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カレーから見る世界史5(ジャガイモの伝播②)

北海道での栽培と全国展開

ジャガイモは、18世紀には北海道で栽培されるようになった。

長崎から伝わったものと考えられますが、ロシアから持ち込まれたという説もある。
その後、天保7(1836)年に蘭学者の高野長英が『勧農備荒二物考』を表し、穀物の不作に備える救荒作物としてソバとジャガイモの栽培を提唱するなどして、主に東日本に普及した。

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一方、同じ救荒作物で、青木昆陽が享保20(1735)年に『蕃薯考』で提唱したサツマイモは17世紀初頭に沖縄に、18世紀初頭に鹿児島に伝わり、その後、主に西日本に普及した。

ジャガイモの北海道での本格的栽培は、入植が本格化する明治以降のこととなる。
実は、全国的にジャガイモが食べられるようになるのも明治後半で、20世紀に入ってからのことである。今ではカレーの定番であるジャガイモだが、明治後半になるまでカレーのレシピにジャガイモは登場していない。

では、ジャガイモ栽培の歴史的トピックを見ていきましょう。

明治24(1891)年、京都の志方之善、丸山要次郎らが北海道の中焼野(今の今金町)に入植、キリスト教徒だった志方は「神と共にいます」という意味の「インマヌエル」と名づける。

明治26年には今村藤次郎、金森石郎らも入植し、1896年には市街地の設置を計画し、宅地の区割りを行い、役場や警察など強教師説公共施設の予定地も設け、町の基礎を作った。

そのため町名は今村の「今」と金森の「金」をとって「今金町」となった。

同年には、埼玉のキリスト教徒・天沼三郎らも「インマヌエル」に入植、翌年には志方の妻である日本初の女医・荻野吟子も移住(二人は1890年に結婚している)する。しかし、志方と吟子はのちに「インマヌエル」を去ることになるが、これは志方らと天沼らとの教派の違いが影響しているとも言われる。

この今金町は、日中の気温が高く、夜間の気温が低いというジャガイモの生育に適した気候で、入植当初よりジャガイモの栽培が行われていた。今日では「今金男爵」という品種が特産品になっている。

イモ男爵の悲恋

さて、現在もジャガイモの主要品種である男爵イモは、明治40(1907)年、川田龍吉(かわたりょうきち)男爵が、函館に導入したものである。それには男爵の青春時代が影響していると言われている。

川田龍吉は、安政3(1856)年、土佐の郷士・川田小一郎の長男として生まれた。身分としては武士であるが、畑を耕さなければ生活できまなかった。父・小一郎は同じく土佐郷士出身の岩崎弥太郎と知り合い、岩崎が三菱財閥を育て上げるのを、常に支え続けた。その関係から、明治3(1870)年に龍吉は、岩崎が大阪に開いていた英語塾に入学、4年間英語を学ぶ。そして岩崎の支援で22歳のときにイギリスのグラスゴーに留学し造船技術を学ぶ。
そのイギリス滞在中の27歳のとき、資料を探しに立ち寄った本屋で、店員であった19歳のジニー・イーディーと出会い、恋に落ちます。当時、イギリスではジャガイモは主要な作物で、二人もよく焼きジャガイモを食べたと言われている。

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龍吉は、おそらくその当時の様子と思われる内容を、後年姪への手紙につづっている。

 かつて私がグラスゴーに滞在していたとき、夜分のことであるが大きな車を引きながら、ホキーポキー、ホキーポキーというて売っていたから買うてみた。それがジャガイモの焼いたもので、車にカマを取りつけ、焼きながら売って歩いていたが、皮つきのままでもなかなかおいしかった。

龍吉はジニーと結婚の約束をして帰国。しかし父の反対で結婚することはできず、1887年土佐の名家の娘・楠瀬春猪と結婚する。

明治26(1893)年、横浜船渠会社の設立委員となり、明治30(1897)年には社長に就任。なお、この前年には父が急死し、後をついで男爵となる。
しかし、明治36(1903)年に辞職、軽井沢に農場を開き、農耕馬の育成や西洋野菜の栽培を始める。このとき西洋野菜の一つとしてジャガイモの試作を行った。

明治39(1906)年、龍吉は函館船渠会社専務取締役として北海道へ赴任することになるが、龍吉は、軽井沢の農場から人を呼び寄せ、函館郊外の七飯(ななえ)村で農場経営を始める。

函館の気候風土が青春時代を過ごしたグラスゴーに似ていることに気づいた龍吉は、グラスゴーで慣れ親しんだジャガイモの栽培が向いているのではないかと思いつき、本格的な栽培を計画、イギリスとアメリカからいくつかの種芋を輸入する。

