中国科学説話雑識~古代中国のSF的記述~ 3「軌道エレベーター」

「月に架ける橋」と「天に登る梯」

 月と言えば、我々の地球が有する唯一の衛星であり、A・C・クラークの傑作『渇きの海』の舞台であり、そして現実の宇宙開発において重要な役割を期待されている天体です。

 また、我が国では『竹取物語』におけるかぐや姫の故郷として知られています。しかし、中国の元になった話では仙界や天界といった漠然とした設定であり、月と限定されているわけではありません。それどころか、月には高さが五百丈もあり、傷がすぐに塞がってしまう桂の木があり、仙術を学んでいたときの過失の罪を償うために、呉剛という男がいつもこの木を伐らされているのだとも言います(『酉陽雑俎』巻1・天咫)。まるで流刑地です。どうも、元来月世界というのは、あまりよくないイメージで捉えられていたようです。
 また、日本では「月には兔がいて餅を搗いている」という説話が一般的ですが、少なくとも古代中国では、「玉兔」は仙薬を搗いていますし、それよりも「姮娥(嫦娥)」や「蝦蟇」のほうが通俗的であったようです。
 「姮娥(嫦娥)」というのはは、五帝の一人・堯の命令で十個の太陽の内の九つを打ち落としたという羿の妻とされています。彼女が月に行ったことについては、『淮南子』覧冥訓などに、「羿が西王母に不死の薬を請うた。まだ服さないでいる間に、姮娥が盗み飲んで仙人となり、月に逃げてしまった」という説話が語られています。そして、この「姮娥」が月で「蟾蜍」つまり蝦蟇になったという説が、『淮南子』の今は失われて他書に引かれて残った部分などに書かれています。そして月の満ち欠けというのは、この蝦蟇が月を食べるために起こるのだと伝説は伝えています。こちらの説話からも、月はあまりよいイメージは持たれていなかったのではと推測されます。
 そんな月を、「開元の治」を行った皇帝として、そして楊貴妃とのロマンスで知られる唐の玄宗皇帝が訪れたという伝説があります。
 玄宗皇帝が術士に誘われて月の宮殿を訪れ、そこで聴いた「霓裳羽衣曲」を地上に伝えた、というこの物語は、中国では極めて有名であり、後世、舞台演劇にも仕立てられました。その物語にはいくつかのバリエーションがあるのですが、『太平広記』巻22の「羅公遠」(『神仙感遇伝』『仙伝拾遺』『逸史』等より引く)に、次のような一段があります。

開元年間、中秋の十五夜に、玄宗は宮中で月を愛でていた。すると羅公遠が、 「陛下は月へ行ってみたくはございませんか。」

 地上の宮殿と月との間に架ける橋、まさに宇宙へ架ける橋と言えましょう。これは一見、先進的な発想のように思えますが、実際の所、「橋」という建造物の持つ、「渡れない空間を超えて二点を結ぶ」という性質からすれば、自然と導き出される事なのかも知れません。
 また、作用や性質から導くのだとすれば、本来水平に架けられる橋よりは、次のような道具を使う方が自然なのかも知れません。

道術で江南地方に知られた周生という人が、とある寺で数人の人と中秋の名月を楽しんでいて、話が玄宗皇帝が月宮に遊んだことに及んだ。客たちは自分たちにはそんなところに行くことが出来ないと言って嘆いた。周生は笑って、自分は道術を学んでいるので、月を取って懐に入れてくることができると言った。そして彼は一室に百膳ほどの箸を用意させ、それを縄で結んだ。そして「これを梯子にして月を取ってくる。呼んだら見に来てくれ」と言って部屋を閉ざした。暫くすると雲もないのに天が暗くなった。急に周生の呼ぶ声があり、客たちは部屋に駆けつけた。周生が懐から一寸ほどの月を取り出すと部屋は突然に明るくなり、寒さが骨身に浸みた。

 以上は、『太平広記』巻75所収「周生」、また『類説』巻23所収「架梯取月」の要約で、『宣室志』という小説集が出典になっています。
 月は天に浮かんでいるもの、しかも時間とともにその位置を変えます。高度が低いときならいざ知らず、頭上に輝いているときにそこに手を伸ばそうと思えば、梯子を使うのが自然な発想でしょう。
 中国では、天に登るための梯子を「天梯」と呼びます。『楚辞』に収められている漢の王逸『九思』中の一篇「傷時」に、「縁天梯兮北上、登太一兮玉臺」、また同じく漢の劉歆「甘泉宮賦」に「封巒為之東序、縁石闕之天梯」などとあります。ただ残念なことに、その具体的な様子というのは全く分かりません。加えて、たぶんに現実の宮殿に対する讃辞としての比喩的表現、という意味合いが強いようにも思えます。ともあれ、中国の神話研究の泰斗・袁珂氏によれば、これが「天梯」という語の始まりであるようです。そして「天梯」という語は、しばしば高峻な山を表す比喩としても用いられます。そのような高く聳える山の中には、次のようなものもあります。

崑崙の丘は、登って倍の高さに達すると、これを涼風の山という。これに登ると不死になる。その倍の高さまで登ると、これを懸圃という。これに登ると霊となり、風雨を操ることが出来る。その倍の高さまで登ると、もう上天である。これに登ると神となる。これを太帝(天帝)の居という。(『淮南子』墜形訓)

