだからいるんでしょうね
サトシ「ま、いっか」


哲学というものは考えれば考えるほど答えとは程遠い思考の迷路に迷ってしまうものです。しかし、それこそが哲学の本質であり、永遠に生まれ続ける問いかけに対して、死ぬまで考え続けることに意味があるのだと思っています。
この映画においても
「ここはどこだ」「私は誰だ」「何のために生きている」
という自己存在の問いかけに対し、
「いるんだからいるんでしょ」
という回答になっていない回答が提示されます。
これはデカルトの「我思う、故に我あり」であり、
“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である
というのがこの映画のもっとも伝えたいテーマであると思います。


この『ミュウツーの逆襲』とはどういう映画だったのか。
皆ぼんやりとは考えるものの、言語化するのはかなり難しい映画であることは伝わったかと思います。
しかし、少し立ち止まってこれはどういう意味だろう?何を伝えようとしているのだろう?ということを考えて観てみると、
この映画は100倍面白いし、いくらでも議論に耐えうる強度を持った、
まさに傑作映画であると僕は確信しています。

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