そして、明治40(1907)年、いくつか試した品種の中で有望だったアイリッシュ・コブラーの導入を決定する。さらに明治44(1911)年には、函館船渠を退社して、農業の近代化に専念する。

大正時代の末、龍吉了承の元、七飯農会が同村産のアイリッシュ・コブラーに「男爵薯」と名づけ、ブランド化を図り、これが全国に広まった。

昭和26(1951)年、「いも男爵」とまで言われた龍吉は95歳で亡くなった。

さて、大正13(1924)年、農場を龍吉から引き継いだ五男の吉衛(きちえい)は、資料を整理しているときに、金庫から一房の金髪が入った小箱を発見する。そして龍吉の死後26年経った、昭和52(1977)年、龍吉の遺品である蔵書の間から90通にものぼる手紙が発見され。それはジェニーから龍吉に宛てたラブレターだった。

ジャガイモは龍吉にとってジニーとの思い出だったのかもしない。

なお、大正時代に発見されたジニーのものと思われる金髪は、龍吉の死後行方が分からなくなってしまった。

龍吉の尽力もあり、日本に普及したジャガイモだが、水分が多いために重く腐りやすい欠点を補うために、でんぷん生産の方が盛んになる。

第一次世界大戦でヨーロッパが戦場になると、ヨーロッパ向けの輸出が増えて一気に増加、戦争終了とともに一時衰退するが、第二次世界大戦末期から再び需要が高まり盛んになった。

アイルランドとジャガイモ

12世紀初めに、アイルランド国内の権力闘争で、反イギリス政権が誕生するのを警戒したヘンリー2世が軍を率いて平定し、アイルランド太守となる。しかしヘンリー2世がアイルランドを離れると、コノート侯ローリー・オコナーが反旗を翻す。プロテスタントのイギリスとカトリックのアイルランドの宗教対立でもあり、以降、延々と抗争が続くこととなった。

1641年、アイルランド革命によってアイルランド・カトリック同盟による統治が行われる。その際にプロテスタントが虐殺されたことに対する報復として、1949年、オリバー・クロムウェル率いるイギリス軍20000人がアイルランドに侵攻、アイルランド軍を破り再占領する。
このとき、アイルランド人口の15から25%程度が殺害もしくは亡命したと一般的には見積もられている。カトリック教徒から土地が没収され、多くが小作人となった。
これがジャガイモ普及の一因となる。

アイルランドにジャガイモが導入されたのは16世紀末。17世紀には作物として定着、18世紀には主食になった。

ランバーという品種一つが広まり、18世紀半ばのアイルランド人は一人当たり一日約4.5kgのジャガイモを食べるまでになった。
その理由は大きく以下の4点である。

1. 寒冷で土地がやせたアイルランドでもジャガイモは栽培できた。
2. 主食の燕麦や小麦が不作でもジャガイモは収穫できた。
3. イギリスに支配され、小作農として地代をはらなくてはいけなかったが、それは小麦であり、ジャガイモの収穫は含まれなかった。そこで農地の3分の2に小麦を植え、3分の1にジャガイモを植えた。
4. ジャガイモの生産には大規模な投資が必要なかった。たいした手間をかけなくても収穫できた。

ジャガイモが普及したおかげで、1754年に約320万人だった人口が1845年には約820万人にまで増加した。

しかし、良いことばかりではなかった。

1845年7月にベルギーでジャガイモ疫病が報告され、翌月にはイギリスでもジャガイモに菌による疫病が発生。フランスやドイツでも確認され、8月末にアイルランドに上陸する。

数週間のうちに全土に蔓延し、ジャガイモの生産量が半減してしまう。
翌1846年は、9割近くが影響に感染するという大被害となり、前年に種芋まで食べたために作付面積が3分の1ほども縮小した。しかもこの年はヨーロッパ全土で穀物が不作という状況であった。

1847年は疫病もなく豊作だったが、前年までの影響によって種芋が不足し、作付けは5分の1ほどにしかならなかった。
1848年には、夏の天候不順でジャガイモ疫病が拡大、さらに麦類も豪雨の被害を受けたため、大飢饉となった。

しかも、食糧不足は他の災いも呼び寄せた。

健康状態が悪化したため、チフス、回帰熱、はしか、赤痢、コレラなどの伝染病も流行し、沢山の死者を出した。餓死した人よりもこれらの伝染病による病死の方が多かったとも言われる。