 また、この引用に先立つ記述にも、「禹(夏王朝の始祖)は土を盛って洪水を埋めて大山を作った。崑崙の墟の外を平らにして、中に九層の城を造った。その高さは万一千里、(幅は)百一十四歩二尺六寸である。……傾宮、旋室、縣圃・涼風・樊桐が、崑崙の墟の門の中にある。」ともあります。これほど高ければ「天梯」というのも頷けようというものですが、想像を絶したような高さを誇り天に通じ、また同時に『山海経』海内西経よれば天帝の下界での都ともされる崑崙の山というのは、「禹は土を盛って」云々という記述に従えば、どうやら地上から天空に向けて人工的に築かれたものらしいということになります。
 別の記述を見てみてると、『龍魚河図』では「崑崙山は天の真ん中の柱である。」(『芸文類聚』巻7)としており、『神異経』でも、「崑崙に銅柱がある。その高さは天に入るほどである。所謂天柱である。周囲は三千里、円い周囲は削ったようになっている。銅柱の下には建物がめぐらされている。」(同巻7)となっています。山とはいっても、天に向かってまっすぐにどこまでも高く聳える山を、柱のイメージで捉えたのでしょう。
 どこか「バベルの塔」を思わせるところがある「崑崙」ですが、「バベルの塔」とは決定的に違っている外見上の特徴があります。『海内十洲記』によると、「崑崙」は「鉢のような形で、下が狭く上が広い」と言うのです。地上からのびているのだとすると、随分安定が悪そうです。この形は「軌道エレベータ」のように、静止軌道から吊しているなら好都合でしょうが、それなら軌道から外側にのびた部分がないと釣り合いません。
 このほかに天に通じる山としては、群巫が昇降上下する「霊山」「登葆山」、柏高(柏子白)が上下して天に至るという「肇山」などが『山海経』に見えます。
 さて、今のは山でしたが、『淮南子』墜形訓では、「これを太帝(天帝)の居という」の少し後ろに、次のような木のことが書かれています。

建木は都広にある。衆帝の上下するところである。日が中する時には影が無く、呼んでも響きがない。けだし天の中心なのであろう。

 注釈家の高誘はここに、「建木はその形は牛のようで、これを引くと皮がある。冠の紐か黄蛇のようであり、葉はうすぎぬのようである。都広は南方の山の名である。……。衆帝が都広山によって天に登り、降ってくる。だから上下するというのである。日が中するときには、日は人の真上にあり、影が出来ない。だから、けだし天の中心でなのあろう、というのである。」と注釈を施しています。同種の記述は『山海経』や『呂氏春秋』といった書物にも見ることができます。これもまた、一種の「天梯」と言えるでしょう。しかも崑崙では「登る」方が強調されているだけでしたが、此方では「衆帝の上下するところ」と登りと降りに使われたことが明記されています。まさしく梯子です。おまけに、高誘の注釈の「日が中するとき」云々に従えば、この「建木」は南の地方でも、かなり赤道に近い所にあるということになります。天に通じる梯子としては、かなり地理的に恵まれています。
 この「建木」について、『山海経』海内経には少し変わった記述があります。

木があり、葉は青で茎は紫、花は黒く実は黄色である。名を建木という。百仞の高さで枝が無く、上に九つの[木屬](枝の曲がりくねったところ)があり、下には九つの枸(根がわだかまり交錯したところ)がある。その実は麻のようで、その葉は芒のようである。大皥(三皇の一人・伏羲)がここを過ぎたところである。黄帝が為すところである。

 どうもよく分からない記述です。「百仞の高さで枝が無く、上に九つの[木屬]があり、下には九つの枸がある。」というのは、簡単に言って、チア・リーディングなどで使うバトンのような格好なのでしょうか。また、最後も難しく、古代の注釈家・郭璞は「過」を「経過」、「為」を「治護」と解していますが、神話学者の袁珂氏は、「過」は上下すること、「為」は正しく「造る」の謂だとしています。時代的に言って伏羲より黄帝の方が後なのですが、ともあれ、袁珂氏の説に従えば、この「建木」も、「崑崙」と同様に人工の「天梯」であるということになります。
 このほかに神話に語られる大樹としては、日本の別名としても用いられる「扶桑」や、「若木」などがありますが、袁珂氏が「みな高さが数百丈、数千丈乃至千里の大樹と雖も、これによって天に登ることができるとは言っていない」と指摘するように、「天に至る」というような記述はどこにも見いだすことが出来ません。残念ながら「天に通じる」大樹は、ここに挙げた「建木」だけのようです。

【テキストと参考文献】
汪紹楹 点校『太平広記』(中華書局、1961年)
汪紹楹 点校『芸文類聚』(中文出版社、1980年)
方南生 点校『酉陽雑俎』(中華書局、1981年)
馮逸・喬華 点校『淮南鴻烈集解』(中華書局、1989年)
曽慥『類説』(《四庫筆記小説叢書》上海古籍出版社、1993年)
今村与志雄 訳注『酉陽雑俎』(平凡社、1980年、1981年)
高光・王小克・汪洋 主編『文白対照全訳・太平広記』(天津古籍出版社、1994年)
袁珂『中国神話伝説詞典』(上海辞書出版社、1986年)
武田雅哉「中国飛翔計画図説」13(『しにか』1995年4月号、大修館書店)
徐朝龍『三星堆・中国古代文明の謎―史実としての『山海経』―』(大修館書店、1998年)
石原藤夫・金子隆一『軌道エレベータ―宇宙に架ける橋―』(裳華房、1997年)

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