ジャガイモ疫病は1851年に沈静化するが、それまでに100万人にのぼる犠牲者が出たと考えられている。

アイルランドでこれほど大きな被害が出たのは以下の理由による。

1. アイルランドに被害が集中したのは、単一品種にあまりにも頼りすぎたため。ランバー種1種であったために、一つの疫病ですべての畑のジャガイモが被害を受けることになった。
2. 様々な条件から、国外から食糧を輸入することが難しい状況だった。
3. 飢饉のさなかでも、イギリスは麦などをアイルランドから輸入していた。また、その際には、軍を警護に派遣した。
4. イギリス政府は、アイルランドの救済は、存在しない「地元の救済委員会」の責任だとした。

つまり、人災の側面が非常に大きいといえる。

ジャガイモが作ったアメリカ

この大飢饉を逃れて、アメリカやイギリスの植民地へ大量の移民が渡った。その数は数百万人に達すると考えられている。アメリカへの移民は、1847年度(1846年10月~1847年 9 月)だけで約105000人にも達し、その数は移民全体の約45%に相当した。

しかし、貧しい人たちの飢饉からの脱出というケースが多かったことから、移民船の良好な環境が望めるわけもなく、移民という行為それ自体が危険をはらんでいた。

1847年にカナダへ渡航したアイルランド人は11万人にのぼり、少なくとも1万6000人が死亡したと見積もられている。死亡率は約14.5%にものぼる。
同年のカナダ・ケベック州の移民局の記録によると、5月から11月のアイルランド人移民は約53000人で、そのうち、船内で約2000人、移民手続き所のあるグローセ島と上陸後の病院で、やはり約2000人が命を落としている。

しかも、そのような危険を冒して移民しても、安心安全な生活がまっているわけではなかった。

イギリス領であるカナダは本国の顔色を伺っているので、移民への対応はどうしても後手後手に回り、決して手厚いものではなかった。
すでに独立を果たしていたアメリカでも、カトリック教徒で貧しい人が多かったアイルランド人は、アメリカ人の大多数を占めるプロテスタントからの偏見と差別に苦しむことになった。求人広告に「人材も富む。ただし、アイルランド人お断り」などと書かれることも少なくなかった。

差別が下火になるのは、黒人奴隷解放を歌う北部と、奴隷制維持を掲げる南部が戦った南北戦争(1861~1865)の頃である。

アイルランド移民は北部の工場労働者となっていることも多く、南北戦争では約14万人が北軍に従軍し、北軍勝利に貢献した。その一方、南北戦争終盤には、ニューヨークにおいて、徴兵への不満から大暴動を引き起こしている。当時は、300ドルの兵役代納金を払えば徴兵を免れることができたが、まずしいアイルランド系移民には払うことができなかったので、他民族に比べて徴兵率が高かった。

さらに、北部の自由黒人とアイルランド移民は低賃金労働の仕事を奪い合うライバルであり、黒人には市民権がなく徴兵が免除されていたことが、アイルランド人たちの不満を高まらせた。

その結果、ライバルである黒人を奴隷から解放するということのために、自分たちの命が不公平に費やされているという犠牲者意識が爆発してしまったのである。

そのような苦難を乗り越えたアイルランド系アメリカ人は、現在では約4000万人と見られており、非常に大きなエスニックグループとなっている。

さらに、その中からはアメリカ大統領も誕生している。

35代アメリカ大統領J・F・ケネディの曽祖父は、元々地主だったので食い詰めての移民ではないものの、この大飢饉のとき(1848年)にアイルランドからアメリカへわたっている。

また、アメリカを大きく変えた二人のフォード、アメリカの自動車産業を大きく発展させたヘンリー・フォードと、20世紀前半のアメリカを代表する映画監督のジョン・フォードがいる。

その他、作家のF・スコット・フィッツジェラルドやレイモンド・チャンドラー、俳優で監督のクリント・イーストウッドなど、多くの著名人がいる。

このジャガイモ疫病の大流行の後、アメリカのG・E・グッドリッチが、パナマから「ソラヌム・トゥベローサム」のうち、チリ原産の栽培品種をいくつか取り寄せて、疫病に強い品種を作り出そうと試み、そのうちの一つ「ローズ・パープル・チリ」を栽培して選別、「ガーネット・チリ」、そして「アーリー・ローズ」という品種を生み出す。この「アーリー・ローズ」が世界中のジャガイモの基本品種となったた。

1876年頃に、アメリカに住むアイルランド系の靴屋が、栽培していた 「アーリー・ローズ」の中から発見したものが、「男爵イモ」こと「アイリッシュ・カブラー」となった。「アイリッシュ・カブラー」は「アイルランド人の靴屋」という意味である。

ジャガイモに国を追われたアイルランド人が発見したジャガイモ品種が、世界に広がったのである。

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